前を見ないで歩いていたら、勢いよくぶつかっておれの眼鏡は地に落ちた。瞬間、──べきん、と小気味の好い音が鳴り響く。え、もしかして今のは、おれの、眼鏡が、砕ける音、かな? 足元から顔までは二メートル弱あり、おれの眼鏡は無事なのかそうでないのか全くわからない。ただ自分の足にそんな感触はなかったから、おれが踏んだということはないが……どぎつい乱視とどぎつい近視を患うおれの視界はかなりぼんやりとしていて、周りに何があるのかもわからない。近くに人がいて、その人がおそらくおれと同じズボンを履いていることから学生だとは思うのだが、この人がおれの眼鏡に関わっているという保証はない。ヤ、ヤバい、これじゃあ眼鏡を見つけることも学校に行くも、家に帰ることさえままならない。親に連絡して助けに来てもらうか? でも親だって仕事行ってるぞ、ど、どうすんだおれ……!


「あー……悪ィ、お前の眼鏡踏んじまった」

「えっ、あ……そう、ですか」


 ソウダトオモッテタンダヨネー。確定大当たり的な? おれ、パチンコのことよくわかんないけど。あー、どうしよ、踏まれたのは決まったんだから、どうせ学校行ってもなにも見えないんだしおれはひとまず家に帰らなくちゃならなくて、親に学校に連絡してもらうよう頼んで、えーと、えー、っていうか、眼鏡踏んだって言ってもどこ踏んだかはわかんないよな!? もしかしたら致命的なことにはなってないかもしれないし!


「すみません、レンズは? レンズは無事ですか?」

「……大破してるな」

「ワア……」


 どうしようもないなそれは。レンズさえ無事ならかけられなくても家には帰れそうだと思ったのに……人生はそんなに甘くない。こんなとこでそんなことを理解したくはなかったな……。なまじ期待してしまっただけにつらいが、しかしそんなふうに落ち込んでもいられない。辛いことがあっても生きていなきゃいけないのも人生だ──親の口癖である。嫌な口癖だがおれもそう思うので、どうにか頑張って、おれ。
 他人事のように自分を応援しながらもとりあえず家に帰らなきゃと思い踵を返すと、「おい」という声とともに鞄を引っ張られて引き止められる。え、ちょ、なに? 軽く振り向いてみても相手がどんな顔をしてるだとかどんな表情をしてるだとかは全くわからない。


「えっと?」

「割っちまったから弁償する。いくらだ」

「あ、いや、気にしないでください。おれもぼーっと歩いてたんで」


 それにどうやら相手も学生のようだし、おれの眼鏡は度が強くてそれなりに値段の張るものだから貰うのも悪いので、胸の前でぱたぱたと手を横に振る。顔もわからない相手から毟り取るなんて余計に申し訳ないというか、心に嫌な感じとして残るというか。目の前の人はがさごそと動いている。……もしかして財布出そうとしてる? え、いやマジでいいのに。思っている間に何かを突き付けられた。紙……のような、あ、もしかしてお札ですか。ちょ、え、十枚くらいないかこれ……? 千円札十枚入れてる人なんてまずいないと思うんだけどいやまさか十万ってこともないだろうしアハハハハハ。


「本当に! 大丈夫なんで!」

「いいから受け取れ」

「ちょ、ほんと、」

「何やってんだ、お前ら」


 おーっとここで乱入者、っぽい! 声の方向に振り向くとぼんやりとした赤い影。声にも聞き覚えがある。「あー、もしかしてキッド? ユースタスさん家のキッドくん?」と声をかけてみれば「見りゃあわかんだろ、ミョウジん家のナマエくんよォ」とノリのいい返事がおれに返された。今眼鏡してないんだから見えないに決まってんだろというぶつけようのない怒りはさておき幼馴染みの乱入にほっと一息ついたところで、キッドが今お前らと言ったことに気がついた。目の前の人はキッドの知り合いなのだろうか。


「で、トラファルガーてめェはなんでナマエに金押し付けてんだ?」


 トラファルガー、だと……? おれでも知っている学校の有名人だったことに驚きが隠せない。トラファルガー・ロー、お坊っちゃんで、金持ちで、イケメンで、成績も学年一位で、運動神経も悪くないのに変に偉そうなわけでもない完璧超人……らしい。隣のクラスなのでたまの体育での合同授業のときはキッドと張り合っているのをよく見る。おれは巻き込まれないようにキラーと一緒に離れているからあまり関わりはないのだけれど。


