体がここの冬の寒さにも段々慣れてきて、外出中には寒い寒いと身を縮める以外に頭も使えるくらいの余裕がもてるようになった。ぽつぽつと歩みを進め自宅に戻りつつ、頭の中でくるくる色んなことを考える。今晩はあの後少しだけ会話してから銭湯を出た。アレルヤの向かう先とは真反対の方向に足を踏み出す。最近は雪の降る日が多くなってきて、溶けて水になってしまったそれが外気に冷やされてかちこちに凍っている。道のへこんだところに薄い氷の膜が罠みたいに張り付いているのを、滑らないように気をつけながら踏むと、きゅっと小さな音が鳴る。餓鬼の頃はこれだけではしゃいで時間を潰していたものだ。もしかしたらアレルヤなら今でも喜ぶかもしれない、素直になんでも感動しそうだ。想像したら何故か顔がにやけた。
「ニール、あなたは雪が似合うね」
ぼたん雪がぽたぽたと舞いおちる日にそういわれたことがある。だがとんでもない、俺から言わせればアレルヤの方がずっと似合う、褐色の肌と濃い深緑の髪の毛に特によく映えるから。ふと先程のアレルヤの表情が浮かんだ。分かった手伝う、と伝えた時のあの安堵の表情といったら。しかしよくよく考えてみれば、協力するとは言ってもなあ…、とニールはため息を一つついた。頼まれたはいいが、一体どういうやり方でハレルヤとかいう弟を説得すればいいか、全く分からない。というよりまずどうやって接触すればいいかすら分からない。完全な初対面。会わないわけにはいかねえし。とりあえず俺の自己紹介はどうすればいいんだ。こんにちははじめまして、俺は今あなたのお兄様とお付き合いさせていただいているニールと申します……とでも言えばいいのか?勝手に想像して思わず自嘲した、そんなの許されるわけがないだろう冗談じゃないぞ。俺だってライルがいきなり彼氏を連れて来たりしたらもうそれこそ半狂乱だ(自分のことを棚にあげるなら、の話なのは言うまでもない)。口から漏れた浅い息が白くたなびいて空気中に消える。ついでに今回のことも一緒に闇に消えてくれないだろうかとすら思う。アレルヤだけの話を聞く限りで考えると、弟さんは兄を無理矢理自分のところへ引っ張りこむ、失礼だが考え方が割と一方的な人間に聞こえる。そんな人が、自分の弟がこんないい年した大人、しかも一人前の男と付き合っているなんてことを知ればどんな態度を取るかなんて火を見るより明らかだ。銭湯にとどまらずこの町自体へのイメージが悪くなって、一週間どころかその日のうちにアレルヤを連れていってしまうかもしれない。それは防ぎたい。じゃあ友人路線でいってみるのはどうだろうか。俺が親友に成り済まして一週間ばれないようにアレルヤの肩を持つ設定とか。……いや、それもちょっといただけない。騙すという選択肢が俺としては気に入らないし、きっとあのアレルヤのことだ、友人の中で考えるなら俺じゃなくてイアンのおっさんに頼んだだろう。ということはこれでも俺があいつの恋人で、頼ったら何かしら助けてくれる力が俺にあると見積もって話をしてくれたのだ。いやはや、こんな形でアレルヤからの何気なく深い信頼を感じるとは。嬉しさ半分微妙さ半分。さて、どうしたものか。









