ミュート・ピトニィ



ミュート・ピトニィ。このブランド名の意味を『飲める蜂蜜』と言う。
――即ち、ミード。日本語にして、蜂蜜酒の事である。


蜂蜜を原料とする蜂蜜酒は、ワイン等よりも非常に古い歴史を持つ。それは、およそ1万年以上も前から存在したとされる人類最古の酒――水と蜂蜜を混ぜて放置しておくと自然にアルコールになる事から、発祥は人類がホップやブドウという現在の主流原料に出逢う前の、旧石器時代末にまで遡るとも云われる程に、古い。
原料が蜂蜜であるため、二日酔いしにくく栄養価も高い。味は、勿論総じて甘口である。しかし比率や濃度による調整で、時に濃厚にも、時にまろやかにも変わる。とろりとした舌触りに、蜂蜜の独特の風味。主にロシアや北欧で飲まれ、欧米ではその製法からハニーワインとしても呼ばれている蜂蜜酒は、食前にも食後にも、はたまた食事中でさえも飲用される――蜂蜜の種類によって微妙に味まで違ってくる、いたく自由な酒である。


流通の域があまり広くないこの酒だが、大国家アメリカにおける大都市ニューヨーク、この一大通りを1つ外れた路地の一角にこぢんまりと構えた、知る人ぞ知る蜂蜜専門店・飲食店『蜂の巣(アルヴェアーレ)』本店にて、粛々と、しかし堂々と、人気商品の一席を担っているのだった。


アルヴェアーレは、語感で察せられるようにイタリア語である。これはこの店の元締めがイタリア人であったからに他ならない。今や幾つかの貿易会社を経営するまでになっているその初老の男は、名をモルサ・マルティージョと言った。彼はイタリア人らしいお茶目さとおおらかさで、部下というよりも最早家族である直近の者達からとてもよく慕われ、敬われ、愛されていて――その逆もまた然り、娘や息子同然に、下の者達を可愛がっている。




「…さてロニー。あいつはどうだ、元気でやってるのか」

「ついこの間、こっそり遊びに来ていたようだ」

「何ィ?あのバカ娘、声くらい掛けろっつうんだ」

「…モルサ、貴方はここ2週間程、バカンスでシチリアに行っていた訳だが」

「………。電話でもしたらいいだろうよ!」

「うはは。モルサのじっ様よぉ、寂しいんならアンタが直接コール掛けてやんなってぇ」

「ぐぬぬ…」

「駄目ですよ、この人あの子には素直になりきれないんですから。…それに、彼女は今ネズミの皮を被っていましてね」

「――その計画、随分と長々やってんじゃねぇの」




そうして苦笑した眼鏡の優男に、剽軽な語り口を先程までの真剣なものに戻して話題を振った男は、区切りを入れて蜂蜜酒を一口含んだ。


敵の懐へ入り込み、アタマを落とす。その短期決戦を得意としてるアンタらにゃ些か珍しいもんだが、と、モルサへ伺うように目を遣った彼は、この部屋の中で1人だけぽつんと、派手な色合いにて浮いている。
濃紺のシャツに映える黄色いネクタイ、そしてジャケットは真紅。一見とんちんかんな色の組み合わせだが、実はむしろその逆で、色合いとして非常にバランスの取れたものである。シャツとネクタイは色相環という理論形式における補色同士、即ち互いに互いを引き立て合う作用を持つ。それらを覆うジャケットの赤は、カラー・リングの中では2つの色との間に位置し、近似色として纏め上げる役となっているのである。


仕立ての良さでは全く劣らない衣服を身に付け、とても明るいグレーのタイトパンツに包まれたしなやかで細く長い脚をゆったりと組み換え、椅子の背凭れにこれまた細身の腕を掛け、その男――アルセーヌ・ルパン・三世は、ニ、と軽く口の端を吊り上げた。




「…ご存知でしょうが、あのヴィクター・タルボット発案ですからね。彼はああ見えて…部下思い、ですし。長期的になるのは勿論の事、ある意味で死地のような所へ、送り込んでも命の心配が無い方が都合がいいんですよ」

「んまそらそーだけっどもよ」

「マルティージョ・ファミリーとして抗争になっている訳でもないので、こちらが色々と動く事でもありませんしね。…それに、別にヴィクターは、彼女を単純に捨て駒として扱ってはいないようですよ。レンが嬉しそうに言ってました。ヴィクターが頭を撫でてくれた、って」

「あらっなぁに、そぉーんなとこにまで人たらし性質がビンビンに発揮されちゃぁーってるってワケ?こっわいわぁ〜」




深めの溜め息と共に説明を受け、片眉をヒョイと上げたルパンは、それからと次いだ内容に、今度は露骨な声を出す。自身を抱き締めるかのようにして両腕を擦り、小芝居染みた様子だが少なくとも半分は素の反応である。常々思うけどそれも悪魔の力ですかぁ?と訝しげなルパンの視線を受け、ロニーはフッと薄ら笑う。




「まさか。俺を見てみろ、解るだろう」

「ま、ねぇわな。…でも逆にこえーよ、マジであの人たらしっぷりは。…アンタが自分で生み出した命なんだろ?遺伝っつーか、そういう受け継ぎなんかは何かしら無かったのか?」

「遺伝、か。…マイザー、どうだ?」

「そう、ですね…あぁでも、口癖は同じですよね。まぁいい、と。言い方こそは違いますが」

「あなーるほどね、うんうん確かに」

「ロニーと似て、あいつも執着心が薄いからな」

「あぁねぇ…ん?それじゃんよ遺伝」

「…おぉ、成る程」





一瞬静けさに染まる室内。その中で蜂蜜酒のゆわりとした甘い香りが、ルパンに食欲をもたらした。グキュルルル。打って響き渡る豪快な腹の虫。1拍置いて、出所の主が取り成すように笑い声を上げて。




「ぬはははは!ミードの匂いで腹ァ減っちまったわ!表で食いもん頼んで、そろそろお暇すっかぁ。確かバゲットサンド、テイクアウト出来たよな?」

「えぇ。お代は頂かないよう伝えておきますから、お好きな物を持っていって下さい」

「あほーんとぉ?んじゃありがたぁく頂戴してっちゃいましょお〜。…次元ちゃんの分もいいかしらん?」

「持ってけ持ってけ」

「わははぁぁ〜いサンキュサンキュ〜!――じゃ、何か有ったら、また。あと…こっちもそれと無く奴さんの事調べてみるし、レンの事も気に掛けとくぜ」

「あぁ、ありがとうございます。お気持ちはとても嬉しいですが、くれぐれも無理はしないで下さいね」

「アンタらには爺さんの代から世話んなってっからな。お互い様だ」

「また遊びに来い、坊主。不摂生はするんじゃねぇぞ」

「おう。じっ様も、ぎっくり腰にゃあ気を付けるこった。ヤグルマのじっ様にも言っといてちょーだい」

「五月蝿いわい!」




ルパンとマイザーが椅子から立ち、他の2人は座ったまま、互いに別れの挨拶を交わす。そこには親しみばかりが見えた。軽やかながらも、しっかりと根の強い友好だった。各々の生きる土俵は多少違えど、長年を経て積み重ねられてきた信用と信頼。それは、とても、心地の好い。


ルパンとマイザーが扉から消えかかる頃には、部屋に残る彼らは自営の会社の業務状況へと話題を移していた。




――モルサ・マルティージョは、お茶目でおおらかで、例に漏れないイタリア人である。マイザー・アヴァーロも、いつもニコニコと笑んでいる、人当たりの良い穏やかなイタリア人である。高級で質に優れた仕立ての、ラフで落ち着いた色合いのスーツに身を包み、街中を行く様などは、ただただ上流階級の成功者のようである。


しかし、モルサにもマイザーにも、本当のカオというものが存在した。実は、という部分が、存在した。


彼らは裏にも――むしろ始まりは、裏にこそ存在していた。
マルティージョ・ファミリーとは、イタリア系犯罪組織・カモッラの亜流組織の1つである。100年以上続いているこのファミリーは、アメリカで禁酒法が敷かれるより以前にモルサによって旗揚げが為され、表のカオであるアルヴェアーレを簑に、違法カジノや違法酒製造による闇酒場の経営、また高利貸しやみかじめ料の徴収等を資金源として維持されていた。組織自体は弱小だが、結束は当初から非常に強く、陽気でノリのいい構成員達が仲良くやっているのだった。カモッラ・マルティージョは、善悪こそ問わずとも、暴力的に非ず、麻薬にも一切手を出さず、犯罪組織としては比較的明るく穏やかなファミリーであっただろう。




モルサ・マルティージョを頭領とし、上級幹部として『出納係(コンタユオーロ)』をマイザー・アヴァーロが担い、その他数名の上級幹部・下級幹部と以下の平構成員から成るマルティージョ・ファミリー。


そこに、彼は居た。




ロニー・スキアート――上級幹部の中でも特に強い発言力と権限を持つ、『秘書(キアマトーレ)』に就く男である。
例えば、端的に言い表すなら、管理能力の高そうな冷静沈着の重役、そんな見た目をしている。すらりとした体躯に撫で付けた髪、目付きはあまり良い方ではないだろう。普段は面倒見がいいが、"仕事"をしている時のロニーの眼光の鋭さは思い出せば誰もがブルリと一震えする程。"仕事"中の彼は威圧感が凄い、とは、ファミリーの全員が口を揃えて言う事だ。


