「ネイガウス」 「…ん?…ああ、お前か」 「私です」 私は彼の奥さんに声が似ているらしい。それを知ったのは酔っ払った彼がぽろりとそう溢したからだ。見た目なら絶対間違わないだろうけど声は違う。私の声を聞くたび、彼は死んだ奥さんを思い出すんだそうだ。 そんな私の今のお仕事。ネイガウスの監視、それだけ。四六時中ネイガウスを監視して何かあったらフェレス卿に報告する。そんな役を私にやらすなんてフェレス卿は鬼だ、悪魔だ(悪魔は合ってる)。いくら悪魔の犬に落ちたって、四六時中死んだ妻の声を聞かせられるっていうのは酷だろう。 「お前はそんなに暇なのか」 「暇じゃありません、仕事中です」 「…ああ、そうか」 「ええ。そうです」 私は特殊な力を持っていて、そのせいで寝ないでも生きていられる。だからこそ監視役なんだろうけど、もうこれ以上枕を涙で濡らすネイガウスを見るのは辛かった。魔神に身体を乗っ取られて、自分の手で愛する家族を殺して、復讐に生きると決めたのに悪魔の犬に成り下がって。彼の人生は苦渋に満ちている。 「寝にくくないか、半分くらいならベッドを貸してやっても…」 「私、寝なくても平気なんですよ?」 「…あ、ああ…そうだったな」 「でも、お言葉に甘えます」 するりとネイガウスの横に入り込むと、背中を向けた彼が大きく息を吐いた。苦しいなら止めてしまえば良いのに、私に優しくするなんて。それともああ、猫くらいにしか思ってないのかも。眠り方を忘れてしまうくらいに寝ていないのに、どういう訳か睡魔に襲われて私は眠ってしまった。 「…逃げないんです?」 「逃げて欲しかったのか」 「いいえ」 私が目を覚ますとネイガウスは隣で腕に包帯を巻いていた。すぐにベッドから出ると、朝食を用意する。その様子を見ていたネイガウスはまた口を開いた。 「そんなものじゃ腹にたまらないだろう」 「いえ、わりとたまります」 「口答えは良い、これも食え」 ぐいっとお皿を押し付けられて、見るとそこには大きな目玉焼きが乗っていた。言うなれば「敵」という存在にどうして優しくするんだろう。私なんかに情けをかけたって仕方無いのに。この人はどこまでも誠実で優しい人なのだろう、哀しいくらいに。 その日私は珍しくフェレス卿に呼ばれた。なんだろうと行ってみれば、へらへらとした顔で彼はこう言った。 「あなたを監視役から解任します」 私は思わず目を丸くしてフェレス卿に食って掛かってしまった。なんだってクビなのか。もう前ほどこの役目が嫌いじゃなくなったのに。ネイガウスの側に居るのは心地よくて、安らげるのに。 「あなた、ネイガウスに惚れましたね?」 「…え?」 目眩と耳鳴りが一気に襲ってきた。 ネイガウスの部屋に戻って来ると彼は酷く苦しそうに息をしていて、私は急いで彼に駆け寄った。ぐらぐらと残った片面が揺れている。青い夜の生き残り、その手で愛する妻を殺した優しい人。どうしてこう世界と言うのは不平等で、暗く冷たいんだろうか。 「…ネイガウス」 「は…っ、はっ…」 「どうしたの?」 「私、は…殺したのだ、妻を。分かっている、お前が妻では無いこと。この手で殺したのだから…、でも、お前のっ…こ、えを聞いていると…まるで妻が、生きているかのように…っ!」 「……!」 ごめんなさいネイガウス、私はあなたを好きになっちゃいけなかった。あなたは私を拠り所にしていたのにね。だから丁度良かった。私はあなたの前から去るから、居なくなるから、今だけ許して。 ネイガウスが私の名を呼んだ。ああ確かに今あなたが呼んだのは奥さんじゃなく私の名前なのね。 「すまない、悪いとは分かっている。…けれど、頼む。今だけ私の名を呼んでくれ」 涙が溢れそうになって、それを何とか引っ込めて、私はそっと口を開いた。 「愛してるわ、イゴール」 昼間なのに闇に包まれてるみたいな世界で息をする ---------------------- 「酸素」さまに提出しました。 ネイガウス先生にとって奥さんは正に酸素で、未だにそれを求めているのかと思いながら書いてみました。とても好きなキャラクターです。 素敵な企画に参加させてくださってありがとうございました! 9.8.碧 |