ああ、なんて今日はいい夜空なんだろう。まさに晴れ舞台に相応しい。まるで世界中の宝石箱をいっぺんにひっくり返してしまったかのように光る幾千もの星。雲がビロードのようにうっすらとかかってその雰囲気を一層高めていて、地上五階から下を見下ろせば、ライトアップされた情緒ある建物がその存在を華やかに主張している。僕に言わせれば、バロック様式の権威であるベルサイユもこの街には劣るだろう。細やかで美しい金の装飾が施された窓から見える景色はまるで別世界。絵画を切り取ったかのよう。そしてこれが、僕が生まれてきてから夢にまで見た世界だ。小さい頃、有名な音楽家の伝記の中に幾度も見つけたこの地。少なくとも、僕が知っている音楽家は皆一度はやってきた。そう知ってから、僕はすっかりこの場所に無我夢中になって、死ぬ前には一度弾きに訪れたいと思っていた。だから一生懸命に音を学んだ。何百もの曲をただひたすら弾いて弾いて弾きまくった。一歩でも彼らに近づきたかった。人生を総て捧げるつもりでやってきた。その集大成でもある音楽の都に、まさか自分がこんなにも若い内に来れるなんて。一生の運を使い切ったんじゃないだろうか。感激しすぎて、もしかして本当に夢なんじゃないかと思ってしまい、ここの楽屋(といっても、中世の貴族達が住みそうな絢爛たる広い部屋だ)に入ったところで頬を軽く抓ったところを彼にばっちりと見られて笑われてしまったけれど、今日だけは気にしないことにした、というかならなかった。それだけ興奮していた。――――僕は今日、この音楽の都ウィーンにあるムジークフェラインザールという世界三大ホールの一つで、彼が率いる最高のオーケストラを背に、バイオリンを弾くのだ。







