ルフィの吐息がかかる。
心臓の音以外は何も聞こえない。
ゆっくり、ゆっくりと距離を近付けながら、ルフィの影が私に重なろうとしたその時───校内にチャイムが鳴り響いた。
ビクっと肩を震わせて、互いに数センチの距離をとる。 さっきまでドキン、ドキン、と大きく波打っていた心臓は、今度は早鐘のように打ち続けている。
「か、帰らなきゃ!」
私の言葉が聞こえてないみたいに、ルフィはもう一度顔を近づける。 「やだ!」 顔を背けようとしても、ルフィの大きな手に捕らえられてそうさせてくれない。 「やだ、やだ!…嫌!」 重力に引き摺られるようにその場でしゃがみ込んで、ルフィの腕の中から何とかすり抜けた。 顔を上げられない。ルフィの顔を見るのが怖い。 「サンジと付き合ってるってホントなんだな…。」 上から落とされた声に、身体が凍りつく。 帰らなきゃ。 よろよろとふらつく足で立ち上がる。 荷物を持って、そのまま振り返りもせずに走り出した。
ルフィがあの後何か言ったような気がする。いや、何も言っていないかも。それすらもわからない。 ただひたすらに走って、その場から逃げた。
電車に乗ったときにはゼイゼイと息は切れているし、この真冬なのに汗は噴き出すしで、じろじろと向けられる不審な目線は痛かった。
誰かに追いかけられている訳でもないのに、駅からの道も走って走って家に飛び込んでそのままの勢いで部屋に駆け込んだ。 バタンと乱暴にドアを閉めて深呼吸をする。途端に全身の力が抜けて、その場でへたり込んでしまった。
「ちょっとナミー?家を破壊しないでよー。」 「ご、ごめん!」
リビングの方から聞こえるノジコの声に何とか返事をすることは出来たけど、しばらく動けなかった。
抱き締められた時の体温が、匂いが、耳元で落とされた声が、離れてくれない。 全身が発火しそうに熱い。
アイツ、キス…しようとした?
信じられない。彼女がいるくせに他の子に平気でそんなことが出来るの? 最低!最低!最低!!
ううん、違う。そうじゃなくて。
あの時、チャイムが鳴らなかったらあのまま受け入れてた。自分が信じられない。 『サンジと付き合ってるってホントなんだな…。』 ルフィの掠れた声がまだ耳に残ってる。 何で、そんな傷ついたような声で…。 その夜、携帯電話がずっと鳴っていた。 サンジ君からの電話だったけど気付かないフリをした。 明日、メールでもしておこう。 今は誰とも話したくない。何も考えたくない。
大晦日の日は、朝からノジコと買い物に出掛けていた。 ちょっと見るだけと言いながら、ノジコは次々と買い込んで気が付いたら両手いっぱいの大荷物。 洋服も靴も鞄もこんなにあったって、いつも箪笥の肥やしで着やしないのに。 「もうっ、荷物持たされる私の身にもなってよね!」 「ごめん、ごめん。貸してあげるから良いじゃん。ねっ?」 帰り道に、ぶつぶつ文句を言いながらもノジコの服を貸してもらう約束をした。 服の好みも似しているし、体型もそんなに変わらないお陰で服の貸し借りができるのが姉妹の有り難いところ。 「ついにナミにも彼氏かぁ…。」 「な、何よいきなり。突拍子もなく…。」 突然降ってきた話題に居心地の悪さを感じる。 「だって、今日デートするんでしょ?彼氏じゃないの?」 「一応、付き合ってはいる、けど…。」 「じゃあ彼氏じゃん。この前、家に迎えに来てた子だよね?チラッと見ただけだけど、背が高くてカッコいい子だったねー!」 「……彼氏。」 ノジコの言葉を何となく復唱する。 「それにしてもアンタって変わってるわよね。これからデートだっていうのに、気乗りしなさそうな暗ーい顔しちゃってさ。」 「うそ…そんなに?」 「うん。もう暗い暗い。死刑宣告待ちの犯罪者って感じ!」 「犯罪者って…。」 あながち間違ってもいなくて笑えない。 あれから、サンジ君と何回か電話したりメールもしたけど肝心のところには触れていなくて、当たり障りのない話ばかりだった。 今日会ったらちゃんと話そう。 でも、何て切り出せば良いんだろう。考えるだけで胃が重くなる感じがした。 家まであと数メートルというところで、ノジコの足が止まる。 下を向いて歩いていたせいで、家の前の人影に先に気付いたのはノジコの方だった。 「あれってナミの友達?」 家の前にいた人物は、こちらに気付くと深々と綺麗にお辞儀をした。 「突然ごめんなさい。ナミさんにどうしても話がしたくて、学校で住所を聞いて来ちゃいました。」 「…ビビ。」 何時間待っていたんだろう? マフラーから出てる耳も頬も寒そうに赤く染まっている。 「なんか…うちでゆっくりお茶でもって雰囲気じゃ無さそうね。」 見詰め合ったまま動かない私達を交互に見てノジコが切り出す。
「じゃ、私は先に家に入ってるから。」
そう言って、ノジコは私の手から荷物を取るとさっさと家の中に入っていってしまった。
「えっと…話って長くなりそう?」
視線を泳がせながら聞く。ビビの顔をまともに見ることができない。
「ルフィさんのことなんですけど…。」 「ル、ルフィ?」
名前を聞いただけで心臓が飛び上がる。この前の教室での出来事がフラッシュバックする。
もしかして誰かに見られてた?ビビはどこまで知っているの?
