朝起きて、顔を洗って、服を着替えて、支度をする。
いつもと同じことをしているはずなのに、いつもより恐ろしく時間の流れを緩やかに感じる。
試合開始の13時がこんなにも遠い。
試合会場は対戦する高校の体育館だと言っていた。 その高校はサッカー部の練習試合でも行ったことがあるから場所は知っている。
家から駅まで歩いて7分、そこから電車に乗って2駅、駅からは15分歩けば目的地に到着する。
12時半に家を出れば、ちょうど良い時間に着くだろう。
カフェの手伝いをしながら、何回も頭の中で計算をした。大丈夫。予定通りに出掛ければ、遅刻することはない。見知った道だ。
念のためもう一度と、時計を確認したところで見兼ねたノジコに「そんなに気になるんだったら、早めにお店抜けてもいいわよ。」とため息混じりに言われてしまった。
早く抜ける必要は無いけれど気が落ち着かないのも確かだし、ノジコの言う通り早めに家に戻って準備することにした。
そして今に至る。
私は、鏡の前で立ち尽くしていた。 鏡の中の白いワンピースは、これ見よがしに可愛らしく裾を翻しているのに、その上に乗っかっている顔は不釣り合いな程に気が重たそうだ。
彼は私を見て何て言うだろう?
あの性格からして、女の子の服装なんかには一切興味が無さそうだけど。
それに、彼が何と言おうと私には関係ないはずだ。 これじゃあ、まるで彼のためにわざわざお洒落して出掛けるみたいだ。
時計の針は、12時半を過ぎようとしていた。 さっきまでゆったりと流れていたはずの時間は、私の思考回路が止まると逆に急速に動き出したようだ。
何もそんなに思い悩むことはない。 ノジコがせっかく貸してくれたから、ちょっと着てみたいだけ。 ただ、それだけ。
…いや、でも。
でも、やっぱり…。
案の定、私が到着した頃に試合は始まっていた。
練習試合にしてはギャラリーが多くて私は何だかその空気に少し圧倒されていた。 他校の生徒ばかりが集まるその空間に入っていくのは気が引ける。 少しだけ顔を隠すようにフードを被り直した。
結局、私が着ていったのは、デニムのサブリナパンツに白いカットソー、グレーのパーカーという普段通りの格好。 人混みに紛れるには、ちょうど良かったかもしれない。
比較的空いている2階席に回って、やっとコートを見渡した。
あ、いる。
まだ一年生だから、てっきりベンチスタートだと思っていたのに。
彼は既にコートの中を走り回っていた。
「…サイズ、全然合ってないじゃない。」
バスケ部にしては割りと小柄な彼はサイズの合わないダボダボのユニフォームで風を切りながら、コート内を縦横無尽に駆け巡る。
アイツ、あんな顔するんだ…。
初めて見る彼の表情に、私は確かに胸を高鳴らせていた。
相手チームに点を取られた時の悔しそうな顔。
仲間と目配せして作戦を立てる時の、いたずらっ子みたいに楽しそうな顔。
シュートを狙う時の、息が詰まるぐらいに真剣な顔。
シュートが決まった時の、
あの、眩しい笑顔。
本当はバスケットなんて全然興味なかった。 ルールも一切わからない。
でも彼に夢中で、必死に目で追って、気が付いたら2階席の手摺から身を乗り出していた。
相手チームの6点リードで前半戦終了のブザーが鳴った。
得点ボードを見て唇を噛みしめるルフィを見たら、何故か胸の奥がチクリと疼いた。
今すぐ話し掛けにいきたいけど、試合中に私が割って入るような隙は無い気がして終わるまで待つことにした。
ルフィはゆっくりとベンチに戻る途中、何かに気付いて速度を上げて小走りで向かう。 ベンチに着いたルフィが腰掛けると、それと同じタイミングでタオルを差し出す華奢な腕が見えた。
水色の長い髪の女の子。
ウェーブがかった豊かな髪を一つに束ねて、清楚な雰囲気を醸し出していた。
ルフィがチームメイトと話しながらも片手を差し出せば、彼女が当たり前のように飲み物を渡す。
ハーフタイムが終わって、ルフィがタオルを投げれば、彼女が当たり前のように笑顔でそれを受け取る。
2人の周りにすごく自然な空気が流れているように思えた。
2階席まで声は届かないけど、彼女の唇が「がんばって」と動くのが見えた。 コートに戻る前に、彼女の方を振り返ったルフィが右手を掲げてガッツポーズをして見せた。 私には後ろ姿しか見えないけど、きっとあの満面の笑みで彼女に応えてるんだろう。彼女の顔を見ればわかる。
なんだ…アイツ、あんな可愛い彼女いたんだ…。
実際、彼女がいる、という話を聞いたことはないけど、彼女がいないとも言っていない。
そっか、そういうことか。
全てを理解してしまった。
アイツが“あの時のこと”を何も言わないのも、そういうわけか。 彼女がいたら、あんなのは迷惑以外の何物でもない。
今日も、わざわざ私を試合に呼んだのは彼女を紹介するつもりだったんだろう。
ばかみたい。
そんなの、全然、興味ない。
さっきまで試合にあんなに興奮していた気持ちが急速に萎んでいった。
学校を出た時に鉛色の雲を広げていた空は、電車に乗っている間にパラパラと雨粒を降らせ始めて、地元の駅に着く頃には本格的な大雨になっていた。
予めバッグに忍ばせておいた折り畳み傘に手をかけたけど、能天気なオレンジ色を差す気にはなれなくて、パーカーを頭から被って雨の中を走って帰った。
ノジコには悪いけど、カフェにまた戻って手伝うような気分じゃなかった。
部屋に戻って、存在を主張している白いワンピースを睨み付ける。
着ていかなくて良かった。 要らない恥をかくところだった。
ノジコが買ってきて、ワンピースを自慢された時はすごく魅力的でキラキラして見えたのに、今はくすんで邪魔な布でしかない。
窓の外の雨は止む気配がなく、勢いを増して降り続ける。
もうすぐ梅雨が始まる。
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