ここに来て数日。
私が学んだのは遊郭は恐い所ってだけだ。
あれからブン太にも会わなかったけど、いつも炊飯場に夜食を置いておくと朝には綺麗になくなっていた。
そんなある日私は幸村さんに呼び出された。
「どう?仕事は順調?」
「はあ…。すごく広いですけど掃除だけなら…。」
「ふうん。そうなんだ…。」
フフ…と笑いながら幸村さんは姿勢を変えて何か考えを巡らせているようだった。
私はその間落ち着かない様子できょろきょろと周りを見渡した。
広く綺麗な畳の部屋。
所々の装飾の朱色と藍色がすごく大人っぽく見える。
壁の掛け軸も花瓶も花瓶から垂れる菖蒲の花も高価そうだった。
文机の上にはいくつかの書物が置いてあった。
部誌と達筆な墨文字が入っている。
私がそれをなんとなく眺めているとカンッといい音をたてて幸村さんがキセルから器に灰を落とした。
私はびくりと慌てて幸村さんに視線を戻した。
「あ、あの…。」
「ああ、そうだ。仕事が終わってからは何してる?」
「えっと…早いですけど床についてます…。」
夕方からはお店が始まるのでお邪魔にならないように、と付け足すと幸村さんは何も言わずにキセルの端を口に入れた。
肘おきに体を預けるようにして足をたてる。
高級そうな絹の羽織りや着物が微かに崩れていて私はなんとなく目のやり場に困った。
「実はね、今少し人手不足なんだ。」
「はあ…。」
「一人、人気があるんだけど難しい花魁がいてね。我が儘を言っては新造を泣かせてるもんだから誰も世話役をしたがらなくて…頭を悩ませている。」
「はい…。」
「A、今日からその子の世話役に入ってくれないか。」
「え、えええ!?」
「我が儘言われるの慣れてるだろう?」
なに言ってるんだこの人は。
笑顔で筆を取る幸村さんを見て私は固まった。
「はい、もう行っていいよ。」
「うええっ!?」
「あ、その子の部屋は夾竹桃の間。表玄関から二階に上がって突き当たりを左。今から挨拶に行っておいで。もうそろそろ起こさないと時間だしね。」
「で、でも私、お手伝いなんて何の知識もないです!!」
「自分の準備は自分でやりたがるから大丈夫だよ。言われたことをすればいい。」
「そんな…もし粗相でもあれば……!」
私は涙目になって文机につっかかった。
幸村さんは私の顎をすくうと煙を吐き捨てて顔を寄せた。
「…!!」
「君に選択権はないよ。ここに売られたお前にとって俺の言うことは絶対。フフ…わかったらもうお行き。」
「はいい!!」
幸村さんが満足そうに頷いたので私はげっそりして逃げるように幸村さんの部屋を後にした。
「ううっ…。」
ひどい。
幸村さんは顔に似合わず野蛮だ。
黒い噂が絶えないというのも頷ける。
私はふらふらしながら夾竹桃の間を目指した。
「突き当たりを左…って。」
目的の部屋は少し開いている襖から薄暗い廊下に光が漏れている。
子供の玩具が廊下にまで散らばっていた。
その時突然襖の奥から何かが飛んできて、右の部屋の襖にその何かがドスッと突き刺さった。
「ヒイィ!!」
私は両手をあげて固まった。
よくよく見ると飛んできたものは太い針にリボンのような物がついている。
右の襖が勢いよく開いて、良い着物を着た身なりのいい男の人が怒ったように出てきた。
「仁王くん!!またですか!」
男の人は怒鳴りながら左の部屋の襖を開けた。
「すまんのう。手元が狂った。」
「何度目ですか!わざとでしょう!また襖を買い替えなければならないではないですか!」
「プリ。」
「お客様にいただいた西洋の珍しい玩具を気に入ったのはよろしいですがね、私の襖を的にするのはおやめなさい。」
「はいはいっと。」
「まったくあなたという人は…。」
男の人は眼鏡をかけ直して襖を閉めた。それからふと廊下に突っ立っている私に気づいた。
「おや…あなたは…。」
「あ、私はその、お世話役で……。」
男の人は私をじっと見たので、私は自分の服装がぼろぼろなのを思い出し恥ずかしくなってうつむいた。
男の人は再び夾竹桃の間を見て納得したように頷いた。
「仁王くんの…。」
「あの…。」
「ああ、申し遅れました。私は柳生比呂士と申します。」
「こ、こちらこそ…!Aと申します。」
「何かお困りになりましたら何でもおっしゃって下さい。私は大抵この隣の君子蘭の間にいます。」
「あ、ありがとうございます!」
いい人だ!
