降谷零と夜の海にて



――何かが有ると、何かが起きると向かう場所だった。
それは決まって夜の事だ。人々が寝静まる少しくらい前の時間帯を、道すがら、時折洩れ聴こえるテレビからの音や微かな笑い声を背中へ流しながら、気持ちこっそりと、足を向ける場所だった。小学生が1人きりで夜間に出歩く事の危うさを理解してはいたけれど、その場所は、其処へ行く事は、俺にとっては何にも代えられないとても大切な事だった。

黒にも程近い紺々とした世界だ。
光をもたらすのは夜天の星々で、見上げればまるで宝石箱を覗くかのようだった。見上げるだけで、色んな事を忘れられた。煩わしい事も嫌な事も、何も、考えずに済んだ。僅かに星空の映る暗い色の海を、怖くないとは決して言い切れはしなかったが、細やかに寄せては帰る波の音も耳にしていて何処か安心出来た。履いてきた靴を脱いで、素足で砂浜に立つのも気持ちが良かった。呆けたようにそこに突っ立っていたり、座り込んだり、大の字になったりと、とにかく、その時だけはこの世界を独り占めしているような気分が、満足感を与えてくれていた。そういう何かによって、俺はきちんと満たされていた。








――星が降る夜に、彼女に出逢った。
近くに祖父母の家が在るのだと、俺と同じように内緒で此処へ来ているのだと、内緒話をするみたいに声を潜めて笑う。暗がりではっきりとは見えないけれど、月明かりにぼやりと浮かぶ輪郭は知る事が出来た。うなじの隠れる程度に短い髪は、空に浮かんだあの月に似た銀色は、透けていそうな程、綺麗だった。

彼女は名前を、れん、と言った。
「さざなみってかくんだよ。さんずいに、くるまにしんにょうかいて、れん!」 「きみは?なんていうの?どうやってかくかわかる?」楽しそうな、弾むような声だ。どうしてかむずむずする胸元を無視して、その問い掛けに答える。「あめかんむりに、つめたい、の、みぎのやつかいてれいってよむ」「ぜろ、ってもよむんだって」伝わるかな、伝わらないかな、なんて妙に心細くもあったけれど、無事伝わったようで殊更に漣が喜ぶ。きゃらきゃらと、彼女が笑い声を上げる。「れんとれい!にてるねぇ!」「…うん。にてるね」「れいくん。れいくん!」「、なに?」「んーんなんでもないよ!よんだだけ!」にひひとまた笑う彼女につられ、ほんの少しだが俺も笑ってしまった。本当に、よく笑う人だと思った。

「…!!れいくんれいくんっ!うえ!おそら!おほしさまが…!!」
「、あっ!そうだりゅーせいぐん…!」

漣が、パッと空を指差した。
あれだけ楽しみに胸躍らせていたその現象の事をすっかり忘れてしまう程には、彼女の存在に気を取られてしまっていたらしかった。そうだ、流星群だ。テレビの特集でそれを知ってから心待ちにしていたはずの夜空の大変幻を、そこでようやく仰ぎ見る。黒い空一面を、幾多の光が尾を引き駆け巡る。俺も彼女も言葉を全て忘れ去ってしまったみたいに黙り込み、ただただ首を後ろへ倒し続けた。「れいくん、てぇつないでいい?」「!…なんで?」しばらくして唐突にそう尋ねられ、我を忘れ空を眺めていたのに加え、あまりにも予想外な事へ驚いて冷たく聞こえる返しをしてしまう。すぐにハッとしたが、何と言い訳をしたらいいか分からずにそのまま沈黙すると、間髪入れずに漣はまた1つ笑った。「わたしがれいくんとてぇつなぎたいから!」「…ン、ぅん。…わかった。て、つなご」「ん!ありがと!…、いやでもよくみえなくててぇつなげないな、わたしバカか?おたんこなすか?」「?!ぶふっ、」「!あーッわらったな?!ひどい!」「やっ、い、まのは、ごめ、」「わらいやがったれいくんには、ッこーだ!」おたんこなすって。…おたんこなすって。咄嗟に口を押さえるも間に合わず、初めて聞いたけれどその響きだけでとにかく面白い言葉に思わず、吹き出した。それに、笑いやがった、って。これもいきなり口を悪くさせた漣が、がばりと此方へ飛び掛かってくるので反応しきれず後ろへ倒れ込む。軟らかい砂地が衝撃を吸い、あまり痛み無く背中を打つ。俺の上に乗って跨がる彼女が、くすくすと体を揺らして笑う振動が、その遥か奥向こうで流星の降り頻る光景と相俟って、何だか胸を軋ませた。

「、うわぁ…」
「…え?」
「れいくん、きれーだねぇ。おほしさまといっしょに、きらきらしてる…」

うっとりとした、囁くような声だった。
呆気無く、心臓が大きく跳び跳ねた。聞いてはいけないものを聞いてしまったような、じわじわとした焦燥感すら感じたように思う。体に圧し掛かる重みが、布越しの熱が、脇腹に当たる太腿の頼り無さが、駄目だ、と思わせる。思わず彼女を押し退けた。ひいてはあろう事か、今度は俺が彼女を、押し倒していた。

「っわびっくりした、」
「れんもっ」
「、んぅ?」
「…れんも、」

吐き出す言葉を失うかのように、きれいだ…、と、零れ出た。
彼女の瞳はまるで、そう、今尚夜天を縦横無尽に翔け回る星々のようだった。僅かに身動ぐ度にくるりと煌めきが迸る。ずっと眺めていたくなるような、そんな色付きだった 。とても綺麗で、とても艶やかで、ひどくもどかしく感じていた。それはしばらく後になって理解したのだけれど、俺は既にその頃から、彼女に対してほとんど劣情のようなものすら抱いていたという事だった。名前の分からないでいたそれがそんなにも本能と欲にまみれたものであるとは、これに気付き、理解した時、己の本性が如何に人間性を欠いているかを知る事ともなり、いっそ人間を辞めてみるかと全く頭の悪い結論を出してしまいさえしたものである。大体、何歳の時の話だ。考えたくもない。「…そお?」「うん、…すごく、きれい」「そっかぁ…おそろいだねぇ」彼女は尚、くすくすと笑った。








――ある夜、あれはこの上無い満月の夜だった。
肩に腕にと触れ合う程の距離、俺と彼女は身を寄り添わせ、並んで座り、手を繋いでいた。始まりも理由も憶えてはいないけれど、いつからか指と指とを絡め合わせて手を繋ぐようになっていた。手指同士がぴたりと噛み合い吸い付くようだったのが、段々と片方ばかり大きくなってバランス悪くなるようになっていったのも、さていつからの事だったろうか。握り心地が悪くなっていくと唇を尖らせて拗ねる彼女に対し、だけれど俺は俺で、彼女の華奢な手を自分の手で包み込む差が開けば開く程に、満たされていく。

「指の間が痛い…」
「ほんと小さいままだよな漣の手は」
「れー君の成長が留まらないのが諸悪の根元よな」
「留まらないと言えば、キミの微妙に独特な言い回しの進歩も留まらないご様子で」
「うっさ」
「くく、いいと思うよ俺は。面白いし」
「うっっっさ!」