――彼は、端的に言うなら、悪魔だ。ヒト非ざるモノだ。次元の異なる存在だ。理を外れた要素だ。


彼は、全能に等しかった。望めば叶わぬ事は無いだろう。
だけれど彼は、自身に制約を与えた。ヒトとして在るよう、次元を同じくするよう、理に沿うよう。それは、戯れにも似たものであったけれど。時折力の一端を行使して、傍らで行く者達を助ける事も有るけれど。


彼は、生まれた時は彼1人であった。その後、彼は1つの存在を手ずから生み出した。血を分けた、とも言えるだろう。存在としては彼と彼女は同質同等のものであった。但し、彼女を生み出す際、彼は再びの制約を取り付けた。ヒトとして在るよう、次元を同じくするよう、理に沿うよう。幾つかの、制約を。


彼女は彼によって、レン、と名付けられた。生み出されたレンは、血を分けた、にしては、元となる彼とはあまり似通わない容姿であった。ロニーはハッキリとした男性体であるが、レンは中性さを残した女性体であった。コーカソイドの男性らしい逞しい身体付きの男に対し、華奢で肌白いだけのモンゴロイドの少女。透かせば赤みの金にも見える茶髪に鳶色の瞳の彼と、くすんだ銀色の髪に冬の曇天へ青を垂らして溶かしたようなサックスブルーの瞳の彼女。こうも違うモノが生まれるとはな、と彼は笑っている。
レンがロニーと丸っきり、完全に同じくして持った部分はと言えば、不老を含んだ不死性と、魂を判別出来る目、その2点のみであった。ロニーは、そうしようとさえしたなら、遠く遠い未来を見通す事も可能である。しかしレンは、数ヶ月先程度ならまぁ、というレベルに留まる。ロニーのように不死の酒の作成も出来ないし、相手が気付かぬ間に苦も無く武器を奪い取れもしないし、或いは祝いの贈りとして雲を引き裂いてやれもしない。悪魔なら証拠を見せてみろと考えた相手の、数分間の記憶を消して凄まじい恐怖感を刷り込む…なんて事も、出来ないのである。鍵の掛かった部屋の中に、湧いて出たように現れる事は、実は可能であったけれど。ロニーに出来てレンに出来ない事は多い。それが、レンを生み出す際の制約だったのだから。










――レンは、その少女の眼差しを、向かってくる暗い紅を、微笑ましい心持ちで以て見つめ返していた。携帯端末をスピーカーにし、モルサと言葉を放ち合いながら自分を見つめる血色を、嗚呼本当に綺麗だと、綻ぶ口元のまま眺めていた。





「…だから、あたしに力貸して下さい。ワガママだけど、勝手な話でしかないけど。あたし、たすけたい人達が、日本に居るんです」

『…どうにもならねぇ事は頼ればいい。だがな、お前の願いは所詮はお前のものでしかねぇ。手前勝手に付き合わせるんなら、それに値するだけの働きを自分がしてみせるってのが道理だ。そうだろう、カズミ』

「…ッス。ちゃんと、解ってますよ頭領。ただあたしじゃどうにもならないとこ、そこだけでいいから、あたしを助けてほしいんです」





厳しい声音へ臆面無くしっかりと対峙して。誰にも曲げさせぬと貫き聳えんばかりに背を伸ばし。その姿はただ眩しく、ひたすらに愛しい。これこそこの中谷和実という人間の最たる部分だろう。その真っ直ぐとした、ある意味頑固な在り様が、彼女の魂の輝きの源であり善悪抜きにした美しさの根底なのである。だからレンは、この人間の頼みに、願いに、弱い。





「それなら私が見ているよ頭領」

『…!…お前、何だレン、カズミと一緒に居たのか』

「丁度ここ20年くらい、とーっても目に掛けてる人が日本に居てね。かずちゃんがたすけたい人達っての、その人の友人の事なんだって。だから廻り巡ってその人のため、そのついで、…って言ったらかずちゃんおこかもだけど」

「おこなワケ有るかーい!!ついでで全ッ然構わないんで是非オナシャス!!」

「ね、そういう事だから。頭領」

『………ハァ〜…ったく、』





半ば諦めたような、やれやれ、なんて肩を竦めるような、そんな溜息を引き出してしまえばもうこちらのものだ。にまぁ、と少々悪どい笑みを落とした和実に片目を瞑って返す。死んで帰ってこないならそれでいいと、激励を最後に通話が切れた。素っ気無い言葉だが、つまりは死なないように、望みを遂げられずに終わってしまう事が無いようにと、助力を厭わない彼なりの許しであったのだろう。それに気付かぬ程、愚かではないし短い付き合いでもなかった。和実は、こそばゆそうに小さく微笑む。





「レン姐ありがと。どうぞよろしくお願いします!」

「ん。さっきも言ったけど、結果的なものだし、あんまり気にしないでいーのよ。それに兄さんと違って私は尚の事、万能でないからね。期待しすぎないでね?」

「イエスマム!」





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