アレルヤは自宅の前に着くと、点けた記憶のない明かりがついている居間を外から眺めた。一難去ってまた一難、というどこかで見た言葉が脳裏をうっすらよぎる。まさにこのことだ。寒いから早く家に入りたいのに足がいうことを聞かなくて妙に竦み上がる。来ている。ハレルヤが今日も家にあがりこんでいるらしく、黒く伸びた陰が明かりによって浮き出ている。来るなら来ると昨日いってくれればなにかお茶菓子の一つでも買っておいたのに、家には野菜とかお米しかないよ、などと冗談めいてもいない心底下らないことを考えてみた。しかしいくら心を落ち着かせても、昨日のハレルヤの発言が頭から離れなくて立っているだけでなんだかふらふらする。こうしているわけにもいかないのに体が家に入りたがらない。今は正直に言ってハレルヤに顔を合わせたくない。またなにか衝撃的なことを言われるんじゃないかと怯える自分がいる。相手は弟なのに会うことすら迷ってしまう弱い自分。はんてんの裾をぎゅ、と掴んだ。駄目だ、そんなんじゃ駄目だ。ハレルヤのやることには今まであまり口を挟まなかったけど、僕の唯一心地好く居られる銭湯という居場所までとられたら、もう僕は生きる気力を無くすだろう。意を決して家に近づき、玄関の扉を開けに足を踏み込むと、その瞬間にぶわりと焦げ臭い匂いがした。多分ハレルヤの煙草の匂いだ。ハレルヤの無意識の行動は兄の気持ちを掻き乱すのに十分な要素をいちいち含んでいる。再開二日目にして家の空間さえも占拠されてしまった気がして、アレルヤ胸に細くて鋭い何かが突き刺さった。入らなければよかったかな、と半ば諦めた状態で居間へ向かう。
「……帰ったか」
「ただいま」
アレルヤの挨拶には返事をせずに、ハレルヤは居間に入った兄を煙草をふかしながらただじろりと見た。辛い匂いが廊下以上に充満しているこの部屋。鞄をいつもの位置に置いてからちゃぶ台の傍に座り込んだ。気まずい状態を避けるために、とりあえず鞄から帳簿を取り出して、とっくに終わってしまった清算の確認をし直す。時々近くから鋭い視線を感じたけど反応はしなかった。みっちりと書き込まれた確認済みの頁をぱらぱらと見ながら、とうとう我慢できずに口にだした。
「………ハレルヤ、それ匂いきついよ、窓をあけてくれないかい?」
するとハレルヤは阿呆か、といわんばかりに長い息をついた。濃度の高い白煙が唇から滑り上がる。
「はぁ?さみいだろうが」
一蹴された。今日も昨日と同じような格好をしているが、来ているスーツの色は限りなく黒い生地で、僅かながら灰色の線が細かく薄く入っているのが見えた気がする。なんにしても高そうだ。
「……ん…、今日はどうしたの?」
「なんかねぇと来たらいけねぇのかよ」
「ううん…」
そんなことは無いけど、と無理矢理取り繕う。状況が状況な今は気ままに来てもらっても熱烈に歓迎する気持ちは沸いてこない。話すことがなくてちゃぶ台をじっと見つめていたら、なんとお茶の一つも出していないことに気がついた。いつもなら必ず出すのに、それさえも忘れるくらい動揺してしまっているということだ。自分でも呆れたけど、でもよかった、抜け出すきっかけが見つかった。
「……お茶、汲んでくるね」
そういって正座から立ち上がろうとすると、ハレルヤは急に、あぐらのままアレルヤの右腕を強く掴んだ。勢いよく上に向かっていたアレルヤの体の重力が思わぬ方向へ引っ張られ、唐突にバランスを崩す。
「うわ、わ」
ばたりと倒され、大きな尻餅をついてしまった。もうハレルヤの意図が分からない。今日は何故きたのかも分からないし、なんでこんな地味な意地悪をしてくるのも分からないし。困り果てて体制を整えようとした時、また大きな外部の力で体が圧迫された。肩を強く押されたのだと理解するまでにそこまで時間はかからなかった。畳を背に、仰向けにされたアレルヤの上に大きな塊がのさばった。真正面に顔。ハレルヤの唇からは白い煙草がいつの間にか姿を消していて、その代わりに赤い舌が、ずるり、と上唇を這っていくのを見た。そしてそこから低い、掠れた声が聞こえた。
「やるぜ」









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