思考が、自分でも面白いくらいにぴたりと止まってしまった。広くない茶の間に灰色の煙が少しずつ立ち込める。何言ってるの。その一言すら口に出すのが恐ろしいほどに難しかった。わずかに開いた唇からは言葉どころか白い息さえも出てこなくて、ただぽかんとしたまま目の前にいる相手を見つめることしかできない。
「……おい、アレルヤ」
「………」
「………おい、聞こえてんのか」
棒のようにうんともすんとも反応しない弟を訝しげに見たハレルヤは、煙草をくゆらせながら喚起するようにちゃぶ台をとんとんと叩いた。その音でようやく止まった脳が再び動き出したらしく、アレルヤはいくらか意識のある状態にまで復帰した。
「っ、ハレルヤ」
「ぼけっとすんじゃねえ、俺が言ったこと聞こえてたのか?」
「う、うん………」
だからこそ固まってしまったのだから。
「でも…どうして……」
「どうしてもこうしてもねえよ」
震える声で聞くと、ハレルヤはふう、と長い煙を口から吐き出し、たじろぐアレルヤを見据えながら淡々と言い切った。その口調に迷いの感情が全然見えない。どうやら思い付きや冗談のつもりで言ったわけではないようだが、それがあまりに現実味を帯びていて、アレルヤにとってはかえって僅かな苦痛となった。
「まとまった金がようやくできた」
「お金…?」
「そうだ。大人二人が十分まともに生活していけるような金だ。お前がこのしみったれた所で糞にもならねえようなびた銭を稼いで細々と生活してるうちにな」
確かに稼ぐお金は微々たるものだということは確かだけど、それにしてもなんてひどい言い方なんだろう。いつもならその口の悪さに戒めの一つでもいうところだけど、今はそれどころではない。本意が掴めなくて戸惑うばかりだ。
「……俺はな」
ハレルヤが低い声を出した。誰にも聞かせたくないような、すこし熱の篭った声。
「もう随分と経っちまったが……俺はあの日、ばばぁに銭湯の番台を押しつけられた時のお前の顔を見て決めた。お前が自分の人生で自由に身動きできなくなったかわりに…その分も稼いで稼いで稼ぎまくって、いつかこんな所から抜け出させてやるってな。住むところだってこんな腐った田舎じゃなく、都会のど真ん中に建てた俺んとこにくりゃあいいんだ」
「ハレルヤ…」
「どうだ、フラフラしてたガキの頃から考えてみりゃあ……まあ随分と健気で兄思いな人間に育ったもんだろ?」
にやりと口の端をつりあげて目を細め、達成感の入り混じった満足げな顔をしながら、半分位まで短くなった煙草をおもむろにお茶の中に突っ込んだ。じゅっ、と小気味よい音を立てて小さな火が消える。それは有無を言わさぬ態度だった。アレルヤは混沌とした頭をフル回転させ、現状を把握しようと躍起になった――つまりハレルヤは僕のために今まで便り一つよこさずに働いてきたということなのか。お金ができたから僕を迎えにきたということなのか。細々と義母の銭湯で生計を立ててきた僕のために。ただ家が嫌になって家出したわけじゃないんだ。そう思うと、ふわりと心に滲む感謝の気持ちと申し訳ない気持ちが交錯して、湯呑みを包み込んでいる両手に思わず力が入った。
「…ありがとう、ハレルヤ」
それを聞くと、弟はますます満足げな笑みを浮かべた。ほっとしたのか、新しい煙草を取り出そうと箱を持ち上げる。
「やっと理解したかよ。相変わらずお前の脳みそはチンタラしてんなあ。……まあいい、そんなら明日にでも」
「でもごめん」
アレルヤは目を閉じて頭を下げた。ちゃぶ台の向こうから煙草を取り出す音が止まった。ひしひしとハレルヤの強い感情の入った視線を感じる。だけどそれに怖じけづく事無く、返答は案外すぐに出た。
「実は僕、この生活が結構気に入ってるんだ。もちろん最初のころは慣れていなくて大変なこともたくさんあった。でも今じゃあすっかり落ち着いて仕事も楽しくやれてるし、町の皆ともいい関係を保ててるし……」
「………あぁ?」
「お金はあんまり貰えないけど、僕は今のままで十分なんだ。だから本当に申し訳ないけど、ハレルヤについていくことはできない。僕はここでいい」
搾り出すように言い切ると、アレルヤは襲い掛かるであろう怒号に堪えられるよう、身をきゅっと強張らせた。きっとハレルヤはくわっと怒って僕を説得しにかかるだろう。もしかしたら無理矢理引っ張って連れていかれるかもしれない。こういうと自分を買い被るようだけど、ハレルヤは今まで僕を助けてくれるために一生懸命働いてくれていた。だから僕がここに居続けることを簡単に許すということは、今までの大変な苦労をほとんど水の泡にして、結局目的であった僕じゃなく、稼いだお金だけが自分の手元に戻るということを簡単に許すことになる。自尊心の高いハレルヤはそんなことを認めはしない。だけど僕の答えはそれも理解した上での反応なのだということをハレルヤに知ってほしい、だからこれからやって来る怒りも甘んじて受けようと思った。
………しかしその来るべき怒りのかわりに聞こえてきたのは、けたけたと笑う弟の面白そうな笑い声だった。不意を突くそれにアレルヤは目を見開いてハレルヤを見た。
「まあそんなこったろうとは思ってたぜ。だがなあお兄様、そういう訳にもいかねえんだ」
「……どういうことだい」
「あの銭湯はあと一週間で潰れんだよ」








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