憂鬱な梅雨が明けると、更に憂鬱な学期末の定期試験が待っていた。試験前一週間は部活動が禁止になるので、今日は試験前最後の練習。
もうすぐ、夏。
夏は嫌いじゃない。 嫌いじゃないけど、座っているだけで汗ばむのは何とかならないものかと思う。私はマネージャーという特権を利用して、木陰で涼みながらスコアを点ける。
私の位置からグラウンドの対角線上にある体育館に目をやった。今日はボールの跳ねる音も、シューズが床を鳴らす音もしない。
あの日―――あの先週の雨の強い日、アイツは屋上に行ったのだろうか。
気にならないと言えば嘘になる。 寧ろ頭の中を占めているのはそのことだけ。こんなにも気になるなら屋上に行けば良かったのかもしれない。行って、この目でアイツが来てないことを確認すれば良かった。
今更後悔する自分に嫌気が差す。
何でアイツのことを考えると、こんなにもイライラするんだろう。
最近ずっと、頭に浮かんでは消えるモヤモヤ。 もう少しで何か核心に触れそうなのに、私は敢えてそれを拒否する。いつも同じことを繰り返し考えては中途半端なまま放置する。何の解決にならないことはわかっているけど、自分でその答えに辿り着いてしまうのが、怖い。
気が付くと手元のストップウォッチは試合時間を既に3分過ぎていた。
しまった、と焦る自分を隠して何食わぬ顔でホイッスルを吹く。
「終了ー!一旦、休憩挟むわよー!」
ゼイゼイと息を切らせながら仰向けになってグラウンドに倒れている部員達の顔を目掛けて、バケツの水を撒いていく。 流石に試合形式の練習後にグラウンド20周はキツかったかしらとも思うけど、これから一週間以上は練習出来なくなるのだから甘やかす必要もないだろう。
「ほらほら、だらしないわよ!5分経ったら再開するからね!」 「お前は鬼か!ナミ!」 「何か言った?ウソップ。」
私の足元に転がったまま文句を垂れるウソップを睨み付ける。
「いえ、何でもありません。」 「なら良し。」
ウソップは今年サッカー部に入ったばかりの一年生。 特に目立った技術は無いけれど、足の速さと場の空気を読む才能に関しては一目おいている。
因みに私のことを呼び捨てにするのも、敬語を遣わないのも、私がそうさせた。 たった1年早く生まれただけで、あからさまに気を遣われるのは好きじゃないし、私の性には合わない。
順応性の早いウソップは、たまに図々し過ぎる時もあるけど、後輩というよりも居心地の良い男友達のような存在だ。
ただ一つ、すぐにヘバって弱音を吐くのがコイツの欠点。
「全く、サンジくんを見習いなさいよね。」
既に一人で次の練習を始めているサンジくんを見ると、私の視線に気付いた彼は先ほどの試合中の鬼キャプテンと同一人物とは思えないほどのだらしない笑顔で手を振っている。
私も、呆れつつも笑顔で手を振って応えた。
「そういや、ルフィが最近学校休んでんだけどよ。ナミ、何か知ってるか?」
「……………え?」
「いや、ルフィが風邪引いたらしいんだけど、アイツが風邪なんて珍しいだろ?仮病じゃねーかって思ってよ。」
アイツのことを考えていたせいで、聞くはずのない名前に聞き間違えたのかと思ったけれど、ウソップははっきりと、ルフィ、と言った。
「…ルフィのこと知ってるの?」 「知ってるも何も同じクラスだよ。」 「へぇ、そう…。」
学校は何て狭い空間なんだろう。 時々、息苦しくさえ感じる。
「なあ、何か聞いてるか?」 「知らないわよ。何で私に聞くのよ?」 「だって、アイツと仲良いんだろ?」 「別に…仲良いってほどじゃ…。」 「そうなのか?アイツはお前の話ばっかするぞ。」
「…あっそ。」
何でか、この会話をサンジくんに聞かれたくなくて、私は表情を一切変えずに笑顔のまま彼に手を振り続ける。
「そんなの、私じゃなくて彼女に聞きなさいよ。」 「はぁ?アイツに彼女なんかいねェよ。」 「え、だって…この前…女の子と、話してた。」 「彼女じゃなくても話ぐらいするだろ。」 「でも…。」
ふたりを包む空気か恋人っぽかった、なんて言える訳がない。
「いつの話だよ?」 「…忘れた。」 「なんだそりゃ。」 「忘れたものは忘れたの!はい、おしゃべりの時間はおしまい!みんな、練習始めるわよー!ほら、ウソップも早く立つ!」 「へいへい。」
バスケ部の試合を見に行ったことは言いたくなかった。
猫背気味にグラウンドの中央へ走っていくウソップの後ろ姿を見送りながら、今の会話を反芻する。
ルフィが学校を休むほどの風邪なんて、まさかあの雨の中を屋上でずっと待っていたのだろうか。
憶測に過ぎないけれど。
でも、何で、私を?
バスケ部の試合にいたあの子は、ルフィの彼女じゃないの?
あの雨の日、アイツは私に何を話すつもりだったんだろう?
答えの出そうにない疑問だけで頭の中が埋め尽くされていく。
『アイツはお前の話ばっかするぞ。』
ウソップの言葉がやけに耳に残っていた。
ルフィに会いたい。
素直にそう思った。
絵の具を撒いたような真っ青な空に、夏を象徴する入道雲。
明日から始まる夏休みにおあつらえ向きの空模様だ。
期末試験が終わって慌ただしく日々を過ごしてるうちに終業式を迎えていた。 結局、ルフィに会いに行くことがないまま。 このまま夏休みに入ってしまったら、一ヶ月以上は会えない。
校長先生の長い長いおしゃべりも、生活指導担当の先生の毎回同じ内容の注意事項も全く頭に入ってこなかった。
式が終わると解放感に溢れた生徒達が、おしゃべりをしながらまばらに体育館を後にする。私も重い足を引き摺りながら出口に向かった。
ふいに誰かに呼ばれた気がして足を止めた。 振り返って見渡してみても、それらしき人は見当たらず、気のせいだったと思い直した時、
「ナミー!」
私から少し離れた生徒達の群れから、飛び出すようにルフィがヒョコッと顔を出した。そのままの勢いで私に突進してきて、ぶつかると思ったところでピタッと止まる。
「ル、ルフィ…。」
どうしよう…。
謝りたいのに素直に言葉が出てこない。それに、雨の中を屋上で待ってたなんて、私の自惚れで思い違いかもしれないし…。
それでも、確かにルフィに態度を悪くしていたのは事実で。
この前の口喧嘩以来、顔を合わせることもなかったから、どんな調子で話しかければいいのかすらわからなくなっていた。
体育館の出口手前で向かい合ったまま立ち止まっている私達を横目に生徒達が通り過ぎていく。
ルフィは怒った風でもなく、でもニコニコご機嫌という訳でもない。何かを思案しているようなそんな様子だ。
「あ、あのね…」 「お前、明日ヒマか?」 「えっ、あ…あ、うん。用事はない…けど。」
この前のことを言われるかと思っていたから、予想外のことにしどろもどろになって答える。
「じゃあ縁日行こうぜ!明日、みんなで祭り行くんだ!」 「行く。」
何も考えずに口が勝手に動いた。
ルフィは途端にパァッと顔を輝かせて笑顔になる。そして私の手をいきなり掴むと強引に引き寄せて、私の小指を自分の小指に絡ませた。
「約束!な?」 「………う、うん。」
ルフィの突然の行動に私は顔が赤くなるのを隠せずに、下を向いて小さく小さく頷いた。自分でも驚くほど消え入りそうな声。
それでもルフィには、ちゃんと届いたようで「よし!」と満足そうに笑うと、結んでいた小指が解かれた。離された手が何故か寂しくて、名残惜しくて、ルフィの手を目で追うと、その手は私をビシッと指差す。
「明日。6時半。駅前。」
単語だけを告げると、ルフィは私の肩をポンと叩いて小走りで追い越して行く。
少し離れたところで、ルフィは何かを思い出したように立ち止まって振り返った。その顔はさっきまでの笑顔ではなくて、真剣な、私を見据えるような真っ黒な瞳。
「今度は、絶対来いよな。」
「行くわよ!」
咄嗟に大声を出してしまい、周りが驚いて振り返る。 慌てて口を押さえる私を見て、ルフィは口の端だけ上げて笑った。
その顔を見た瞬間、心臓が痛いぐらいにギュッと掴まれたような感触がした。
ルフィは「またな」と、声は出さずに唇だけ動かした。
廊下に散らばる生徒達の隙間を縫うように走り去るルフィ背中を見つめたまま、私の足は床に縫い付けられたようにしばらく動けないでいた。
灰色だと思っていた夏休みが、突然七色に輝き出した。
雨上がりの虹を見つけたみたい。
ちょうどそんな気分。
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