※「落下した芸術」続き









待ち合わせの時間ちょうどにモンパルナスのカフェであいつを待った。この時刻、カフェのなかは満員で、異様な髪型の少女や、肋骨みたいなコートを身につけた髭つきの青年達が店の中を右往左往している。煙草の煙が濛々とたちこめ、色々な国の言葉が耳に飛び込んで来る。フランスは包容力のある国だ。この国の中であらゆる肌色やあらゆる言語を使っていても、自分達が自分を「フランス人だ」と言えばそれは簡単にフランス人になる。しかしそれとは少しニュアンスの異なる部分が彼らの中にはある、こいつらにはある。どれもこれも、自分を芸術家だと信じ込んでいる連中ばかりなのだ。俺は七年前も今もパリにたむろする無数のこういう連中を軽蔑し、クズだと考えている。もちろんその中には真剣な奴だっている、しかし真剣だからといってこの残酷な世界だけはどうにもなるものじゃあない。だれもがあの中世美術館のキリストの死に顔のような光の貫くものを創れはしない。パリではその連中はくたびれ、老いた獣のように敗残者となる。
(――じゃ、お前はどうだ)
俺はマルディーニ酒を口に含みながら自分自身にたずねた。唇から琥珀色の酒が、着込んだトゥイードのコートに少し零れた。俺はあいつの部屋にぶら下がっていた古い洋服を思い出す。
(お前は敗残者にならないためにアイルランドに戻っただけじゃねえか。安易な仕事ばかりしてこのコートを買う金をかせぐだけじゃねえか)





人いきれで曇ってしまったカフェの硝子戸をそっと押す長身の体が見えた。昨夜会った時と同じように白いストールを首に巻いてレインコートを着ている。
「アレルヤ、こっちだ」
軽く手を挙げて手招きすると、しばらくきょろきょろしていたアレルヤがこちらに近づいた。向かいの椅子に座らせ、テーブルの真ん中に置いてあった瓶をはしによける。レインコートを脱ぐアレルヤ。その下に着ている服もまた昨日と等しかった。何か飲むかと聞くと、サンザノ酒がいいな、と答えた。お前顔色悪いな、と俺が呟くとそんなことないよ、とわずかに微笑んだ。
「元気なんだけどな。今日タイプを沢山打ちすぎたから疲れたのかも知れないね」
アレルヤは最初に出会った時からタイプは素晴らしく打てた。昨夜はあまり気にもとめなかった服装を注意深く観察する。きちんとテーブルの下で揃えた脚はどこか冷たそうだった。明日こいつの自尊心を傷付けない口実を作って靴下の一つでも買ってやりたいと思った。
「一日、僕がいなくても面白かった?」
「まあな。あちこち歩き回ったり地下鉄に乗ったり、すっかり不慣れな旅行者みたいだ。もう何回も見た光景のはずなのに」
「昨日は構えなくてごめんね」
「顔見るだけでも十分だったって」
アレルヤは昨晩忙しい中、アイルランドからやって来た俺を駅まで見に来てくれた。そして改札の近くにあるファーストフード店の前で数分間挨拶をした後、今日改めて待ち合わせしようという約束を取り付けた。なんでもこれから劇の練習があるとかで、久しぶりの再会だというのにあまり話し込むことができなかったのだった。
「何処に泊まったの?」
「駅近くのホテル」
「わあ、あんな高いところに?」
唇が綺麗な輪を作る。
「相当お金あるみたいだね。それで、今日は一日なにをしていたんだい」
間もなく運ばれてきたサンザノ酒を片手で持ち、アレルヤのグラスに注いでやった。ありがとう、というアレルヤの目元に薄い隈があったのを俺は見逃さなかった。
「前よく行ってた美術館に行った」
「ああ、あの。相変わらずだね」
一口飲んでおいしい、と目尻をさげた。安価なワインで和む心に芸術がわかるのか…とはさすがに言えなかった。
「でもそこに一日中いたわけじゃないでしょう、他には?」
「そうだな…海岸に行ったり、あとは」
俺はそこで口をつぐんだが、どうせ後ほどわかることだろうから、
「お前の下宿に寄った」
アレルヤは黙っていた。
「俺さ、考えたんだけど、お前、アイルランドに来る気はないか」
「なぜ」
「お前帰るところがないんだろ」
「なぜ誘うの」
自分が想いを抱く相手があんな生活状態でいるのに我慢できるわけがない。
「なぜって、アレルヤもまあ随分と長くここに居たじゃねえか。もう充分だろう」
「まだ僕のやりたいことがやりかけだ。先生だってこれからだと言ってくださるんだからおいそれと行くわけにはいかないよ」
「誰だ、その先生ってのは」
「ティエリアさんだよ。昨日話したじゃないか、聞いてなかったの」
アレルヤは少し気分を害したように言った。
「マリニイ座で先月も出た一流の俳優さんだよ。僕くらいの歳で彼に教えてもらえている人は僕一人なんだ」
俺は思わず自分達の周りを見渡した。相も変わらず異様な髪型をした女や肋骨のようなコートを着た男達が幾十人もカフェの中を右往左往している。これらはクズだ。どれもこれもパリのなかで自分だけは才能が有ると思い、沈んでいく連中だ。アレルヤも今、この異国の都会でその一人になろうとしている。
「でも、こんな連中みたいになったらそれこそおしまいじゃねえか」
俺は自分のコートに目を落とした、だがアレルヤは負けじと、
「たとえそうなったって……生きることって結果ではないでしょう、償われなくったって自分がいいのならそれで結構だとは思わないの」
「だがなアレルヤ、この連中を見ろよ。惨めだとは思わないのか」
この街にまで来て恋人と争いたくはない。ただ、これらの男女が、喋ったり、一生懸命になったり懸命に生きても、芸術の残酷な世界では立派なものを生むとは限らないとアレルヤに言ってやりたかったのである。だが言葉はうまく口からは出ずにそれは別の結果をアレルヤに及ぼしたらしい。
「わかったよ」
アレルヤは瞬きもせずに横に大きい灰色の目で俺を見つめて言った。
「だからニールはアイルランドに帰ったんでしょう。ニールはなにか報われなければ嫌だったんでしょう」
「よそうぜ、喧嘩するのは」
俺は勘定書を手にとった。アレルヤの言っていることは半分は正しい。七年前、俺の片半分は安易さを捨てろ、もっとこの街にアレルヤと、いや一人でも留まるべきだと囁いていた。それに耳を塞いだ俺はあの中世美術館のキリストの死に顔を失い、そのかわりにトゥイードのコートを得た。








したたり落ちる惑い
(描くのは虚像のあこがれ)




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -