「おいでなさい」 そんなに優しい声で話し掛けられた事がなかったから、私はひどく驚いた。その人は私を呼んでゆっくりと抱き上げた。彼が一人で住んでいるらしい庵はとても古い。こんなところに一人で居るのは猫の私でも不思議に思えた。 「黒い猫は不吉だと言いますが、私も同じようなものですから構わないでしょう」 彼は寂しそうにそう言った。彼の言葉は分かるのに私の言葉は伝わらなくてもどかしい。黒猫に話し掛け一人で愛でるような哀しい人。私は彼の孤独を癒したかった。 「…あれ。」 いつものように目覚めると、私はあの人とおんなじような格好をしていた。身体が黒くない代わりに黒い髪が腰まである。貧相だったけど着物も着てるし、私は嬉しくなってあの人のところへ走って行った。藪を潜り抜け塀を登って庭に降り立つと、丁度縁側にもたれ掛かっていた彼は眼鏡の中の目を丸くした。 「…一体、どこから」 「塀を乗り越えて!」 「はあ…。」 「あのっ、お名前、教えてください!」 「…?…山南、といいます」 「山南さん?」 私は猫の中でもかなり賢い方だったから(野良で生き抜くのは大変だ)、人間に名前があることくらい知っていた。彼は不思議そうな顔をしていたけど、ちょっとだけ嬉しそうだった。 「山南さん、山南さんはお一人なんですか」 「…ええ」 「あっちにはたくさん人がいるのに?」 「私は幽霊のようなものですからねえ」 穏やかな口調で彼は言っていたけどわたしは知っている。幽霊っていうのはお化けのことで死んだ人がなるやつなんだ。おかしいな、山南さんは生きてるのに。 いつもみたいに山南さんの膝に座りたかったけど、人間になった私がそれをするのは何だか不自然な気がして止めておいた。 「貴女は、どこから来たんですか?」 「私ですか?…私は…」 「言いたくないのなら構いませんよ」 「あっいえ、よく…分かんないだけです」 そう言えば山南さんは目を丸くして、それから私の頭を撫でた。ああ、何だかいつもみたいだ。いつもみたいに触ってくれる。すごく…嬉しい。目を細めていたら山南さんはくすりと笑った。 「なんだかいつもここへ来る黒い猫に似ていますね」 「……えっ」 「おや、失礼でしたね、すみません。」 大正解なんだけど、と思いながら私は言葉の通じる嬉しさを噛みしめた。人間って不便だけど楽しい。だって山南さんとお話しできるんだもの。 それから私は山南さんといろんなお話しをした。流石の私も知らないことが多くってたくさん勉強もした。山南さんとお別れした後はこの呪いがどんなものかも調べた。古い御伽草子を見る限り、私が自分は猫だと言ってしまわなければ元には戻らないらしい。それなら多分、大丈夫だ。 私が人間になってから五日。その日もまた同じように山南さんの所へ向かっていた。山南さんは私の髪についた葉っぱ(藪を通って来たせいでついた)をとってくれた。 「………」 「山南さん?」 「あ、いや…。最近ここらで黒猫を見ませんでしたか?」 「、いいえ」 「…そうですか…。今まで毎日のようにここに来ていたんですがね……遂に猫にまで避けられてしまったのですかね」 「そんな…」 彼は私が来るのを楽しみにしていてくれた。それなのに私、自分の欲だけで彼を傷付けてしまったかもしれない。だって今の私は山南さんを死人のように扱っている人たちと同じ"人間"なんだから…。そのうち居なくなるのだろうと思われても仕方がない。 「山南さ…」 「はい?」 「あの、ですね、お願いがあります」 「何でしょう。私の出来ることですか?」 「はい。ええと…私を抱き締めてくださいませんか?」 「え、?」 山南さんはひどく驚いていた様だけど私の顔を見て深く頷いた。まるで日に焼けていない白く長い腕が私を引き寄せる。それでもやはり剣豪だけあって力強かった。山南さんの膝に座って山南さんの胸にしがみついて私はちょっとだけ泣いた。泣くのもしゃべるのも、こんな風に抱き締めて貰うのもこれが最後だ。私は猫に戻ろう。私はずっと貴方の傍に居るんだって伝えよう。 「山南さん」 「はい」 「私、猫なんです」 「…え?」 「貴方を好きで人間になってた、黒猫です」 「あな、た…」 「山南さん、好…」 私は猫に戻った。 そして彼は目を細めて穏やかに笑った。 「私にそれを伝えにきてくれたんですね、ありがとうございます。不吉だなんて言ってすみません」 山南さんは小さな私をぎゅっと抱き締めた。ああ、こんなでも私はこうして貰えるのね。 それは穏やかで柔らかい抱擁だった。 (二人だけの病気) ----------------------- 「あなたの口癖」さまに提出しました。 相変わらず山南さんが大好きです。優しくて柔らかい抱擁が書きたくて書いてみました。 素敵な企画に参加させてくださってありがとうございました! 8.12.碧 |