「わかったね?」
「はい……。幸村さん。」
これで何度目だろう。
数えるのも嫌になるけど、これが日常になりつつあるんだから人の慣れというものは恐ろしい。
仁王さんは自分で色々やるから私は世話役というよりも暇つぶしの話し相手みたいな状態になっていた。
それでも本来は何を手伝えばいいのかはなんとなくわかってきていた今日この頃。
新しく入った子がまたまた問題児でわがままを言っては周りを困らせているわけで。
「出番だね。」
「え?……ええっ!?私ですか!?」
「他に誰がいるんだい?」
そこで冒頭に戻る。
とりあえず私は部屋を出て仁王さんのところに挨拶をしに行くことになった。
世話役を外れたら、なかなか会いには来れなくなるかもしれない。
「仁王さん…。」
襖越しに声をかけてみたが返事がない。
まだ寝ているのだろうか。
「仁王さん。寝ていらっしゃるんですか…?」
寝ていたとしてももうすぐ起きなくてはいけない時間になる。
私は少し声を大きくした。
「仁王さん起きて下さい。そろそろ時間です。」
それでもしんとしていたので私は意を決して襖に手をかけた。
「仁王さん入りますよ。」
襖をあけると開けっ放しの窓から強い風が吹き込んできた。
しんと静かな部屋の真ん中に寝転がっていたのは、銀の髪を結った仁王さんではなく癖っ毛の強い黒の髪の男の子だ。
「に…おう…さん………?」
熟睡しているのか見知らぬ男の子は起きる気配がない。
「体が大きなっただけで中身はちっとも変わらんのう。」
「う、うわ!」
後ろから急に現れた仁王さんに私はびくっと声をあげた。
どこに行ってたんですか、まだ準備しなくていいんですか、そういえば今日で私仁王さんの世話役を終わることになったんです。
言いたいことはたくさんあったのに、私の口から出てきた言葉は「お知り合いなんですか?」だった。
仁王さんは頭をかくと「昔、少しな」と口を濁した。
部屋に入ると仁王さんはしゃがんで、未だ夢の世界の男の子の頭を思いっきりはたいた。
「いってぇ!!」
「赤也、早よう起きんしゃい。」
「いってー…!勘弁してくださいよ仁王先輩。」
「邪魔じゃ。子供はさっさと部屋に帰る時間ぜよ。」
「もう子供じゃないっすよ!」
仁王さんはそう言うとテキパキ準備をし始めた。
赤也と呼ばれた男の子は舌打ちをすると叩かれた頭をさすって渋々上半身だけを起こした。
「手伝ってくれんか。」
入り口でぼけっとしていると仁王さんが声をかけた。
「あ、はい!」
慌てて駆け寄り、仁王さんに言われた仕事を不器用ながらもこなしていった。
その間ずっと部屋の真ん中で座っていた赤也くんから鋭い視線が向けられていた。
私の動きに合わせて視線も左右に動く。
なんなんだ一体と思いながらも私もせかせかと動いた。
「手伝ってくれてありがとな。」
「……い…いいえ。」
「まあ、あれじゃ。お前さんといるのは楽しかった。」
そっか。
仁王さん知ってたんだ。
私が今日から仁王さんの世話役外れること。
「あの…全然役に立てなくてすみませんでした。今までお世話になりました。」
「世話になったのはこっちじゃ。」
変なこと言うのう、と仁王さんが私の頭を撫でたから不覚にも少し泣きそうになった。
「何かあったら力になるけ、いつでも来んしゃい。A。」
「はい…。」
「A?」
それまでだんまりだった赤也くんが突然刺々しく私の名前を繰り返した。
赤也くんの目が鋭く底光りしたのに目を奪われて反応が一瞬遅れた。
「………っ、わ」
私の首もとにむかって伸ばされた赤也くんの手を仁王さんが阻むように掴んでいた。
仁王さんの逆の手で背中に隠されたため、仁王さんの表情は見えなかったけど赤也くんと仁王さんはしばらく睨み合っていた。
「赤也、下がりんしゃい。」
仁王さんの低い声に赤也くんが唸る。
「仁王先輩、なんのつもりですか。」
「それはこっちの台詞じゃ。」
「なんで庇うんスか。女のくせに身売りもできないようなただの世話役なんか。」
「口を慎みたまえ。」
入り口から柳生さんの声がした。
「やはりここでしたか。幸村くんが呼んでいましたよ。」
「チッ、柳生先輩まで。」
赤也くんは舌打ちをすると荒々しく部屋を出て行った。
小さな声で赤也くんが何か呟いたのを私は微かに聞き取った。
“二人とも変わっちまった”
それがあまりにも、寂しそうで。
「Aさん、お怪我はありませんでしたか。」
「あ…はい、ごめんなさい…。」
仁王さんと柳生さんは目を合わせて顔をしかめた。
「荒れるのう…。」
「いつかこんな日が来るのではないかと、思っていましたが…。」
私が心配そうに見上げると柳生さんが柔らかく微笑んだ。
薄暗くなった窓の外から客寄せの太鼓の音が遠く聞こえる。
点々と見える赤い光が切なさを助長させた。
「さあ、そろそろ遊郭が始まります。仁王くんに挨拶も終わったようですし、そろそろ幸村くんの元に戻った方がいいでしょう。」
何か訊きたいと思ったけれど、質問は言葉にならなくて思考はバラけたままだった。
開きかけた口を閉じて黙ったまま曖昧に笑う。
「ありがとうございました。」
二人に頭をさげて、私は静かに部屋を出た。
「赤也…、大きなったのう。」
「そんな嬉しそうな顔をどうして本人の前で見せてあげないのですか。」
「はは、いじめがいがなくなるじゃろ?」
「それにしても、ずいぶん荒れていたようですが。」
「赤也は昔からああ生意気やったぜよ。ちっとも成長しとらん。」
「Aさんに危害が及ばないか心配ですよ。まさかそこまで見境がなくはないでしょうが…。全く真田くんはどういう教育をして…」
「柳生、」
久しぶりに出た知人の名前に仁王は人差し指を出した。
口元に当てて微笑む仁王に柳生は軽いため息をついた。
「仁王くん…わざとですね。Aさんの名前を出したのは。」
「お前さんが襖の向こうにおるのがわかったけぇの。危なくなれば止めに入るじゃろうと思っちょった。いつかはバレることじゃ。どうせバレるなら俺たちがいる時の方がいい。」
「酷なことを…。」
「Aにとって赤也のことは避けては通れん道じゃ。ま、さっきのことは幸村に告げ口するとして。」
「…それはまた、酷なことをしますね。」
人が悪いと柳生が笑うと、仁王がニヤリと返した。
なあに、と呟いて仁王は細くまとめた髪先を指先でなぞった。
「俺なんかまだましな方じゃ。」
「絶対ぇ嫌だ!」
「赤也?」
「うっ…。だ、だって。」
私は幸村さんの前で赤也くんと並んで座したままカチンコチンに固まっていた。
私と赤也くんの間には微妙な距離がある。
幸村さんはキセルをくわえて前髪をかきあげると面倒くさそうに、文句を並べる赤也くんを睨んだ。
「うぐ…っ。」
「赤也、自分が文句を言える立場だと思ってるのかい?」
「でも…!」
赤也くんに少し同情しながらこっそり応援する。
まさか新しく世話役につくことになった花魁が赤也くんだったなんて。
先ほど仁王さんの部屋であった出来事を思い出して私はさらに身を縮めた。
「A…。」
「ヒィ!」
赤也くんとは話にならないとばかりに幸村さんは向き直って私の両手を握った。
「赤也がわがままを言ったら思いっきり殴ってもいい。食事抜きにしてもいい。こんな荒くれだけどうちの期待の新人なんだ。面倒…みてくれるよね?」
そりゃないっすよ!と赤也くんが非難の声をあげた。
私だって冗談じゃない。
「あの…幸村さん、近…」
「やってくれるね。」
「わ、私は…」
「フフ…俺に口ごたえ?」
