急いで銭湯の暖簾をしまい、横開きの入口に戸締まりをした。アレルヤはニールに一言だけさよならと挨拶するや否や、寒い風が吹き付けるのもきにかけずぱたぱたと靴音を響かせながら夜道を走った。街灯がちらちらと瞬き、その周りにたかる夜の虫の羽音がする。すっかり遅くなってしまった。少しだけ、と決めたにもかかわらず(決めたのではなく正確に言えばそう思っただけだけれど)ニールの気がなんとか収まって一段落した時にはもう一時間近く経ってしまったのだ。息を荒げながらもアレルヤは休むことなく走りつづけた。普段なら走ればすぐに着く距離なのに、こういう時に限ってやけに道程が遠く感じる。ハレルヤは寒空のなか一時間も待つような気の長い性格ではないので、もしかしたら呆れて帰ってしまったかもしれない。久しぶりに連絡をくれたのに、簡単に無視するような失礼なことなんて出来ない。自分の弟だというのにまたいつ消息を絶つのか分からないのだ。アレルヤは走りに走った。すると10分も経っただろうか、ようやく家の輪郭が見えてきて、そこに面している道のブロック塀によりかかる黒い人影があった。長身でちょうどアレルヤと同じくらいの体格。この辺りには見かけない姿形であり、顔はあまりよく見えないがこれは間違いなく弟だと確信した。
「ハレルヤ!」
近所迷惑なんてことは今は放っておくことにして、アレルヤは小さく叫びながら思いっきりその体に飛び付いた。鞄を持ったまま体に手を回して、数年ぶりの弟の感触にますます感動してその手に力を込める。首元に顔をうずめると強い香水の匂いが鼻を突いたが、今はそんなことはどうでもいい。こうやってちゃんと生きてくれているんだから。
「…よお」
ハレルヤは無愛想な声でそう呟くと、ぐしゃりと不器用にアレルヤの頭を掻き回した。その懐かしい感覚にアレルヤの涙腺が緩む。しばらくの間無言で抱きしめていたのにも関わらず、ハレルヤは怒りもせず嬉しがりもしなかった。ふと顔を上げて弟の顔を見る。大学生の時よりも少しだけ髪の毛が伸びていて、より大人びた雰囲気を持つ金色の瞳を宿した細長い目がこちらを見ている。骨格は全体的にがっしりしていたし、筋肉のような固さも十分に持ち合わせていた。余程体力を使う仕事をしているのだろう。しかし上唇と下唇の隙間から見える八重歯だけはそのままだった。
「…さみいんだよ、いつまで待たせんだ」
「ごめんね、ちょっと外せない用事があったから」
あながち嘘ではないギリギリの答えをしながら、アレルヤはすんと鼻を鳴らした。弟をそっちのけで恋人と仕事場でいちゃついていました、なんてことは口が裂けてもいえない。ハレルヤは目を細めてあっそ、と軽く流してからアレルヤを体から引きはがした。
「とりあえず中に入れろよ」
「うん」
言葉に素直にしたがって、アレルヤは郵便受けから鍵を取り出して玄関を開け、大股で中にずかずかと入るハレルヤの後に続いた。






暖かいお茶を注いだ湯呑みを、コトリとちゃぶ台の向こうにいるハレルヤの前に置いた。まるでここの家の主であるかのようにあぐらをかくのを咎めもしないアレルヤは、お盆をしまうと明るい電気の下にさらされた自分の弟を改めて眺めた。先程は再会の嬉しさに我を忘れていたが、よく見ると弟は随分と雰囲気が変わっていた。家を出ていったあのがむしゃらな若さはどこかにいってしまい、その代わりに不思議な威厳のようなものを纏っている。来ている服もすっかり変わり、地味なセーターから一気に転じて真っ黒なスーツに身をおさめていた。自分で稼いで買ったのだろうか。胸元にはネクタイはなく、わずかに釦を開けてだらしない状態にしている。思わず手を伸ばして整えてあげたくなるけど、どうせ余計なお世話なのだろう。腕に、ゴツゴツと必要以上に大きく、そして銀色に鈍く光る時計をはめているのは、昔の時間に疎いあの頃のことを考えると有り得ないことだ。少しは社会人の自覚が出た、と考えてもいいのだろうか。
