ある日の満員電車で | ナノ

ある日の満員電車で


春うらら。暖かい日差しに電車の心地いい振動が相まって、俺の周りはうつらうつら眠りそうなヤツばかりになっている。これが比較的空いてる車内なら全然構わない。寝たけりゃ寝ればいい。だが、どこかで人身事故があったとかで電車が大幅に遅延、混雑している今では迷惑極まりないばかりだ。

「あ。すみません」

見知らぬ誰かが俺の背中に思いきり寄りかかって謝った。満員なんだからしょうがないが、電車が揺れる度に人の流れを踏ん張るのはキツいものがある。先にライダースジャケットを脱いでおいて良かった。まるで運動した後みたいに暑い。吏人との待ち合わせ場所に着く前に疲れてしまいそうだ。

「あっ」

いきなりボールを取られた時のような声が出た。さっき寄りかかってきたヤツが、また寄りかかって俺はドアにぶつかった。びっくりさせんなよ。背中の生温かさがどうも居心地悪い。カーブが終われば離れるだろう。そう思ったが、線路が直線に戻っても、そいつはぴったり俺の背中にくっついたままだった。なんだ? 足でも捻ったのか? チラ見しようとすると、またカーブでドアに身体を押し付けられた。

「いっ」

するりと服の中に入り込んだ誰かの手。腰のラインを執拗に撫でられる。どうなってる? なにが起きてる? 不意に後ろのヤツのやたら熱っぽい吐息が耳にかかった。

「いい匂い……」

その瞬間、俺は今日つけてきた香水に後悔した。メンズでもレディースでも使える香り重視で選んだ香水。こいつ香水で俺を女だと思いやがったのか! よくよく考えれば服も灰色のTシャツにスキニータイプのデニムパンツという中性的なラインナップだったが、いくらなんでもこれは酷い。男が男に痴漢かよ。両手はドアから動かせず、下手な訴えも出来ず、次の駅まで耐えようとすると変質者は更に増長した。

カチャ

控えめに金属音が鳴る。ま、待て待て待て! ベルトを外そうとするな! ふざけるな! 今このタイミングでこっちのドア開いたら、ホームの人には俺が変質者じゃねぇか! 無言の叫びが聞こえる訳もなく、耳にぞわりと柔らかく湿ったものが触れて寒気がした。なんだったのかは考えたくもない。そうしている間にも、ベルトを緩められて出来た隙間に今にも手が入ってきそうだった。気色悪い。こいつだけじゃなく、周囲の蠢く人間の手が全て気色悪く感じる。嫌だ、もう嫌だ。思わず涙が出そうになる。こんなの一生の内、一回でも経験したくねぇよ。誰か、助けてくれ。お願いだ…………吏人。

「どいてください!」

聞き覚えのある声が耳に届いた。何度も同じ言葉を繰り返しながら、声はどんどん近づいてくる。まさか、まさか。ぼんやり頭に浮かんだ人物が今度ははっきり思い浮かぶ。まさか。

「佐治さん!」

丁度トンネルに入り、ドアガラスが俺が最も信頼する後輩を映し出した。他の乗客を押しのけ嫌な顔をされながらも、吏人は俺の所まで少しずつ着実に距離を詰める。

「吏、人」

なんとか吏人の方に顔を向けると、変質者は俺が呼ばれている『佐治さん』だと分かったのだろう。慌てて手を離し、逃げようと背後で強引に他乗客を動かそうとする様子が感じ取れた。

「佐治さん、大丈夫スか!」

それに遅れて吏人が空いた俺の背後へと辿り着く。満員なんかじゃなかったら、思い切り抱きしめあいたい気分だ。それほど嬉しかった。

「吏人……」
「今は泣かないでください。もうすぐ着きます」

合理的な吏人の言葉。だけど変質者に乱された服やベルトをそっと直してくれるのに暖かさを感じた。
アナウンスが流れ、電車は無事に駅に到着する。開いたドアから一斉に俺たちは押し出された。

「……アイツ、いないっスね」

俺の手首をしっかり握りながら、吏人は人波を真剣に睨む。

「別にいい。それより、吏人。近くのどっか座れる所に行こうぜ」

それならと、吏人は駅から出て直ぐ近くにある寂れた公園に案内してくれた。移動している最中は終始無言だった。ベンチに腰をかけると、吏人は俺を落ち着かせるように額にキスをする。

「佐治さん、本当に大丈夫っスか?」

隣に座りながら、吏人は心配そうな顔を向けてくる。

「オマエが来てくれたから大丈夫だ」

そう言うと、喜んでいいのか迷ったはにかみを見せる。

「でも、直ぐに助けてあげられなかった。こんなに泣きそうになって……」

吏人の指が俺の目尻に触れる。零すまいと気を張ったが、指は涙で濡れた。

「普通、男は痴漢に遭わねぇだろ」

言い訳をすると、吏人は俺を抱きしめる。よしよしと頭を撫でてくる。それがあまりに優しすぎて、堪えようとしても涙が一筋流れ落ちた。

「あー、俺、痴漢に遭った女性の気持ち分かるようになった」

「男なのに」と付け足せば、吏人は笑わずしっかり俺を見据える。

「……俺は彼女が痴漢に遭った彼氏の気持ちが分かるっスよ」

背中に回った手に力が籠もったのが分かった。吏人は本当にあの変質者が憎いのだろう。今度会ったらどうする気なのか。想像がついて質問をするのを止めた。代わりに別の質問をする。

「そういえば、なんで吏人あの電車にいたんだ?」
「遅延で佐治さんとの待ち合わせに間に合う電車があれしかなかったんスよ。佐治さんもあの路線使うって言ってたから、もしかしているんじゃないかと探したら、ああいう場面だったんです」

悔しそうに思い返したようで、少し申し訳なくなった。

「でも本当助かった。吏人、ありがとう」

遅くなった礼を言うと、吏人は一瞬だけ微笑む。いい加減もっと笑えよ。こっちも気まずくなるだろ。

「吏人」

俺から不意打ちでキスすれば、両目を見開いた。「大好きだぜ」と続ければ更に驚いた顔をした。少し失礼じゃないか?

「……佐治さん」
「なんだ?」
「いいんスか? 子供が見てますよ」
「は、やく言えよ!」

寂れてるからと油断した。不純同性交遊を純粋な子供に見せてしまった。慌てる俺に、吏人がよく見覚えのある意地の悪い笑みを浮かべている。オイ、テメェ。
辺りを見渡しても子供の姿はなかった。

「騙しやがったな!」
「佐治さん、可愛いっス」
「可愛いっス、じゃねぇ! テメェ、マジで、もう、俺がどんだけ慌てたと」

ケラケラ笑う吏人。許すまじ。
睨む俺に、吏人は立ち上がって俺にも立ち上がるよう手を引っ張った。

「本当に来るかも知れないからそろそろ移動しましょう」
「……どこに行くんだよ?」
「本来の予定通り、買い物に行きましょう。佐治さんにかっこいい服買ってあげます」
「俺のいつもの格好がかっこよくないみたいじゃねぇか」

自信があっただけに言い方への不満も大きい。俺も立ち上がると、吏人は漸く大きな笑顔を見せてくれた。

「俺の佐治さんはいつでも可愛いんスよ!」

まるでそれで変質者に狙われたみたいな確信をもって言われる。欲目も行き着く所まで行ってしまってるらしい。そんなオマエはあの時、誰よりもかっこよかったよ。なんて口が裂けても言わないけどな。
吏人の手は安心する。街に出るまでは、と繋ぎあって、俺たちは歩き出した。