「せ、ん、せーっ!」


 後ろから抱きついてくる気配を察知して、おれは考えずとも身体が動いた。おれが避けたことで後ろから抱きつこうとしていたノウェムはものの見事に身体を壁にぶつけていたが、おれの知ったことではないので無視して職員室へと歩を進める。ノウェムは周りから心配され、手を借りて立たされているようなので早急に職員室に戻らねばならない。しかしながらノウェムの復活はいつも早い。たたたと軽快な足音で近づいてくると、おれの横に立つとおれに見えるように少し前のめりになりながらにこにこと笑みを作る。その顔は当然ながらにまだ幼さを残していた。


「せんせー、無視しないでよー。ねえねえせんせーってば、クロコダイルせんせ!」

「うるせェな、黙ってろ」

「あ、せんせーが反応してくれた! 嬉しい! 好き!」


 イヒヒ、と変な声を出して笑うノウェムにこれと言った反応をすることもなく、おれは歩き続けた。遠回りをしているわけでもないので職員室までの道のりは遠くない。そのうえ早足で向かっているのだから、あと一分もすれば着くだろう。その短い間に、「今日もせんせーは可愛いね!」だとか「触ってもいい!?」だとか頭がおかしいとしか思えない発言をしてくる。そのせいでおれには憐みの目線、そしてノウェムには微笑ましいとばかりの視線が向けられて非常に納得がいかない。人目も気にせず男であるおれを好きだとか公言しているせいで、おれにまで注目が集まるのはごめんだった。
 しかしながら変なところで常識が発動するようで、職員室前になると急に静かになっておれが職員室に入るのを見送り始めるのだ。何故かと聞いたことがあるが、職員室でおれがいじめられたりしたらいけないから、なんて意味のわからない理由を言われた。そう思うのなら学校で公言するのはやめてほしい。結局噂話や廊下で見たことで生温い視線を向けられるのだからたまったものではない。
 職員室に入る間際、はっとしたようにノウェムが言葉を発した。「せんせー今日何時終わる!? 一緒にかえ」。全部聞き取れる前に扉を思い切り閉める。職員室じゃ言わねェんじゃねェのかあのクズ野郎……。おかげで他の教師からはばっちりと視線を向けられているではないか。その視線さえも無視をして、おれは歩を進める。自分の席に着くと、前の席であるドフラミンゴはムカつく笑い方をした。


「フッフッフ! 相っ変わらず絡まれてんなァ、ワニ野郎」

「へらへら笑うな、気色悪ィんだよ」

「フフ、ひでェ言い様じゃねェか。ノウェムもお前のどこがいいんだか」

「知るか。あいつの頭はぶっ飛んでんだろ」

「だろうなァ、……本気みたいだしよォ」


 ニヤニヤ笑っておれの反応をうかかがってくるドフラミンゴを軽く一瞥して「うるせェな、黙って仕事しろ」とだけ言葉を返しておく。ノウェムがおれに対して本気なことくらい、初めからわかっているのだ。だからこそ学校で大々的に叫ばれて迷惑しているのだけれど。ため息をつきそうになったタイミングで、ぶるりと携帯が震える。どうやら幸せを逃さなかったらしい。
 尻ポケットに入れていた携帯を取り出すとメールが来ていた。『今日何時頃終わりそう?』。先ほど聞かれたこととダブる内容に、唇の端がほんの少しだけ上がる。おそらく仕事が終わるであろう時間を打ち込んで、恋人宛のメールを送信した。

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 ようやく仕事を終わらせて時計を見れば、恋人にメールで指定した時間よりも十分ほど早いことに気が付いた。一応『もう終わった』と軽くメールを送信してから駐車場にある車に乗り込む。車を走らせること十分ほどでマンションに着いた。車から降りて携帯片手にマンションの中を歩いていく。携帯に返事は来ていない。もう家に着いていても良い頃なのだが、何か予定でも入ったのだろうか。一瞬そんなことを考えたが、そうならそうと連絡が入るはずなのでただ単にメールに気が付いていないのだろうという結論に至った。
 自分の部屋の前に着き、鍵を開けて扉を開く。部屋の中は既に電気がついており、玄関には自分のものではない革靴が脱ぎ捨ててあった。ああ、もう来ているのか、と一人納得する。たとえ恋人が来ていようが一人の暮らしの家で挨拶をする習慣はないため、さっさと靴を脱ごうとしているとぱたぱたとした足音が聞こえてきた。靴を脱いでいる最中だと言うのに抱きつかれて鬱陶しい。「すこし離れてろ」と言えば素直に身体を離してくる。


「せーんせ、おかえり」


 顔を上げれば、ハートマークでも語尾についているのでは、と錯覚させられてしまうほどに甘ったるい声と共に現れたノウェムの姿があった。ノウェムは学校でいるときと同じように制服のままで、廊下で絡んできたときのようににこにこと笑っている。はあ、と思い切りため息をつきながら靴を脱ぎ、家に上がる。


「家ではやめろっつったろ」

「はーい。クロコダイル、おかえり」

「ただいま」


 ……とまあ、ノウェムは正真正銘、おれの恋人なわけである。年齢差を考えれば法か条例に触れるであろう恋人のノウェムとは、ノウェムがまだ小学生のときに同じマンションに引っ越してきたことがきっかけで交流を持ち、高校に入ると同時に付き合うことになったという少女マンガのような展開で過ごしてきている。だから当然のようにノウェムが本気であることなどドフラミンゴに言われるまでもなく知っている。ドフラミンゴにはそんなこと、考えも付かないだろうが。見当違いの方向からからかってくるドフラミンゴのことを思い出してつい笑ってしまう。ノウェムも何故か笑っていた。


「クロコダイルちょー悪人顔なんですけどやっべー」

「そんな男に付きまとってんのはどこのどいつだ」

「おれです、おれー」


 ノウェムはへらへら笑っていたかと思うとすこしだけ目を細め、「ていうかおれ以外は許さないけど」とよからぬ雰囲気を醸し出している。ノウェムは少々嫉妬深いがゆえにおれに引っ付いてくる人間が許せないらしい。たとえそれが生徒であろうと同僚であろうともだ。だからこそ牽制のために同じ高校に行き、おれに正々堂々と絡むことで誰かが寄ってくる隙を一切作らないようにしているのだが、おれから言わせてもらえばそんなもの好きはノウェムだけである。なんと言ってもうちは男子校だ。それに年も離れているし、生徒から怖がられている方だという自覚もある。なのに誰がおれにそんな気を持って接してくると言うのだ。ノウェムの考えていることはおれにはまるで理解できなかった。


「あ、なんかクロコダイル難しい顔してるー。やだー、おれを前にして考え事? 隙ありってことで襲っちゃうぞ?」

「馬鹿言ってんじゃねェ、飯にするぞ」


 ノウェムの奇行について考えているといつの間にか顔がひどく近付けられていた。それを押しのけて歩き出せば、「はぁい」と不満でもなさそうな声が背中を追ってくる。いつものこと。変わらない日々が妙に愛しかった。

手の届くところ


mae:tsugi

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