午後12時。もう誰も銭湯に来るような数寄者はおらず、夜が寒さからか冷たく眠るように静まっている頃。俺は何だか意味ありげな雰囲気を醸し出したアレルヤを待つために休憩所に赴いて、一人静かに本を読んでいた。本というのはこの休憩所の中に備え付けてある小さな本棚にあるもので、読書家でもある俺がわざわざ(自分のためだけに)置いているものだ。ちびっ子はこんな小さい字が蟻みたいに連なった本には手を付けたがらないし、若い奴らはほとんど休憩所を利用しない。その上年配者にはいささか文字が小さすぎるから、この本棚は番台以外の誰も触りはしない。そこからお気に入りのやつを一冊適当に引き抜いて、一時間か二時間か読書としけこんでいた。子供が触れないようにアルミ網にかこまれた古いストーブがぱちぱちと騒ぎ、上に乗せてあるやかんが一定の速さで、細長い溜め息を淋しく吐いていた。三つほどあるうちの一つの長椅子にねっころがって悠々自適に読むという素敵な特権を存分に味わいながら気ままにアレルヤを待っていると、部屋の外から掃除道具入れが閉まる音がが微かにした。おそらくあと二、三分でこっちに来るだろう。ああなんてこった、無意識のうちにすっかりアレルヤの行動パターンが頭の中に入ってしまっている。この先のことだって分かる。まず物置の鍵を閉めて、ボイラーのスイッチを切りにぱたぱたと小走りして、浴場以外の全ての窓を閉めたかどうかを確認してから帰る準備をするのだ。そしてそれらが逐一当たって、独りでにやっと笑う自分が少し気持ち悪かった。本当に俺どうかしてるな。




