それは、突然やってきた。
その日は本当に天気がよくて、
大人しく教室で授業を受けてるのが勿体無いほどの雲ひとつない快晴だった。
金曜日の5時間目。
総合英語の講義ルームは4階にあって、2階にある2年生の教室からはちょっと遠い。
チャイムに追われて教室に駆け込むのが、誰かに急かされてるみたいで好きじゃないから、いつも1人で早めに教室を出るようにしている。 小説を読みながら、みんなを待っている時間にちょっとした優越感が生まれる。
今読んでいるミステリー小説の続きも気になるし、足早に階段を昇る。
4階に着くと、少し汗ばんだ肌を冷ますかのように、心地好い風が吹き込んできた。 風の感じる方向を見ると、屋上に繋がる階段、そして屋上の扉は開いていた。 ほんの少しだけど、開いた隙間から太陽の光が漏れている。
あれ?確か、屋上って立ち入り禁止だったわよね?
そう思った時には既に足を踏み入れていた。
「わぁ…。」
目の前に広がる景色は想像以上のものだった。
都内ではあるけれど、都心から離れているこの街はそれなりに緑が多くて、屋上から見渡す閑静な街並みはまるで売られているポストカードの1枚のようだ。
屋上と空を区切っているような張り巡らされたフェンスに近付いて手をかけた。
そういえば、こんな風に自分の住む街を見下ろすのは初めてだった。
「お前、こんなとこで何やってんだ?」
誰もいないと思っていた屋上で風景に浸っていたら、いきなり声が上から降ってきた。
驚いて反射的に見上げると、さっき出てきたばかりの昇降口の屋根の上に腰かけているシルエットがあった。逆光で顔は見えない。
誰かわからない不信感と、いきなり「お前」と呼ばれた不快感とに、眉をしかめて答えた。
「何って、鍵が開いてたからちょっと気になって覗いただけよ。」 「そっか!俺、鍵閉め忘れちったか!」
しししっ、と自分のミスを気にする訳でもなく明るく笑い飛ばすと、ヒョイッとかなり鮮やかな身のこなしで屋根から飛び下りた。
タンッ、
とスニーカーがアスファルトを踏みつける乾いた音が気持ちよく響いた。
目の前に降ってきた少年は、そう少年、同じ高校生なのに「青年」というよりは「少年」という形容がピッタリで、お洒落に着崩しているというよりもだらしなく着崩れてしまった制服の上には黒髪のボサボサ頭が乗っかっている。左目の下にある大きな傷が特徴的だった。
でも今はそれよりも、さっきの会話で気にかかったことがある。
「鍵って、あんたが開けたの?」 「おう!」 「おうって…何で持ってんのよ?」 「落ちてた。だから、拾った。」 「はぁ!?拾った、じゃないわよ。さっさと先生に返さないとマズイんじゃないの?」 「良いだろ、別に。誰か困ってたら大騒ぎするだろうし。誰も探してねェみたいだから、俺が持ってても問題ねーよ。」 「そういう問題じゃ…」 「それにこんなイイ場所隠しとくの勿体無いねェだろ?」
な?と私に同意を求めて、彼は視線で街並みを指す。
彼も、ここからの景色を気に入っているらしい。
「確かに、勿体無いわね。」
思わずポロっと出てしまった本音。
「だろー?だから俺が鍵を大事にホカンしとくんだ!」 「保管って…。」
どうも彼のペースに乗せられてしまう。 口が達者だと周りからよく言われる私は、会話の主導権を善くも悪くも大体私が握っているという自覚もあるし、討論で負けたことはない。
しかし彼との会話は、最初から答えが決まっていたみたいに、彼が用意していたゴールにストンと落ちる。
「…変なヤツ。」 「そうかぁ?」
面と向かって悪口を言われても、あっけらかんとして気にも留めない。
「ふふ、ホントに変なヤツ!」 「おぉっ!」 「え?」 「お前笑ってる方がずっといいぞ!さっきまで、こーんな怖ェ顔してたからな。」
彼は指で自分の眉間に皺を作って眉を吊り上げて、かなりひどい顔をして見せてきた。
「失礼ね!そんな顔してないわよ!」 「ほら、今してるって。」 「……う、」 「ししし、おもしれーヤツ!」 「あ、あんたに言われたくないわよ!」
何でだろう? 何故だか彼の笑顔を見ていられなくて、顔をそむけた。
熱い。
フェンスに手をかけて景色を眺めているふりをしながら、気持ちいい風に当たって頬の熱を冷ましていく。
「お前もこっからの景色気に入ったろ?俺も好きなんだー。」
カシャンと音を立ててフェンスが軋む。
彼が私の後ろに立って、私と同じようにフェンスに手をかけて覗き込んできた。 フェンスを掴む彼の親指が、私の小指に重なっている。
彼は人との距離を考えないのだろうか。
人と人との間には、一定の距離感というものがあるはずだ。
友達同士の距離。 恋人同士の距離。
私と彼に至っては初対面なわけだし。
近い。
近すぎるのよ。
彼はおかまいなしに私のエリアにズカスが侵入してくる。
あまり背の高くない彼の口の位置はちょうど私の耳元にあって、彼が何か話す度にまるで囁きかけられているような錯覚を起こす。
心臓の音がやたらと早い。 それに比べて、肩甲骨から伝わる彼の心音はゆったり変わらないリズムを刻む。
仮にも、私はお年頃の女の子なわけで、彼もお年頃の男の子のはずだ。 なのに、このピッタリとくっついた、まるで後ろから抱きしめられているような体勢はいかがなものだろうか。
抱きしめられている、
言葉で意識した瞬間に今までで一番大きくドクンと心臓が高鳴った。
頭の中に浮かんでしまった考えを振り払う。
「…ち、ちょっと!」
あんまり、くっつかないでよ。
そう抗議をしようと思って振り向いた。
思っていたよりも近くにあった彼の顔に驚いて言葉を失う。片腕で抱えていた教科書たちがバサバサと滑り落ちる。
「あ…悪ィ。」
私は魔法をかけられた人形みたいに体が動かなくて、教科書を拾い集めてくれる彼のつむじを見つめていた。
遠くでチャイムの音が聞こえる。
チャイム………?
「あっ、ヤバ!授業始まっちゃう!」
いきなり覚醒した私の頭と体は慌ただしく動き出す。
「教科書、ありがと!」
彼が差し出してくれた教科書を乱暴に奪い取るようにして受け取ると、そのままの勢いで走り出した。
心臓はバクバクで、足はガクガク。
足がもつれて、うまく階段を降りられない。
何度も何度も確かめるように、唇を指でなぞってみるけれど。
振り向いた瞬間に私の唇にぶつかったのは、間違いなく、彼の柔らかい、
唇。
あの接触を、
事故で済ますには熱すぎた彼の体温。
全身の血が沸騰したみたいに血管がドクドクと熱い。
さっき出会ったばかりの彼は、
いきなり私の中に飛び込んできて、 私の心を掻き乱す。
まるで春の嵐みたいに。
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