オーケストラが全てステージに配置され、そして彼がゆっくりと光のあるほうへ歩みだしたのを、僕はステージの端から見つめた。足を踏み入れた瞬間、ロックオンの姿をみとめたらしい観客たちの拍手が彼を迎えた。広がる拍手は間違いなく熱烈な歓迎だった。ステージに上がるだけでこんなに大きな拍手を送られる人を、僕はロックオン以外に知らない。タキシードを完璧に着こなした遠い彼は、胸に手を当て上品に頭を下げた。そして僕のいる方を向き、余裕ある動作で手を差し延べる。導かれるようにして僕の足が動いた。身体が光に照らされ、僕も暖かい拍手をもらった。オーケストラの皆が携えている楽器がてらてらと輝いて鋭く反射しているせいか、ステージという空間が隅々まで瞬いている。今まで僕はてっきり、自分達に当たる照明のせいで観客席なんか見えなくなってしまうんだろう、と思い込んでいた。そんなことはなかった。何百という人間達が、僕達を見つめている。期待の篭った視線を浴びせ掛けて来る。なんて光景だ、ひるまないわけがないじゃないか。吐く息が震えた。自分でもわかるくらいにかちこちに固まったままぎくしゃくと彼に近づき、バイオリンを持っていない方の手で彼と握手をした。
「震えてるな」
小声で彼が囁く。思わず下を向いた。不安で押し潰されそうな僕には、彼があまりにまぶしすぎるのだ。
「ど、どうしよう、僕」
「考えるな」
そういって彼は僕を励ました。お前さんならやれる。力強く手を握られ、彼の言葉が直接脳に響く感じがした。大丈夫、そう、僕ならやれる。彼が言うことに間違いはない。少しだけ緊張が解れ、手を離し、僕は彼の隣に立ってバイオリンを弾く体制にはいる。彼は小さな檀に上がり、楽譜立てに置いてある革の手袋をはめた。彼のトレードマークでもあるもので、指揮棒を持つと、彼の持つオーラが、優しいものから程よく緊張したものへと変わった。バイオリンの弦に指を添える。そして彼を見た。始まる、僕の初めての大舞台が。

彼はオーケストラの全員に微笑みかけ、そして隣にいる僕に軽く頷きながら、勢いよく両手を振り上げた。







***************







心配することなんて何一つなかった。僕の緊張さえも、ロックオンの指揮は丸ごと包み込んでくれる。彼の強くも繊細にしなる腕が、オーケストラの楽器全てを引っ張りあげて、彼の色と見事に調和する。音が次々に溢れ出てくる。もはや光なのか音なのか判別がつかない。僕は夢中になって、彼の乗せる音楽に旋律をはべらせた。僕が指を動かさずとも、楽器が歓喜して彼の指揮だけで音を出しそうなくらい。しかし彼は決して支配はしない、僕達演奏者の力を導き出させる。音の群れが互いを追い掛けあいながら客席を駆け巡るたび、心に弾けて溶け込んで完全に魅了して、彼の魔法にかかってしまった観客はうっとりと酔いしれる。そしてそれは観客のみではない。
(凄い、凄い、ロックオン、)
あなたが眩しいよ。目があなたから離せないんだ。あなたは本当に美しい。ステージの光に照らされた柔らかい茶髪が身体を動かすことによって乱れる。彼は腕だけでなく、身体全体で曲に入り込む。汗ばんだ額に長い前髪がかかる。眉が僅かに寄り、曲が激しくなるにつれ歪む顔が、僕には堪らなかった。僕も彼の思いに応えたい、すこしでもあなたに近づきたいんだ。どうか置いて行かないで、僕もあなたの音楽に連れていって。



(あなたのところに)



