この一週間は散々だった。
授業も集中できないし、部活にだって身が入らないし、バイト中もミスの連発。 バイトといっても、姉のカフェを手伝ってるだけだけど、姉と二人暮らしで面倒を見てもらっている身分としては、それこそ甘えが許されない環境だ。
人に厳しく、自分にはもっと厳しくをモットーに、周りからは「しっかり者のナミちゃん」として評判のこの私が人から気が抜けてるって指摘されるなんて一生の不覚。
それもこれも全部、
あのことがあってから。
なるべく、なるべく、考えないようにしていても気が付いたら頭を占めているのは、あのことで。
あの瞬間を思い出す度に頭の芯から熱くなる。
初めてのキスってわけでもないのに。
そもそも、アレをキスと呼べるのかどうかもわからない。 あの場から逃げるように離れてしまって、うやむやにしたからスッキリしないのだ。
だから、もう一度あの彼に会って、ちゃんと話をしたい。この何とも言えない苛立つような心のモヤモヤを払拭したい。
そう、彼に会いたいと思う理由はそれだけ。
それ以外に特別な感情は何もない。
しかし、学校は意外と広い。
この一週間、廊下ですれ違うことも無ければ、見かけることすら無かった。目の下にあんな特徴的な傷のある子、目立つからすぐに見つかるだろうと思っていたのに。 でも、人に聞いてまで探すのは気が進まなかった。彼とどういう繋がりかを聞かれても困るし、知られるのが嫌だった。
そんなことを考えているうちに4時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
金曜日の昼休み。
机の上の教科書を手早くしまって、5時間目の準備を持って教室を後にした。 背中に友達の呼び止める声が聞こえたけど、聞こえないふりをした。
お弁当も食べずに向かうのは、あの日から避けていた屋上。
彼を探していたのに屋上を避けるというのもおかしな話だけど。 もし屋上の鍵がかかっていたら、まるで彼に拒絶されたみたいで、無駄に心に傷を負いそうで気が乗らなかった。
一気に4階まで駆け上がって、屋上に繋がる階段の踊り場で立ち止まる。
扉は開いていない。
深呼吸してから、一段一段踏みしめるようにして階段を昇る。
嫌でも自分が緊張しているのがわかるほど心臓がうるさい。
鍵は、かかってる?かかってない?
一番の上の段に着いてドアノブに手をかける。
どうしよう。 彼に会って、一体私は何を言うつもりなんだろう?
もし鍵がかかっていたら、彼を探すのはやめにしよう。 これで、最後。
おまじないをかけるみたいに心の中で呟いて、ドアノブを右に回した。
鉄製の少し錆びた扉は、 重く、開いた。
「…え?嘘でしょ?」
思わず独り言が出てしまうのも無理はない。
屋上のど真ん中に仰向けになって大の字で寝転がっているのが目に飛び込んできたからだ。 こちらに足の裏を向けて全くの無防備。
扉が閉まったのを確認してから、ゆっくりと近付いた。頭の方に回り込んで顔を除き込む。
目の下の傷は相変わらずで、スヤスヤと気持ち良さそうに眠っていた。
この間は気付かなかったけど、こうして見ると結構整った顔立ちをしている。 でも私は別に寝顔を眺めにきたわけではない。
せっかく見つけたのに寝ていたんじゃ話もできない。 何から話せばいいのかわからない今の私にとっては、むしろ好都合だったのかもしれないけど。
起こすべきか、このままにすべきか、 迷っている指先で彼の少し長めの前髪を鋤くと、形のいい額が覗く。そして、すぐその下にある大きな瞳とかち合った。
「きゃあ!」
反射的に後退りして重心を崩した私は、みっともなく尻餅をつく。
「お、起きてたの?」 「んん、今起きた。」
彼はパチパチと瞬きをすると、むくりと起き上がって伸びをした。 私を見て「なんだ、お前か。」と呟いたのを聞き逃さない。
今「なんだ」って言った? 「なんだ」って何? ちょっと…いや、かなり失礼なんじゃない?
「あんたねぇ!」 「何だよ?」 「えっと…その、あの…」
喉元まで出かかった言葉は、何かに引っ掛かったように出てこない。 その大きな瞳で見つめられるのは何だか苦手だ。
「今、何時だ?」 「え?あ、12時55分…過ぎ。」 「ふーん。」
人に時間を聞いておきながら、興味が無さそうに返事をする。
…失礼で、変なヤツ。
私は彼に何を言って欲しかったんだろう? 何を期待して、ここに来たんだろう? この一週間、何をあんなに浮かれてドキドキなんかしてたんだろう?
バカみたい。
会いになんか来なきゃ良かった。
立ち上がって、スカートに付いた埃を払う。
「どうした?」 「そろそろ授業が始まっちゃうから行く、の!」
私が一人で勝手に舞い上がっていただけで、彼に責任はない。
なのに、やり場のない苛立ちが語尾を荒げる。
「あんたも授業あるでしょ?遅刻しないようにね。」
足早に扉に向かう。
もう二度とここへは来ない。そう決意して。
「おい、」 「あ、後もうひとつ。忠告しておくわ。鍵、開けっ放しだったわよ。」
「わざとだよ。」 「……え?」
屋上から校舎内に片足を入れたところで、彼の声に私は立ち止まる。 彼の言葉の意味がわからなくて振り返ると、不機嫌そうにも見える真剣な表情でこちらを見ていた。
「お前が来そうな気がして、開けといたんだ、鍵。」 「……。」 「また、来るだろ?」 「…気が向いたら、ね。」
屋上に残っていたもう片方の足も校舎内に入れてから、出来るだけ音を立てないように静かにドアを閉めた。
たった十秒前の決意を、呆気なく崩し去る。
やっぱり、あの瞳は苦手だ。
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