「はい、あの…」 「ルフィのことなら、アンタと話すことは何も無いわ。心配するようなこともないし、私とルフィは友達でも何でもない。何の関係もないから!じゃ!」
一気に捲くし立てて、くるりと向きを変えて今来たばかりの道を走り出した。
「待って!ナミさん!」
華奢なヒールで、ビビが走りづらそうに追いかけてくる。
逃げてたって何にも解決しないのはわかってる。でも、今はビビに何を言われてもちゃんと会話できる自信がなかった。
お願いだから、私のことはほっといて!
更にスピードを上げようとした時、
「ナミさんと話ができるの今日が最後なんです!だからお願い!話を、聞いて下さい!!」
予想外だった言葉に思わず足が止まる。
「今日の夜の飛行機でロンドンに行くんです。だから、もう時間が無いんです。」
振り返ると、肩で息を切らしながら見つめてくる意志の強そうな瞳とぶつかった。
「私、体育祭のあの日に、もうとっくにルフィさんに振られてるんです。」
ビビがぽつり、ぽつりと話し出す。
夕暮れ近い公園は人っ子一人いなくて、寒いけれど二人で話すのにはちょうど良かった。
ベンチに二人並んで腰掛ける。さっき自販機で買った手の中のホットココアはいつの間にか冷めてしまっていて、それ以上飲む気にはなれなかった。
「あの時には既に父の海外勤務が決まっていて私も二学期で転校することが決まったんです。思い切ってルフィさんに本当の気持ちを伝えようと思って、告白ししました。 …結局、振られちゃいましたけど。だからお願いしたんです。思い出が欲しいって。 私、クラスの中で浮いてて…友達なんか一人もいなかった。」
いつかの噂話を思い出す。
『男子はみんなビビ好きだもんね。』
つまらない妬みの対象にされていたんだろうか。 本当にくだらない。
「転校したら、きっとみんな私のことなんて忘れてしまうわ。 だから、転校するまでの間、3ヶ月間で良いから一緒にいて欲しいってお願いしたんです。 私、自分があんなに強情で頑固だとは思わなかった。あんなに人を困らせたのって初めて…。」
ビビが自嘲気味に笑う。
「そんな風に恋人のフリしたって意味ないのはわかってたんです。 嫌われてもいいから、そばに居たかった…。」
一粒の涙がビビの頬を伝う。 なんて、綺麗に泣くんだろう。
「私の我儘を押し付けたのに、ルフィさんは優しかった。『大切な友達のことを俺は忘れない』って、いつも一緒にいてくれて。 嫌われてもいいなんて…ただの強がりで。本当はっ…、一緒にいたら…いつか私のこと好きになってくれるんじゃないかって…。」
不器用でバカなビビ。
堪えきれなかった涙が後から後から溢れて、子供のように泣きじゃくる姿は、私だ。
私と同じ。
小さく繰り返す嗚咽を一生懸命抑えながら、ビビは言葉を続ける。
「でも、やっぱりダメでした。最後にハッキリ言われちゃいました。お前じゃないって。 …ルフィさんは好きな人がいるんだと思います。」
ビビの横顔はもう泣いてなかった。
「何で、私に…」
そんな話をするんだろう…?
「さあ…何ででしょうね。私、そろそろ行かないと。」
立ち上がったビビは、いつものように礼儀正しくお辞儀する。
「ナミさん、突然押し掛けたりしてごめんなさい。話を聞いてくれて、ありがとうございます。」 「………。」
私は言葉が見つからなくて、ビビを見つめていた。
「…あと、ナミさんには言っていないことがあるんです。」
ビビが帰った後も私は一人公園に残っていた。
あの話を聞いて、今更どうなるんだろう。
もう…何もかもが遅い気がする。
ぼんやりと見上げていた空から花びらが一枚、ひらりと降ってきた。
手のひらで受け取ると、ふわりと溶ける。
雪だ。
雪が積もればいいのに。
辺り一面を真っ白に埋め尽くして、全てを覆い隠してくれればいい。
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