奇跡なんて起きなくても、とりあえず世界は美しい。そう思いはじめたのはいつからだろう。真っ青な空に小さな雲が揺れている。午前中の太陽は昼間のそれよりも澄んでいて、僕の視界を優しく照らしてくれる。足元の土手の端っこに生えている若々しい春草や野花が世界に色を与えてより一層可愛さを増している。どこからか白い鳥が二羽飛んできて、中睦まじくさえずりあいながら遊んでいる。僕も何かしたくなってきて、アスファルトの地面の隙間から負けじと咲く緑色や白色や桃色を少しだけ摘んでみた。微かな甘い香りと草の匂いがした。会話こそできないものの、春のうららかな幸せをわけてもらえたみたいで嬉しかった。僕もこの風景の一部になれたならどんなに幸せなことだろうか。
「アレルヤ!」
遠くから僕の名を呼ぶ声がした。草花を手にしたまま立ち上がって、近付く音の方を向いた。
「ニール」
いつものライトグリーンの自転車をこいできた彼は、キキッと音を鳴らして僕の横に止まった。薄い明色のパーカーとジーパンが彼の髪によく似合っている。わずかに息を切らしていて、僕を見ると少し困ったような表情をした。
「昨日、迎えに行くって言ってただろ」
「おはようニール。ごめんね、あんまりいい天気だからつい散歩したくなっちゃって。探したかい?」
「いや、そこまでは」
「ならよかった」
そう言って、僕はまた周りを眺めた。僕達が立っている道は一本道で、土手だから周りのちょっとした草原よりも高いところにある。おおらかな風に揺れて波立つ草花を上から見るのは気持ちがいい。
「すっごくいい景色だね」
「だな。春になると一気に色づくよな、ここは。毎年見るたびにこの絵だ」
生命力に溢れてる。ニールはハンドルに肘をついて頬杖をつきながらそう呟いた。それに賛成するように僕も頷く。同調したけど、それよりも、ニールもこの美しさを分かってくれている事自体が物凄く嬉しかった。僕と同じように映っていなくても、いくらかは安心できた。
「ずっとこれだったらいいのに」
そしたら毎日だってここに来て、ずっとこころゆくまで見ていられる。僕達もずっとこのままでいれたら。僕の思惑を察したのか、ニールは笑いながら言った。
「そんなのじゃ意味ねえよ。冬があるから春があるし、終わりがあるからこんなにいきいきしてるんだと思うけどな」
「分かってるよ、言ってみただけ」
優しく聞こえるように答えて、ニールに微笑んだ。僕の独り言も救ってくれる彼の広い心につりあうように。
「よし、じゃあ行くか。今日は大事な日なんだろ?後ろに乗れよ」
「ありがとう」
お言葉に甘えて、本来荷物を載せるためにある場所に乗った。ニールの背中に背中を合わせるようにして、足先を後ろのタイヤの真ん中にある出っ張った部分にひっかけた。いつものスタイルだ。
「動くけど大丈夫か?」
ニールが背中越しに聞いてきたから、僕はいいよと答えた。ワンテンポ遅れて、ゆっくりと自転車が動き出す。それに伴って僕達も揺れた。だんだんと景色が向こう側に引き込まれて小さくなっていく。本当に今日はいい日だ。こんなに彩色豊かな世界に見えるは、僕とニールだけ。他のものなんて見えない。幸せな世界。ニールの匂いも交じった心地好い風に髪をなびかせながら、ふと自分の手を見やった。そこには僕に幸いにも摘まれてちょっとだけしんなりとしてしまった色たち。せめてここではかなくなってもらおうと、手を広げて風に飛ばした。 小さなそれらはあっという間に景色に同化して見えなくなった。世界に吸収されてしまったんだ。きっと歓迎されたんだろう。羨ましくて目を細めた。
「ねえニール」
「んー?」
「すっごく好き」
「…おいおい唐突だな。どうした?」
ニールは今きっと、苦笑いしてる。だって声が妙に明るいし高い。だけど僕にはその声が背中からも伝わって来る。触覚と聴覚、両方から伝わる彼の声。いつまでも続く太陽の光、同じ風景。ひょっとしたら本当にずっとこのままなのかも知れない。僕は意地悪く彼に返事をしないまま、今日一番の暖かい空気を吸った。







春風の笑う声が聞こえる
(それになびくのは僕の心と)




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