幸村さんは私の首筋につと指を滑らせた。
恐怖なのかくすぐったいのか、ぞわりと鳥肌がたって私は声にならない悲鳴をあげた。
「言うことを聞かないと」
バン!と勢い良く襖が閉められて、私と赤也くんは真っ青な顔のままつまみ出された。
幸村さんってあの細腕のどこにあんな力があるんだろう。
「言うことを聞かないと」の後、囁かれた耳元がまだぞわぞわと落ち着かない。
殺られる。
いつか絶対幸村さんに殺られる。
「おっかねー…。」
親父より怖ぇとぼそっと赤也くんが呟いた。
「赤也くんのお父さんって怖いの?」
やんわりと笑顔で話しかけてみると、赤也くんは別にとそっぽをむいた。
「私のお父さんは、心配性だったな…。」
赤也くんは黙ったままだった。
「今どこにいるんだろ…。」
独白のように呟いた言葉は廊下の暗がりに沈んだ。
「ばかみてぇ。」
「え?」
「言っとくけど、俺世話役なんかいらねぇから。あんたは仁王先輩のところにでも通えば。」
「私はそんなんじゃ…。」
「俺は一人でいい。ずっと一人だったし、これから一人で生きていくって決めたからここに来た。」
「待って、赤也く…」
赤也くんはすたすたと歩いて行った。
「赤也くん…」
赤也くんは今まで一人で、久しぶりにここに戻ってきたらしい。
そう言えば仁王さんの部屋で眠る赤也くんは穏やかなように見えた。
仁王さんと柳生さんは知り合いだったみたいだけど、何があったかなんてわからない。
わからないけど。
私は顔をしかめて幸村さんの部屋に戻った。
赤也くんの部屋がどこか尋ねてみよう。
それで、過去を詮索するのは悪いから、仁王さんと柳生さんには赤也くんが何が好きかとか何が得意だとかそういうことを訊いてみよう。
笑顔が溢れる遊郭は、悲しいことも溢れている。
笑顔を失わないわけじゃない。
客との一夜を忘れては笑顔だけを思い出す、繰り返し。
「あの、幸村さん…」
「A、まだうろついていたのか。」
「はい…あの、赤也くんの部屋を…」
「入って。客に見られるとまずい。朝までは出歩けないから、今日は泊まってお行き。」
「幸村さん…泊まってって…!ちょっと待ってください。」
引っ張られるがままに幸村さんの部屋に入った。
机の上に、先ほどはなかったお酒が置いてある。
日本酒の瓶がすでに三分の一は空いているのをみてようやく、私は幸村さんが酔っていることに気づいた。
「飲んでたんですか…?」
「飲まなきゃやってられないことだってあるよ。」
「で、でも…」
私と赤也くんがこの部屋を後にしたのはほんの15分前くらいなのだ。
いくらなんでもそんな短時間にこんなに飲むなんて酒癖が悪いにも程がある。
「晩酌、お願いできるかい?」
幸村さんが笑顔で器を差し出すから、私はおずおずとお酒をついだ。
最初に会った時も思ったけど、幸村さんって一体いくつなんだろう。
整った横顔をじっと見つめる。
吸い込まれるようになくなっていくお酒に対して、顔色一つ変わらない幸村さん。
「幸村さん、そろそろ止めた方が…」
「フフ…まだ大丈夫だよ。久しぶりに酒が楽しいんだ。A…。」
「…?」
「もう少し付き合ってよ。」
「ゆ…」
ところどころから聞こえる女の人たちの笑い声が妙に耳についた。
幸村さんの部屋を飾る濃紫の色に頭の中が染色される。
衣擦れの音に体が動かなくなった瞬間、重ねられた唇から強い日本酒の味がした。
「ゆ、き…む…ら、さ…」
幸村さんはそのまま目を閉じて横に転がった。
規則正しい静かな寝息を聞き取れるようになったのはしばらくしてからだった。
それまでずっと放心していた。
ここの人たちはどうしてこんなにも寂しい。
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