ぎり、と弦を押さえる指に力が篭る。その途端、思いが募れば募るほど、僕の表現すべき音とは全く違うものが流れ落ち始めた。違う、ここはクレッシェンドじゃない!ロックオンと何度も何度も練習したじゃないか!僕のバイオリンから生まれてくるのは、僕自身も思っても見ないような強弱や色をつけたものだ。頭は分かっているのに身体が言うことを聞かない。彼に合わせなきゃいけないのに、何故か指が止まらないのだ。身動きの取れない感情が爆発しそうだ。手が汗ばんできた。こんな感覚は初めてで、最後の章を弾く頃には、僕はもう自分が何を弾いていて何処を弾いているのか、全く分からなくなってしまった。手が勝手に音を走る。緊張などと言ってる場合じゃない。
「………っ」
本来の音色から遠退く。ロックオンが指揮を執りながらも、変化に気づいたのか驚いたようにこちらを振り向いた。しかし僕に指示を出すと思いきや、彼は驚くだけで、何故か僕を引き止めようとはしなかった。僕も彼に訴えるような目線を送りつつも、結局は止めることもできずにひたらすら曲を紡ぎ続けた。生理的な涙が滲む。でも、何故だろう、こんなに自分を表現したいと、いや、表現すべきだと思ったことはない。僕が今奏でている音楽は、彼の指揮によって生み出された僕自身の意志による演奏なのだ。彼に合わせなければ、そう考えているのに、出てくる音はそれとはあまりに似つかない。音が感情剥き出しだ。一人先走る思いが如実にあらわれた結果なのか。きっと観客も気付くだろう、彼の指揮と僕の音が噛み合っていないということが。このコンサートには作曲家や演奏家が数多く出席している。彼等の怒りを買うことになるだろう。世界的な指揮者を携えながら、それに反した演奏をするなんて。
(でも、それでも)
この感覚、悔いはない気がする。こうなったらやり抜いてしまえ、という僕にとっては有り得ない意志が表に出た。最後の感動に向けて、ラストスパートが始まった。ピッチが上がり、すべての管楽器が一斉に終わりのための最高潮のクライマックスを奏であげる。それに比例して、僕もこの小さな楽器が奏でることのできる最大の音域を発揮しながら、リハーサルよりも何倍も激しく、弦が擦れすぎて切れてしまうんじゃないかというくらい、ギリギリまで速度を上げる。そして、会場を大きく揺さぶるような、心臓に直接響くような、これまでにない最大の和音を、観客にぶつけてやった。





音が止む。会場が静まりかえった。物音一つおこらない。ゆっくりと手をバイオリンの弓から引きはがした。弓が音を立てて床に落ちた。僕は荒ぶる息を抑えようと両手を膝についた。体力の限界だ。目を見開き、床を見つめながら、僕は迫りくる達成感と絶望感に嗚咽を鳴らした。歯を食いしばるが、我慢できなかった。
「っう、あ……」
終わった。完全に、僕の音楽人生は終わった。クラシックオーケストラは、勝手な追随は決して許さない。規則正しく、指揮者の思いを汲んで初めて成立する。僕は身勝手な行為を働いた。ロックオンは優し過ぎるから止めはしなかったけど、彼もまさか自分の思い通りにいかないことが起こるなんて思ってもみなかっただろう。何もかも、終わった。




…………そう思っていたのは、どうやら僕だけだった。ぱらぱら……と何処からか、観客席のところから手を叩く音が聞こえた。そしてそれに釣られるように、もうひとりの拍手、それからみるみるうちにその波は広がり、あっという間に、会場ははちきれんばかりの拍手で満たされたのだ。観客は全員総立ちだ。方々から称賛の口笛や台詞が飛び交った。僕は顔を上げ、呆然と突っ立った。目の前で起こっていることの意味が分からなくて、頭が処理しきれていない。彼らは僕に、拍手をくれている?
「アレルヤ」
隣から、ロックオンの声がした。ゆっくりと振り返る。全てがスローモーションのようだ。しかし彼は怒るどころではなかった。満面の笑みを浮かべて、そしてまるで感極まったかのように僅かに声を震わせながら、壇から下りた途端に僕を抱きしめた。なに、一体何が起きているの?
「アレルヤ、お前は最高だ。はっきりわかった。やっぱり、俺の目に狂いはなかったんだ」
「ロックオン、僕、なにがなんだか」
おずおずと肩に手を置いて、震える声を頑張って搾り出した。彼の匂いがする。ばくばくと脈打つ彼の鼓動がはっきりと体越しに伝わってくる。もしかして、僕、成功したの?
「最高だ」
「え?」
「ありがとう、アレルヤ」
高ぶる感情。いつまでも鳴りやまない拍手が、解れた緊張が僕達を優しく包み込む。そして彼は、僕の頭がまだオーバーヒートしているおかげで真っ白なのを知ってか知らずか、この三大ホールのステージ上で、何百もの観衆が見つめる中、僕にキスをした。








ベヴェークトの魔法



※続きます





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