ここに来てからようやくまともそうな人に会ったと私は感動の涙を流しそうになった。
柳生さんは夾竹桃の間を見やって小声で話した。
「大変でしょうが…、悪い方ではありませんので見放さないでやって下さい。」
「はい…。」
柳生さんは申し訳なさそうに笑うと襖に刺さった針を抜いて私の手に乗せた。
それからお辞儀をして歩いて行った。
私は柳生さんの後ろ姿を見ながら大きくお辞儀をすると、手の中にある針を握り締めて夾竹桃の間の前に立った。
襖越しに声をかける。
「あ、あの、失礼します。」
「んー…誰じゃ。」
「今日からお世話役になりましたAと申します。」
「もういらんって言うたのに…。幸村…。」
中から小声で呟いたのがなんて言ったのかはわからなかったけど、許可なく襖を開けることはできない。
「開けてもよろしいですか…?」
「駄目。」
……………。
ま、負けるな私!
「ですが…。」
「幸村には俺から言うとくけぇ、大人しく帰りんしゃい。」
「いえ!帰れません!帰ったら殺されます!」
私は幸村さんを思い出してぞっとした。
中からは吹き出す声が聞こえた。
「ははは、幸村も酷やのう。」
否定できない。
「じゃ、襖は開けずに手伝いんしゃい。」
「え!?む、無理ですよ…!」
「無理なら帰るんじゃな。」
なんて意地が悪いんだ。
どうすればいいんだろうと私は頭を悩ませた。
襖を開けるなということは部屋には入っていいのだろうか。
でもどうやって…。
私はふと窓を見た。
いや、二階だし…。他に方法は…。
「はっ!いやいやでも…。」
「降参かのう。」
「いえ、その…、開けはしないんですが…。お、怒らないでくれますか?」
「は?」
いくら高級な襖といえど構造は庶民の平屋の襖と何の変わりもない。
私は両手を広げて襖を掴むと力をいれて溝から外した。
こういうのはコツがあるのだ。
「ハアッ!!」
「うわ。」
ガタッと音をたてて外れた襖を私は隣の襖に立てかけた。
息をついて額の汗を拭う。
ふふふこれくらいちょろいもんよ。
庶民のボロ屋は特別な業者を雇わなくても自分たちで襖も障子も張り替えたりするんだからね。
私は中にいた人を見た。
その人は呆然と私を見て一気にお腹をかかえて笑った。
「ははは!外しよったんかお前さん…。くくく…。」
「えっ…はい。わあすみません!すぐに戻します!」
「のう…その襖、いくらすると思う?」
「や、やっぱり高いんですか!?」
「百両はくだらんのう。」
「百…っ!?」
「嘘じゃ。」
その人は笑って手招きをした。
「ええよ。入りんしゃい。あ、襖は戻しとってな。」
私はほっとして襖を戻すとそっと開けた。
それから床に手をついて静かに頭を下げる。
顔をあげると、男の人と目が合った。
中は白熱灯の明かりと赤い装飾で別世界のように感じる。
床には玩具や箱が無造作に散らばっていた。
シンプルだけど流行りの着物や飾りで着飾って、銀色の髪を赤い紐で纏めて、さっきはよく見なかったけど綺麗な顔をしていた。
様子を見て本当に自分の支度は自分でするんだと私はただ感心した。
部屋に入って襖を閉め、座ってから針を差し出すと仁王さんはそこら辺に置いておくよう手で示した。
だけど針をそうするわけにもいかず、私はとりあえず近くにあった箱にしまった。
「仁王雅治じゃ。」
「仁王さん…。」
仁王さんは自分の名前だけぶっきらぼうに言うと紙風船を手の上で遊ばせてから立ち上がった。
興味をなくしたように紙風船が畳の上へ落ちた。
「お前さん、Aだっけ。この部屋の名前知っちょるか?」
「夾竹桃の間ですよね…?」
「本当は小菊の間って言うんじゃ。けどみんなは夾竹桃の間って呼ぶぜよ。」
「そうだったんですか…。」
「夾竹桃の花言葉、知っとるか?」
「…………は。」
仁王さんは私の前に座るとニヤリと笑った。
頭の中で必死に花言葉を探す。
仁王さんは私の髪を優しく撫でた。
「危険…。」
ようやく思い出して呟くと、仁王さんは面白い遊びを見つけたように口元を歪ませた。
「もう襖は外さんでな。」
「す、すみませ…。」
「そろそろ客入りの時間じゃ。今日はもういいから、朝方客が帰る頃にまた来てくれんか。」
「はい…わかりました。」
私は頭を下げて部屋を出た。
廊下で幸村さんと擦れ違ったのでお辞儀をした。
「上手くいったのかい?」
「わかりません…。」
「仕事ができないなら…ばらばらにして売っちゃうよ?」
幸村さんが恐いことを言うので私は顔が引きつった。
幸村さんはそのまま笑顔で歩いて仁王さんの部屋に入っていった。
お母さん……。
私はいつか幸村さんにばらばらにされて売られると思います。
「仁王、今日来るはずだったお客さん体調が悪くて来れないそうだ。」
「そ…。」
「嬉しいかい?」
「悲しいのう。」
「フフ…嘘吐きだな仁王は。残念だけどキャンセル待ちのお得意様に文を送ったよ。」
「…ん。」
「ところで、新しい新造はどうだった?」
私は自分の部屋に戻る途中廊下から空を見上げた。
もうすぐ日が傾く。
提灯や灯籠に光を灯して、綺麗なかんざし挿したなら、都一番立海遊郭の始まり始まり。
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