「おまたせしました」
しばらくするとアレルヤが休憩所にやってきた。きゅうにごめんなさい、と申し訳なさそうな顔をしながら、ニールが座っているところではなく、向かい合わせのようになっているもうひとつの長椅子に腰掛けた。どうやら隣に座って笑いながら話すような内容ではないようだ、いやそんなことは分かってたが。ちらっと目をやると、長いこと水の冷たい中にさらされてかじかんだ赤い手には、なにやら白い紙切れがある。
「で、話ってなんだ?」
アレルヤが座るや否や俺は問うた。目を伏せがちなところを見るかぎり、俺が話し掛けなければいつまでも話さなさそうだった。アレルヤは少しだけびくりと身体を揺らめかせて、そして意を決した様に顔を上げて俺を見つめると、気になっていた白い紙をそっと差し出した。
「これ、見てください」
渡された紙を受け取り、俺は黙ってそれを見た、そして見た途端に刮目した。
「これ…は……?」
その黄ばんだ年季入りの紙には借用書、と薄汚れた黒文字で書かれており、此処に貴殿から借金することを証します、其の額しめて五十四万也、期限日は下記のとおり、何年と書いてあった。つーかお前…そりゃ二年前じゃねえか、しかも五十四万だと……?その額に腰を抜かしそうになった。そんなもん、一般人がまともに稼いでも到底手に入らないに決まってる。
「お前…借金してたのか…?」
「そうみたいなんです…」
アレルヤが認めた。赤く染めた両手を膝元に置いていたが、力が篭っていてわずかに白ばんでいた。みたい、ということは自分で印を押したというわけではないのか。紙に目をやると、確かにそこには見知らぬ苗字の判があった。
「弟が僕に寄越したんだ。……昨日、弟が僕に銭湯を辞めて、自分のところに来るように言ってきて…」
「何だって?」
借用書から目を反らして思わずアレルヤを見た。目があった。そこには有り得ないくらいに不安定な表情をした恋人の顔があった。もし今、俺を含む誰かがアレルヤの髪の毛一本でも触ってしまえば、その途端にくにゃりと歪んでいってしまいそうな程に繊細な。いやそんな気がしただけだろうか。
「……それで、」
アレルヤは、早く言い切ってしまいたいと言わんばかりに話し出した。
「断ったんだ。だって、銭湯の経営だって上手く、ってわけでもないけどなんとかやっていけてたし、ニールともやっと仲良くなれたし…」
「……………」
「そしたら…ハレルヤが、これを渡してきて…」
アレルヤは一つ深呼吸した。
「この銭湯はね、実は僕の義母の親戚が代々継いできたものなんだ。だから僕は義母さんの後を継いでここの番台になった。義母さんの子供は銭湯になんて見向きもしなかったし、曲がりなりにも、養子であっても一応長男だったしね、引き受けないわけには…」
「は、お前、」
「うん、僕達、昔物心がつかないうちに両親を亡くしてるんだ。当時はどうしようもなかったから、両親の友人である今の義母さんが僕とハレルヤを引き取ってくれて…」
「…そうだったのか…」
何にも知らなかった。そういう不幸(といってもいいのか)な境遇なんて今まで一度も聞いたことがなかった。そぶりさえ見せなかった。
「確かに僕達は厄介者だったからあんまり良い待遇ではなかったけど、それでも毎日衣食住は助けてもらってた。だから僕は不満は無かった、ハレルヤはあったみたいだけどね…しょっちゅう反抗してたから」
アレルヤは話が逸れたね、と苦笑いした。笑うというよりは顔が完全に引き攣っていた。こんなに暖かい部屋で寒気を感じたのははじめてだ。
「僕達はこの銭湯に借金があるだなんて知らなかったんだ。借金をしていたのは義母さんで、儲けない商売だったから仕方なくだとは思う…いや思いたいけど…。こんなことは一度も聞いたことは無かった。まあ言いたくなかったんだろうね、僕が継がないのを避けたくて…」
「……………」
「そしたら今になって、ハレルヤは自分の勤め先からこの借用書を受けとったらしいんだ。ハレルヤは大分前から二人が暮らせるくらいのお金を持っていて、僕を銭湯から引きずり出す機会を伺っていた。そこに都合よく借用書が見つかったものだから、今こうやって利用して脅しをかけてきてる」
「脅し…」
「もし一週間後に僕がハレルヤと一緒に此処を離れれば、ハレルヤは借用書を保留してくれる。銭湯はそのまま。でももしついていかなかったら、すぐに銭湯をぶち壊す、だって……」
アレルヤは縋るような目で俺を見た。
「でも壊すわけにはいかないよ…!この近くに他の銭湯なんてないし、近所にもきっと迷惑がかかる!」
眉を下げて訴えかけるアレルヤが不憫すぎた。俺はといえば、意外な事実をそれこそ怒涛のように流されてたまったもんじゃなかった。前もなんかこういうのなかったか?一気に言われて頭が追いつかないかんじ。いやそんなことはどうでもいい。まず借金を知らなかった兄弟。弟は前々から銭湯から兄を引きはがしたがっていた、そのためにも生活費を一生懸命稼いでいた。……まあ、そこまではいいとしよう。だが、そんなプライベートな書類を会社が持っていたっていうのは若干おかしくないか?普通の会社に借用書なんてあるもんなのか?
「弟…そのハレルヤってのはさ、仕事は何をしてるんだ?」
「…………」
「いや…だってお前、普通の勤め先に銭湯の借用書があることなんて無いだろ…まあ金融会社なら話は分かるが…」
アレルヤは俺の言葉を聞くとしばらく黙っていた。こう聞かれるのを予想していたみたいだ。だがアレルヤは静かに首を振り、知らない、と呟いた。
「それが聞けなかったんだ。僕もそういう関係の仕事だろうなって思ってる。心配するなって言われたし、言うだけ言って帰っちゃったから…」
なんだあそりゃあ、これまた随分な弟分だな。こんないい性格をした兄に対する態度にしてはちょっと乱暴なんじゃないか、と勝手にむっとした。自分なら言われてもいいがアレルヤが言われるとなると気分が落ち着かない。
「……すまないな、アレルヤ」
「えっ?」
「俺、こんなに金もってねえ」
ひらひらと紙を振りながらそういうと、アレルヤは一瞬理解してないような顔をして、それから必死に頭を振った。
「ちちち違うよ!そんなつもりで話を持ち出したわけじゃないんだ!」
「そーなのか?」
そうじゃなくて、とアレルヤは言った。
「僕は、銭湯を壊してほしくないし、ここにいたい。ここが僕の大切な場所なんだ。失いたくない。だけどお金も無いし、結局は少しずつ返していくしかないんだ。だからそのためにハレルヤに猶予を貰わなくちゃいけない」
ゆっくりと、自分自身にも言い聞かせるようにアレルヤは言葉を紡いだ。そして膝元から手を離して、借用書を持つのと反対の方の手を力強く包み込んだ。熱くて、アレルヤの思いが体中で交錯しているのを肌で感じた。
「ニール、お願いがあるんだ。ハレルヤを説得するために、あなたの力を貸してくれませんか」
……こんなに真面目で優しくてひたむきで、思いやりと純粋な心に満ちあふれた可愛い恋人に真っ正面からお願いされて、それを断る奴なんて果たしているんだろうか。もしそんな奴がいたらまっさきにそいつの所に殴り込みに行ってやるだろう。リスクなんて考える余地はこれっぽっちも無かった。俺は紙っきれを椅子に置いて、安心させるようにアレルヤの両手に手を添えてやった。
「当たり前だろ、アレルヤ」
「ニール……!」
「大丈夫、俺にできることがあるならなんでもするからさ」
するとアレルヤは蕾が徐々に花開いていくかのように、鮮やかな明るい表情をこぼれんばかり、顔いっぱいに浮かべた。笑顔だけで人を幸せにできるのはきっとアレルヤだけだ、俺は心からそう思った。
「ありがとうニール…大好き…!」




―――やかんの水が蒸発し終わって空焚き状態になってしまったらしい。がたがたと揺れ、散々熱されたせいで悲鳴を上げている。早く取り上げないと焦げてしまう。だけどその次の瞬間、遠慮がちにアレルヤが身を乗り出してお礼だと言わんばかりに頬にキスをしてくれた時、そんなものよりもずっと激しく、俺の心はのたうちまわるような悲鳴を上げた。







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