その後ろ姿を見ていたら、彼が今にも池に飛び込んで仕舞うような気がして怖くなった。


「宗谷さん」
「…はい」

ぴくりと毛先が動いたように思えた。でもそれ以外は止まったまま。彼は本当に動きの少ない人だった。たった一人で池の鯉を眺めている様子もまるで作り物のようなのだ。

宗谷冬司―…天才と呼ばれ今もなお玉座に君臨し続ける将棋の名人。ある時は神と呼ばれまたある時は悪魔と呼ばれる。私はそんな彼の付き人というやつだった。端的に言えば試合前にふらりと池に鯉を眺めに行ってしまうような人間のお世話役。彼の奇行を見かねた会長が、付き人でもつければ少しはましになるだろうと言ってつけたのが私なのだ。

「…私を池に落とす積もりでしたか」
「いいえ、まさか。それよりお時間が。例のやつも買ってきましたよ」
「ありがとうございます」

近づいてみれば案外彼は話をするもので、最近は意思の疎通が図れるようになった。コンビニで買ってきたブドウ糖を渡すと彼は大事そうにそれを抱えた。

…それでも未だ彼の冷たさには慣れていない。



「ほお、相変わらずやるね、アンタの主人は」
「そうですね」
「主人は否定しないの」
「主人は主人でしょう」

モニター越しに彼の試合を見ていると色んな人に話し掛けられる。女っ気の無い宗谷の周りに私のような女が居るのが物珍しいのだろう。モニターの向こうで彼が笑ったような気がした。ああ、何だか今日は楽しそう。



「お疲れさまでした」
「…ああ」
「防衛おめでとうございます」
「ええ」

彼はどこから見ても天才というやつだった。色んな人から恨まれたりするけれど、それでも努力を止めない。本当の天才なのだ。彼の後ろをついて歩きながらそう思っていた時だった。先程まで微動だにしていなかった彼の背中がぐらりと揺れた。


「宗谷さん!」

宗谷冬司。
なんて冷たい名前……




前日から体調が悪かった彼に気がつかなかったのは私のミスだった。ホテルの部屋で眠る彼を看病しながら小さくため息をつく。幸い近くに試合は無い。それがせめてもの救いだった。会長からは「宗谷に付きっきりで看病して風邪うつされてこい」と怒られた。

「………」
「あ、宗谷さん。大丈夫ですか?」
「…はい」
「ただの風邪ですって。静かにしてれば直ぐ治りますよ」
「君がずっと看病を?」
「ええまあ」

付き人ですから。
この人は今まで私を何だと思っていたんだろうか。追っかけかなにか?…まさかね。身体を起こして水を渡せば、いつもと少し違う顔が良く見えた。ほんのりと頬に赤みがさしている。風邪を引いてやっと人間らしいだなんて、皮肉なひと。

「何か食べますか」
「…特に」
「聞いた私が馬鹿でした。お粥作ってきます」
「あ…」
「はい?」
「…いや」

彼は何かを言いかけたけど止めてしまった。止めて、窓の外を眺めていた。この前の池に飛び込んで仕舞いそうな後ろ姿を思い出した。あの人はずっと一人だったんだろうな。玉座を守り続け、誰にも近づけさせなかったから。それを寂しい事だとあの人は気付いていない。ずっとずっと気付いていない。
廊下をずんずん歩きながら私は泣きそうになっていた。冷たいのも一人なのもきっと彼には辛く無いのだろうけれど、温かさや誰かといることを知らないのはあまりに寂しい事でしょう。一人であの池に沈んでしまっても誰も知らないまま何てそんなの哀しいでしょう。

「宗谷さん」
「…はい」
「お粥、どう、ぞ…っひく…」
「君は」

「春のような人ですね」

それは一瞬の事だった。彼の冷たい声が暖かい春風みたいに感じられた。桜みたいにふわりと舞って私の髪の間をすり抜けていく。

「なに、その口説き文句」
「…、え?」
「宗谷さん、狡いです」

もうとっくに私はこの人の事が好きみたいだ。じんわりと器から伝わる温度が酷く熱かった。春みたいだなんてそんな、こと。それじゃあ私はこれからもあなたを追いかけて良いんですか。冬を追う春みたいにあなたに焦がれて良いんですか。

あの日彼が見つめていた池の鯉が水音を立てて跳ねた。



生きてください左様なら

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cueA」さまに提出しました。

とにかく宗谷さんが好きで好きで堪らないので書いてしまいました。だいぶ捏造が含まれます。ちなみにテーマの優しい人はヒロインとして書いてます。
素敵な企画に参加させて下さってありがとうございました!

8.6.碧


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