夜中の浜辺に声が響いた。
毛を逆立てる猫のように唸った漣を笑ってやると、肩口に鋭い頭突きが飛んでくる。「イテッ」「ザマァみそ」「みそ?…やっぱ独特だなぁ」「れー君口閉じてくれますぅ?」「アハハ、やだ」「クソみそかよ!」吐き捨てる彼女の頭を、空いている右手を伸ばしてやわりと撫ぜる。中学生になった今でも、数年前とまるで変わらず、砂浜のように柔らかで繊細な手触りだ。彼女は一瞬動きを止めた後、今度はごろごろと甘えて喉を鳴らす、そんな風に俺の手へ擦り寄ってくる。地肌を手の平で摩るように、指々で髪の一掬い一掬いを絡め取るように。手の平が耳を包み隠し、指櫛が首筋を掠めていく。ふと何かを言おうとして、だけれど言おうとしたその何かを、はて何だったか、と首を捻った。「…そだ、れー君これ」「…ん?」「あげる」「え、何これ。…ザラザラしてんな」「それね、死んじゃってるけど、珊瑚だよ」「珊瑚。死んじゃってるけど」「そう、死んじゃってる珊瑚」掌に簡単に収まる、重くはないが、固くザラザラとした縦長の塊一つ。珊瑚の死骸と言うのならきっと色は白だろう。色素の抜け落ちた灰色とも乳白色とも似た白を、本で見た記憶から想像しながら、何とは無しに指先で転がし弄ぶ。

「れー君は、」
「ん、?」
「…。高校、行くとこ決まった?」
「あぁ、うん。そっちは?」
「目星はね。何処にするかはまだ迷い気味だけど」
「そか」
「今まで長かったようで、短くもあったのかなぁ」
「…短かった、かな、俺的には」
「そうなんだ?」
「うん」
「そか」
「…そっちは?」
「うー、ん、…どっちもだしどっちでもないかな」
「ふわふわした回答だなぁ」
「実際此処に居る間はずーっとふわふわした感じしてるからね」
「…ははっ、実はそれ俺もだよ」
「でっしょお?」
「現実味無くて。それがまた心地好くもあるんだけど」
「はは、全くの同意見」

此処はどうも、ふわふわと、ゆらゆらとする場所だ。
海流に押される藻のように。風に揺れる水面のように。波に移ろう打ち際の砂のように。あらゆる感情の動きが、体の側面を伝って彼女から流れ込む。彼女が笑えば震え、彼女が気落ちすればひたりとする。鮮やかであり、澄んでいた。目を瞑る程によく分かった。続く限りに、このままに在れたらと、ぼんやりとだけれど、しっかりと、思っていた。








――それは、全くの不意の事だ。
彼女が、めっきり姿を見せなくなった。その不自然さに気付いたのは愚かにも、進学で地元を離れる事となる、この地を踏む最後の日の事であった。元々、逢う日を決めていた訳でもない。逢う時間も、逢う場所も、何も、お互いに、決めようとしなかった。当然連絡先だって知らない。お互いの事はよく知っているが、お互いの事などほとんど何も知らなかった。だからこそ気付くのがこんなにも遅く、最早打つ手の見当たらぬ、取り返しのつかないところにまで至ってしまったのである。…なんて、もうただの言い訳に過ぎないのだけれど。

「――………伝えてない事、…いっぱい、有るのに」

もう、何も伝えられやしないのだ。








大切な事程、確かな言葉で表せはしないものだと、一体誰がそんな様に言ったのだろうか。それは実に正しくて、苦しくて、息が出来なくなりもする。

――1つだけ、確かな事。星が降る夜に、キミに逢えた事。
キミと交わした言葉の数々が、キミの笑い声が、キミの熱が、ただそれだけが、忘れ得ぬ、遠い夏の思い出に在り続ける事。








(形見、みたいなものですかね)
(…まさかとは思うけど、骨、じゃないわよね?)
(ハハ、まさか。遺物には違い有りませんが…珊瑚の欠片ですよ。流石にそこまでブッ飛んでません)
(…)
(…まぁ、仮にこれが骨だったとしても。僕はこうして穴を開けて、後生大事に首から下げている事でしょうけど)
(………そう、)








thanks by 海の幽霊/米津玄師
実際に映画を観に行く移動中に最後まで書き上がりました。驚く程映画の内容と似通う部分が在って、とても感慨深く、或いは変哲にすらも思います。米津さんは本当に素晴らしいアーティストなんだなと、今回もまた、改めて感じました。





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