「……どうして今まで連絡をくれなかったんだい?すっかり心配してたんだよ」
「………………」
「勝手に飛び出して…」
アレルヤは両手で包んだ湯呑みからたちのぼる湯気を何となく見つめながら話を持ち出した。今日こそ問いたかった。問うべきことは山ほどあった。しかしハレルヤはその質問をしても、さもうざったそうに眉をわずかに動かしただけだった。
「んなもん別になんだっていいだろ」
「全然よくないよ…説明して」
「うるせえな。理由なんざ忘れたよ」
苛々とした声が響いた。本当に忘れているのか、それともその振りをしているだけなのか、表情から本心を掴むことはできない。ずず…とお茶を一口飲んだハレルヤは口をつぐんだ。恰好は違えど、アレルヤに対する態度はあまり変わっていなかった。依然としてふてぶてしい様子に、アレルヤは不本意にも胸をわずかに撫で下ろす。全部が変わってしまったわけじゃないんだ。
「……わかった」
アレルヤは折れた。
「じゃあ、もう過去のことはいいよ。今のことを話して。その恰好を見る限りはちゃんと食べてるみたいだね」
「……ああ、一応はな」
「就職したのかい?」
そう聞くと弟は一瞬目を丸くして、そしてにやりと口の端をつりあげた。
「…………ああ、一応はな」
その答えに今度はアレルヤが眉をひそめる番だった。一応就職した、というのはどういうことを指すのか分からない。
「都心部で働いてるの?」
「まあ、そうだな」
自分はずっとこの田舎に住み着いているから、この町の周りの世界の仕組みがどうなっているかは全く把握していない。だけど今就職すればほとんど終身雇用が決まっていることくらいは知っている。
「安定してるの?」
「ああ、大丈夫だ。上の方にも今までの信用があるからなあ」
「そう…」
「心配すんなよ、面倒くせぇから」
「…わかった」
あまり足をつっこまないようにしようかな、と思った。ハレルヤが今の状態で幸せならそれでいい。たとえ僕が文句を言っても聞く耳なんて持たないだろう。だけどこれだけは聞かせてほしい。
「………じゃあどうして今になって連絡をよこそうと思ったの?あれから随分経ったからもう僕のことなんて忘れてしまったかと思ってたのに」
そう、一番気にかかるのはここだった。どうしてこんな時期に僕に会おうと思ったのか。正直言って、アレルヤは実際にハレルヤに会うまでは、ハレルヤがお金を借りるために手紙をよこしたのだろうとばかり思っていたのだ。いい加減な生活に金が底を尽き、兄にでも頼ろうという考えなのだろうと。しかし話を聞いていると特に金銭に苦労しているわけでも無く、仕事が無いというわけでもない。だったら何故。
「そこだ、俺が話したかったのは」
ハレルヤは胸元のポケットから煙草を取り出した。慣れた動作で煙草に火をつけ口元に持っていき、深く吸う。それをアレルヤはぼうっと見た。ハレルヤ、一人前に煙草なんてものを吸うようになったんだ。体に悪いよ、と言いたいのに言えなかった。妙にすれている弟を見つけてしまい、なんだかハレルヤが知らない大人になってしまったような気がして、それだけでも少し悲しくなった。それなのにハレルヤはその煙草のけむりをふっと吐くように、まるでそれが煙を吐き出す延長線上にある極々つまらないものであるかのように、さらなる追い打ちの言葉を口にした。
「アレルヤ、お前もう銭湯やめろ」








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