「ぶつかった弾みにこいつの眼鏡が落ちてそれを踏んだんだ。ほら」

「見事に粉々じゃねェか」


 ぷ、とキッドに軽く笑われたので殺意が芽生えた。お前おれの目がどれほど悪いか知ってるよな? 結構本気でいらっとしたのがわかったのか、キッドのやつは笑いながらも謝ってくる。若干ムカつくが、おれは下手に出なければならない理由があった。ガッとキッドの肩をつかむ。


「キッドに頼みがあるんだけど。マジで後生。すげェヤバい。お前にしかできないこと」

「あ? なんだよ」

「おれのこと家まで送って」

「はァ?」

「目が悪すぎてここから一歩でも動くと他人に迷惑をかけることになるから今すぐおれを家まで送ってくれ。家にスペアの眼鏡あるから」

「うっわ、めんどくせェ……」


 どんな顔をしているのか、まったく見えないけれどおれにはわかる。あからさまに嫌そうな顔をしているに違いない。キッドはそういうやつだ。薄情者! と罵らないのは、幼馴染みゆえにこいつのことを知り尽くしているからだ。強面な顔だし、性格も尖ってるけど、キッドはいつだって仲間思いのいいやつである。キッドならそんなことを言いつつも絶対おれを送ってくれると信じてい「今日一限小テストだから無理だな」……る? は? こいつ今断んなかった? しかも理由がおかしい。


「お前がテストとか言うキャラかよ!」

「色々あんだよ、おれにも。トラファルガーに頼めよ。じゃーな、先行くぜ」


 言って、キッドは本当に先に歩き出してしまった。あいつ……マジか? マジで言ってんのか? いや、歩き出したってことはマジで言ってるんだろうけれど。「クソキッド! てめェ次のテストん時助けてやんねェからな!」と捨て台詞を叫んだら赤い塊は少しだけ動きを止めた。そうだろ、お前、おれがいないとテストを乗り越えられ……って行った! あいつ手振って行った!! あ、ヤバい、泣くかも。小テストに負けたおれ。つら。


「おい、何もそこまで落ち込むことねェだろ……」


 若干引いたような声色ではあったがトラファルガーくんが声をかけてくれた。なんていい人なんだ……おれとキッドが下らないこと言ってる間にいくらでも逃げられただろうに。クソ、許せん……キッドのやつ……! いや、小テストは大事だけどさ! おれと小テストどっちが大事なのよ! はーい、小テストですね〜、しってます〜、さっき知りました〜!
 脳内でそんな寸劇を繰り広げたところでまったく意味はない。……キッドが悪いんじゃないのはわかってんだよ。悪いのはぼーっと歩いてたおれだってわかってんだけどさ! とりあえず帰る前に気を使ってくれたトラファルガーくんに頭を下げる。


「すみません、おれは一回家に帰ってみるんで……トラファルガーくんは気にしないで先に行ってください。小テストなんでしょう?」

「別におれの頭の出来なら小テストくらい受けなくても問題ねェよ」

「それはまあそうだと思いますが……」


 だからと言ってトラファルガーくんについてきてもらうのは気が引ける。キッドなら別に小テストサボらせてもさほど、という感じだが、ほとんど関係のない他人で、尚且つ成績優良者だ。おれのせいでどうこうなったらマズい。トラファルガーくんの言う通り、たいした問題にはならないと思うけど、それでもやっぱり申し訳ない。
 トラファルガーくんは、「はーっ」と分かりやすいため息をついたあと、がさごそと鞄を漁り始めたようだった。え、なに? 金なら受け取らないぞ?


「ほら、度はあわねェだろうが、ないよりマシだろ」

「え?」


 差し出されたのはどうやら眼鏡ケースのようで、あ、トラファルガーくんってコンタクトだったんだ、へー、なんて考えつつも受け取ってしまった。マジか。トラファルガーくん優しすぎだろびっくりした。正直裸眼で帰るのは厳しいのでお言葉に甘えてかけさせてもらう。あ、でもおれとトラファルガーくんじゃ顔のサイズ違いそうな気もするんだけど眼鏡歪んじゃったらどうしよ……あー広がった今確実に広がったクソ、トラファルガーくんの顔が小さいんであっておれの顔がでかいんじゃない。ああそうだ。目蓋を開くと、見知ったトラファルガーくんの顔があった。


「おー、あー!」

「見えんのか?」

「おう、結構よく見え……ます」

「取って付けたような敬語だな」


 トラファルガーくんが喉の奥で笑う。ついでに楽しそうに破顔。うわー、綺麗な顔してんなあ、隈すごいけど。おれもつられて笑う。この感じなら敬語じゃなくてもいいのかなと勝手に思うことにして、おれは頭を下げた。


「えーと、ありがとう」

「大したことじゃねェよ。見えんのか?」

「おう、これなら割りと。借りて平気なのか?」

「構わねェ。じゃあとりあえず今日はそれで過ごしてくれ。悪ィな」

「いやいや! こっちこそ眼鏡借りるようなことになってごめん。前とか全然見てなくて」

「おれもだ」


 そんな感じで話しながらおれたちは学校に向かい、帰りにかなりお手数だがおれの家に寄ってくれることになった。トラファルガーくんは弁償したがり、おれは帰りにはキッドの首根っこ捕まえて帰るからいいと譲り合ったので、それが妥協点だった。まあ、弁償させるよりはよっぽどいいし、特に縁のなかったトラファルガーくんと仲良くできる機会だから、ちょっと帰りが楽しみだ。

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 教室に入るとぶすっとしたユースタス屋がおれの席でメンチを切っていた。うぜェ、と多少思わないでもなかったが、今回の功労者だ、そんなことを言って機嫌を損ねると今後面倒なことになりかねない。途中で買ったいちごオレを差し出すと余計苛立った顔に変わったが、ユースタス屋はそれを受け取って一気に飲み干した。その光景だけで胸焼けを起こしそうだ。


「よくそんなに飲めるな」

「うるっせェな、で? うまく行ったのかよ」

「当たり前だろうが」


 今回のことは一応ユースタス屋と仕組んだことだ。ぶつかればきっかけ作りになり、そこにユースタス屋が来れば話す仲にはなれるだろうと思っていたのだが、まさか眼鏡が落ちてきて踏むとは想像してなかった。ユースタス屋も微妙に出遅れたせいで多少面倒なことにはなったが、結果としては上々。家まで着いていけるとなりゃあ、家に上げてもらえるかもしれねェし、時間によっちゃあ親に紹介、飯に割り込むということにもなるかもしれねェ。
 おれがそんなふうに内心で喜んでいると、ユースタス屋が恨みがましい目でおれを見ながら、「テストん時ナマエがマジで助けてくれなかったらてめェおれの面倒みろよ」と言ってきた。むしろ望むところだ。ミョウジがお前に構う時間を減らしてやる。そういう意味を込めて頷けば、ユースタス屋は深いため息をついた。


「それにしても、お前がナマエを好きってのはまだ信じらんねェな」

「あ? よさがわかんねェのか、クズめ」

「あァ? てめェそれが協力してやってるおれに対する態度か?」

「……仕方ねェな、じゃあ語ってやる」


 まずは、と口を開いたところでユースタス屋は首を横に振った。聞きたくないという意思表示らしい。まあ、おれが語ったことで好きになった! なんて言われても困るし、おれにとってもその方が好都合だ。話題を転換させるため「席に戻って小テストの勉強でもしたらどうだ?」なんて笑えば、ユースタス屋の眉間のシワはぎっちりと刻まれた。からかったのがバレたようだ。


「誰が勉強すんだよ」

「今なら出るとこ教えてやるぜ」

「あァ? ……メンドクセェな、どこだよ」


 おれが教科書を開いて教えてやるとユースタス屋はなんとも言えない顔で頷いてから席を立ち上がった。ミョウジに言った手前、一応やるつもりらしい。背中からかったるいというオーラが立ち込めているが、そんなことには興味がないのでおれは鞄からスマホを取り出して今日あったミョウジのことを日記につけることにした。……どこぞのストーカーみたいだな。あながち間違ってもねェが。

恥ずかしながらアガって参りました 私としたことが、たかがこれしきでハイテンション(一喜一憂)なんて

mae:tsugi

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