「Aさん。久しぶりだね。」

「幸村先輩…。」


考える間もなく、背後から聞こえた声は相変わらず柔らかくて、幸村先輩は微笑みを浮かべていた。
怒っているような雰囲気は感じられない。
それでもなんだか怖かった。


「精市先輩!」

「君は下に行って。赤也が待ってるから。俺はAさんと話がある。」

「先輩…。」

「言うこと聞いて。」

「は、はい…。」


ひーちゃんは私に頭を下げて中に入っていった。
外には私と幸村先輩、二人だけが残された。


「この病院、俺も前入院してたんだ。」

「前に言ってた病気ですか?」

「そう。一昨年の秋から夏まで。それから去年の夏の終わり頃。再発したんだけど、今はこの通り元気だ。」

「…………そうですか。良かった。」


幸村先輩は空を見上げて眩しそうに目を細めた。


「幽霊はまだ見えるのかな。俺にも話して聞かせてよ。仁王のこと。」


赤也に聞いたよ、と幸村先輩の唇がゆっくり動いた。


「仁王の幽霊と会ったんだってね。付き合ってたって?フフ…本当、作り話にしてはかなりお粗末だよ。今仁王はどこ?」

「今は見えません…。」

「どうして?嘘でいいんだよ?」

「嘘なんか吐きません!」


声に悲しさが滲み出た。
幸村先輩はベンチに座って横をとんと叩いた。


「座って。」

「…………。」

「座って。」


私は渋々少し距離を取って大人しく座った。


「わかるよ。Aさんって、嘘つけないタイプだよね。じゃあどうして仁王の幽霊なんて嘘を吐くんだい?何かそうしなきゃいけない理由でもあるのかな…。ああ、別れた赤也の気を引きたかったとか?」


やめて!と叫びそうになった自分を必死に抑えつける。
仁王のためにもここで負けるわけにはいかない。
ぐっと手を握りしめた。


「信じられないなら、信じてもらえなくてもいいんです。でも、幸村先輩に聞きたい話があります。どうしても聞きたいんです!」

「俺に?」

「はい。」

「いいよ。じゃあ俺が話す代わりに、君は何をしてくれるの?」

「え…?」


幸村先輩の顔を見た。
私を探るような目に一瞬攻撃的な色がよぎった。


「もうここには来ないって約束して欲しい。」

「…っ!幸村先輩!!」


思わず泣きそうな声で幸村先輩に噛みついた。
どうして幸村先輩がそんなことを言うんだろう。

私を助けてくれた幸村先輩を思い出した。
学校の優しいせんぱい。

大切な友達である仁王を、私から守ろうとしている。
知り合ったばかりで、みんなの心の傷でもある仁王の周りを嗅ぎ回っている私を幸村先輩は敵と見なしたのだ。
幸村先輩から見れば、いや誰が見ても、怪しいのは私の方で、幸村先輩はちゃんと正しい。
そして幸村先輩は多分、自分の大切な物を守るためなら、攻撃の手を緩めない人だ。
幸村先輩の雰囲気が、徐々に鋭くなっていく。
幸村先輩が怒ってる。


「仁王も来て欲しくないと思ってると思うな。」

「どうして幸村先輩にそんなことが言えるんですか!?」


それでも突っかからずにはいられなかった。
誰から否定されても、仁王と私の恋は、甘くて切なくてお互いが好きで、好きで、好きだった。確かな物だった。本物だった。そんな風にぐちゃぐちゃにしないで。


「こっちに来て。」

「……っ」


幸村先輩は私の腕を引っ張って、ベランダの金網の前まで連れて行った。
よろめいて金網を掴んだ。
自然と金網の向こう側に目が行く。
仁王とよく見上げた空は相変わらず街の上に続いている。
空と、広がる街と、病院裏の煉瓦の地面が下に見えた。
肩を支えられて、幸村先輩が私の後ろから話しかける。


「よく見て。ここから落ちたら怖いよね。」

「…………、」

「仁王はこういうところから落ちたんだ。Aさんは知らないだろうけど、さっきまで君といた後輩の子、わかるよね。仁王は、あの子のことが好きだったんだよ。」

「…、え……?」


大好きだったんだよ。と幸村先輩はわざと繰り返した。
緊張で乾いた喉から擦れた声が出た。
カシンと金網が揺れる。

嘘。

病室にいた仁王の顔が浮かんだ。
花束に埋もれるひーちゃんが、仁王の隣に並ぶ。
嘘、そんなはずない、仁王は私を好きになってくれた。
私だけが旧校舎で仁王を見つけたんだ。
仁王は、私を選んでくれたはずだ。