「どうした、アレルヤ」
僕が随分と長い間窓から外を見つめていたのが気になったのか、ロックオンが静かにこちらへと近づいてきた。僕が振り返って微笑みだけ浮かべそれに応えると、彼も僕の隣にやってきて窓枠の一辺に肘をつき、外の様子をうかがうように見た。ふわりと甘くていい匂いがする。肩が少し触れ合った。
「感動して言葉も出ない、ってか?」
「……そうだね」
一言だけ言って、僕はまた視線を外に移した。景色も場所もそうだけど、あなたがこうやって何でもない様子で隣に居ることさえ、会話をすることさえ、僕にとっては感激極まることなんだよ、ロックオン・ストラトス。現在生きている音楽指揮者の中で最も有名な人。学歴はさることながらなによりもまず腕が確かで、彼に率いられたオーケストラの演奏者は必ず音楽の最高頂を感じることができるという話があり、彼に指揮を求めようなら予約を入れても最低半年以上は待たなければならないほど。それが長年続いている。文字通り、彼は枯れることを知らないのだ。彼はまた、生まれもった美しい風貌と優しくて気さくな性格で、音楽界のみならず、全世界をあっと言う間に飲み込んだ。そして例に漏れず僕をも。なんて恐ろしい人だろう。そんな人がたった今隣に立って、僕に気軽に話し掛けているなんて、信じろというほうが難しい。
「だったら、俺としてもゲストにした甲斐がある。引き合わせてくれたティエリアに感謝だな」
満足げな笑みをつくりながら言われ、それとは逆に、僕は少しだけ眉尻をさげた。
「ちょっと不安になるよ」
「何がだ?ああ……緊張してるのか」
「というよりも、」
「ん?」
「まだ未熟な僕が、あなたと共演することについて、だよ」
大舞台を目の前にして言う台詞にしては頼りない言葉が素直に出てしまった。そっと彼の横顔を見る。ロックオンはいつも自信に満ちあふれた顔をしてる。いい加減視線に気づいたのか、透き通った深碧の瞳がこちらを見た。弱気なことは言わないでおこうと決めていたのに、彼の前ではどうにも飾れない。
「この期に及んでか……。お前さんにはちゃんと実力がある、他の中途半端なプロなんかよりも圧倒的にだ。俺のお墨付きだぞ?」
「ありがとう。頑張るよ。………自分に自信を持たなきゃね」
子供にするように頭を撫でられ、僕は苦笑いしつつ窓から離れた。そろそろ着替えなくちゃ。曲がりなりにも今日の主役は彼と僕だ、何があろうと遅れるわけにはいかない。この部屋備え付けの、植物や鳥の姿が彫り込まれたかわいい木製のクローゼットから、二着、タキシードを取り出した。スタンダードな色形のそれ。一つは何度か着ているから形はかっちりしていても生地が少し柔らかい。一方、僕のはまだ一回も日の目を見ていない。それもそのはず、これは彼から昨日自宅に届けられたばかりだからだ。共演の話が成立してから、僕になにも言わないまま、いつの間にか彼が僕のためにタキシードを仕立ててくれていたのだった。採寸された記憶もないのに、試しにこっそり一度着てみるとサイズがぴったりで驚いた。お祝いだからと言ってくれたロックオンに、値段を聞くことは憚られた。でもきっと半端な額じゃこない。手触りでわかる。
「着せてやろうか?」
窓に寄り掛かったまま、ロックオンが悪戯っぽく言った。僕は軽くむくれながら二着を持って彼に近づく。
「もう、これくらい着れるよ。いい加減子供扱いはやめてくれ。はい、あなたの分」
タキシードを手渡そうと差し出すと、彼が取ったのはタキシードではなく僕の手だった。なにをするの。驚いたアレルヤは彼を見上げる。
「ま、俺が着せたいだけなんだけどな」
「ちょっ、と、」
ぐい、と引き寄せられ、不意を突かれたせいでロックオンの成すがままに近づかされる。じっとしてろよ、と言うと、ロックオンは細長い指でぷちりぷちり、僕のシャツのボタンを外しはじめた。側にあるガラステーブルにタキシードを置き、慌てて彼の手を取る。
「じ、自分でやるよ……!」
「俺が着せたいんだって。ほら、手を離して、シャツから腕、抜けよ、」
「……………もう、」
「いいから」
完全な拒否権なんて僕にはない。仕方なく、僕は言われた通りに服を脱いだ。まるで女の子が人形に着せ替えをするかのように、ロックオンは心から楽しそうに僕にシャツを着せ、タキシードを着せていく。特に変なことはしていないのに、ロックオンの手元や嬉しそうな表情を見ると心臓がばくばく跳ね上がってしまう。真正面にいるものだからまともに息を吐けない。音楽の権威とも言える彼が、僕に服を脱がせて、自ら服を着せているなんて。
「さ、ズボンも脱ぎな」
「ズ、ズボンもかい!?もういいよ!」
素っ頓狂な声が出た。
「おいおい、スキニーでステージに上がる気かあ?」
「そうじゃなくって!」
こういうの恥ずかしい、って分かってる、癖に。恨めしげな視線を送ったけどどうやら無駄な抵抗だったようだ。随分と可愛い睨みだな、と一蹴され、いつまでも脱ごうとしない僕に焦れたのか、彼は徐に僕のズボンのチャックに手をかけた。
ひぃ、と喉の奥が鳴る。本当に、も、もう、勘弁してくれ!





***************






僕が半泣き状態で着替えを終えた後、ロックオンは着慣れた様子でてきぱきと自分のタキシードを身につけていった。仕返しに「着せてあげましょうか」と言ってみると、あっけなく断られた。挙げ句には「恥ずかしいから遠慮しておくぜ」なんて。一体どの口が言っているのか。ふかふかのソファに座って彼が着替えるのをじっと見ながら、彼の気さくさにも少し問題点があるな、と考えていた。
「よし、待たせたな、アレルヤ」
身支度が済んだらしく、ロックオンがこちらを振り向いた。その動作にも気品が感じられる。短時間にも関わらず完璧な着こなしだ。彼は長身の上に着痩せするタイプだから普通の人よりもぐっと引き締まって見える。身体のラインがとっても格好いい。
「相も変わらず似合ってるね」
僕は立ち上がって近づくと、彼の胸元にハンカチを差し込んだ。そしてちょっとだけ曲がった襟を直す。
「お前さんもなかなかきまってるぜ?」
「そうかな?でも貴方ほどじゃないよ」
そう言ってくすくすと笑うと、ロックオンは手を伸ばし、不意に僕の肩に手を置いた。置かれた手を見て、彼を見上げる。真剣でありながらも、目尻に優しさがこもった微笑み。
「さあ、アレルヤ・ハプティズムの初陣だ。この日の為に頑張ってきた成果を観客に思いっきり見せてつけてやれよ」
「………間違えても怒らないでね?」
「はは、そこは嘘でも頑張ります、とか言うとこだろ」







空想のアッチェレランド
(だんだんと速く、速く、速く)


※続きます





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -