「じゃあもう一度」
またか。僕は苛立ちをうっかり出さないように口元に力を入れ、目を閉じて一旦吸い込むような息をした。もう何度目だろう、此処でこれを繰り返すのは。手がどくりどくりと奇妙な悲鳴を上げて僕の脳にもうやめろと信号を出してくるが、それを宥めすかすように揉み込んで冷静にして、またモノクロの海原にふわりと乗せた。冷たさが直ぐに指に伝わってくる。力を抜いて一番最初からもう一度。パターン化して配慮に欠ける音の連なりを押し出すために、両手を滑るように動かして鳴らす。真っ白な狭い部屋に響いた。朝日を目一杯受けた窓からの光が、ただでさえ明るい部屋を一層眩しくしている。それに相対するように真っ黒で大きな楽器。漸く奏でられた音の一粒一粒が琴線から飛び出してこの窮屈な空気中を駆けまくる、それに呼応して僕は一生懸命に追いかける。飛ぶ、追いかける、跳ねる、追いかける、反射する、追いかける。やっと波に乗れてきた。そうそのまま、
「はい、そこで踏む」
言われなくても分かってる、僕の世界に勝手に入って来るのはやめてくれ。床に這うように下げられたペダルを柔らかく踏んで音に更なる自由を与えた。途端に、さっきまでの音がとろとろとした表情に変わって鼻孔までもをくすぐるような感覚に陥いるが、ここらでじわじわと指に力を入れて強く白い板を叩きはじめる。重しを乗せるようにぼてりとした引きずる音符を大量生産した。
「ストップ!」
途端に音が消えた。がこ、とペダルを足から外す。指も海から急遽掬い上げる。また止められてしまった。
「………音が浮いてるぞ」
先生が眼鏡をかけ直す音が聞こえた、聞こえただけで見てはいない。彼は僕を背後から見つめてくるから、振り返ってでしか確認することは出来ない。
「一昨日も言ったな…。ペダルに頼りすぎてるのが耳によく聞こえてくる。いっつもここだ、ここだけ音がスカスカなんだよ。それと、音を重たくするのはいい、だがもたつかせろとは言ってないぜ」
「………すいません」
言われたところに対応した楽譜の小節を見たら、もうそこには以前書き込んだ跡が残っている。「テンポ下げるな、フォルテッシモで」と書いてあった。だけどどれだけ意識してもなかなかそんな芸当ができない。いや、やろうと思えば出来るけれど、その分荒くなって今度はそれを指摘されるに決まっている。ひとつできたらひとつできなくなる。これは鉄板の法則だ。
「努力しようとしてるのは分かるんだけどな…基本的に器用だから指もよく動くし、技術的にはカバーできるはずなんだ。あとは気持ちだ、アレルヤ。お前の感覚で弾いたら駄目だ」
「………はい」
「俺達はなるべく作曲家が求める音を弾かなきゃならない。作曲家になりきれ、音楽史は取ってるんだろ?」
「………はい」
「じゃあこいつらの考えることが分かるはずだ。何を表現しているのか、どんな意味を込めているのか…。とにかく忠実になれ。例えば…そうだな……」
背後でギシリと椅子が音を立てた。そして数秒後、先生が僕の上にかぶさってきた。モカブラウンの波打った髪の毛が僕の視界のはしで揺れ、首筋からわずかに香水の香りがして頭がくらりとへたった。この匂いは僕にはきつすぎる。ずきずきと脳を犯す。
「ここはこう…こんな感じで…」
ディランディ先生は綺麗な傷ひとつ無い指で僕に音を聞かせてきた。まるで指自体に意志があるかのように、あっちを飛んだりこっちを飛んだりして忙しく動く。手が大きい。だけどその音には柔らかみと優しさであふれそうな魅力を含ませていて、ハンマーで叩く度にこの上ないくらいに甘い、今にも酔いそうな音色を導き出す。色まで見えてきた。ゆったりとした、それでいて圧倒的な迫力を併せ持った色。深海で揺れ動く濃い藍。どうしてこんなに僕のと違うんだろう。ペダルを踏んでもいないのに、どうしてそんなに緩んだ音を作り出せるんだ。ずっと聞いていたい。先生は僕が止められた小節の5、6個先まで弾いてくれた。
「な、分かったか?ドビュッシーを弾くときには、常に波を想像しろ。区切りが浅い、それでいて芯の通った音を出せば……」
「先生」
言葉を打ち切った。こんなフランス野郎の音色のことなんてどうでもいい。僕は貴方の奏でる音が好きなんだ。
「ん?どうした」
ディランディ先生は特に咎めるようなことは言わず、僕を促した。まだ僕の体は彼の中でうごめいている。何と無くどいてほしくなくて、つい質問した。
「先生は、自分の気持ちいいように弾きたくはないんですか?やりたいようにやろうとしたことはないんですか?」
楽譜を睨みつけながら言った。僕は自分が感じるままに弾きたい。こんな指示で埋まった窮屈な紙っぺらなんて見ながら弾いたって、ちっとも面白くなんか無いしやり甲斐がない。むしろこの楽器を第二の口にして、僕の代弁者に成ってほしい。自己表現の塊にしてみたい。
「……そうだなあ…。昔は、それこそアレルヤ位のときならそう思ったかもな」
彼はため息を吐きながら呟いた。
「なら、なんで………」
「なんつーか、歳をとるたびに自分を啓発して、周りに表現することが面倒臭くなってきてな」
「先生、まだ若いじゃないですか」
「お前なんて18だろ。せいぜいまだ抗っておくんだな。気が済むまでずっと注意してやるよ。そのうち忠実に弾くことの楽しさも覚えるさ」
よし、じゃあもう一度最初からやってみろ。彼は僕から離れて、また後ろにある椅子に腰掛けたようだ。彼が自分の楽譜をぱらぱらとめくる音も聞こえた。きっと彼のにも所狭しと書き込みがあるのだろう。先程貴方の奏でる音色が好きだと思ったが、あれは結局ドビュッシーの音なんだ、とふと気づいた。つかの間の休息の後、僕はまた鍵盤に指を置く。歳をとって感覚が鈍るから、楽譜のままに弾くのだろうか。楽譜のままに弾くから、感覚が鈍るのだろうか。僕は絶対に後者を支持するけれど、ディランディ先生がたった一人で昼も夜も紙にへばりついて逐一音を読み込んでいくのを勝手に想像して、ひっそりと心の中で笑った。







流線型の憂鬱に振り回されて
(それでも貴方は繰り返す)



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