「ちょっと変わった子だよね。可愛らしくて、占いやおまじないが好きで、危なっかしくて、友達も少なくて、いつも仁王が助けてたよ。ひー子ってあだ名を考えたのも仁王なんだ。」

「…………。」

「仁王はあの子をかばって落ちたんだよ。それがどういうことかよく考えるんだ。君は、好きな人のために、ここから落ちることができる?」


風が吹いている。
髪も服も風ではためいている。
ここから落ちれば、きっとこんなものじゃない。
体中を風が突き抜けて、恐怖以外なにも考えられなくなる。


「自分の命を投げ出せるほど好きになった子に、君が敵うと思う?そんな人、あの子以外にきっともう見つからないよ。」

「…………っ」

「仁王に会った時、仁王はなんて言ってた?そんなに好きな子がいて、仁王が君と付き合うはずないよね、Aさん。」

「………」


嘘吐き、と幸村先輩の唇が動いた気がした。
気のせいだったかもしれないけど私の胸には十分深く突き刺さった。
痛い。でも何一つ言い返せない。
縫いつけられたように、唇は開かなかった。


「それで、俺に聞きたい話ってなに?」

「………いです」

「なに?」

「いいです…っ!いいです!!もう…!」


私は嘘なんか吐いていないのに、証明できるものは何一つなかった。
情けなくて恥ずかしくて今すぐここから逃げたかった。
泣き顔を見られたくなくて幸村先輩の手を振り払って、ベンチの傍に置いていた鞄を掴んでベランダを飛び出した。


「……!っ…、う…ぅ、…!」


漏れそうになった嗚咽を唇を噛み締めて飲み込んだ。
目も鼻も喉も心臓の奥もズキズキと痛い。
走ってエレベーターに乗って一階まで降りた。
すれ違う人は同情した目で私を見ていた。
病院の中で泣いている女の子を見て、見当違いな解釈をしているんだろう。
その通りだ。
私の恋は重傷で、死にかけていて、今こんなに私を苦しめている。
人の間を縫って一階のロビーを抜けた。


「A!」


玄関の辺りで後ろから腕を引かれた。
思わず振り返ると困惑したようなリョーマくんと目が合った。


「なんで泣いてんの。」

「………、なんでも、な…」

「なんで強がるのか意味がわからないんだけど?」


リョーマくんは私を抱き締めた。
同じか少し高いくらいの場所にある肩に顔を埋め、細いのに男の子らしい腕が背中に回されて、頭を撫でられた。


「リョ、マくん……、わ…たし、仁王と会ったのは、間違いだったのかな…?幽霊が見えるのは、私の都合が良い思い込みなのかも…もう、…!」




仁王はひーちゃんが好きだった。




ひーちゃんをかばって屋上から落ちるほど、好きだったって。
どうして。
どうして…?
仁王は覚えてなくて一人ぼっちだったから、たまたま私を好きになった?
もし意識が戻ってひーちゃんのことを思い出したら、仁王はひーちゃんをまた好きになるの?
私のことなんか忘れて、またどこかへ消えてしまうの?


「やだ…っ!嫌だよ…、いやだよ、や、だ…っ!!」


幸村先輩の言葉は、深く深く私に突き刺さった。
頭の中で想像した、ひーちゃんのために屋上から落ちる仁王の映像が繰り返し焼きつく。


「うそ、だ…って、いって、…」


だって、嘘じゃなきゃ。
私たちの恋も、出会いも、一緒にいた時間も、意味がなかったことになってしまう。
間違いだったことになってしまう。
仁王を助けてひーちゃんとくっつけて、私はそのための歯車に過ぎなくて。仁王とひーちゃんの人生を取り戻すための、二人のために用意された脇役で。


“俺、Aと仁王先輩を引き合わせるために、Aに会ったのかもしんねーな。”


赤也の言葉が痛い。
でも私は赤也みたいになれない。


「や…だ、にお…っ、」


置いていかないで。
私を捨てないで。
私がいれば何もいらないってもう一度言ってよ。
仁王に私は必要ないの?
もういらないの?
もうどうでもいい?


「う、…っ、うぅ……」

「A。落ち着いて。ねぇ。A。」


リョーマくんは私の背中を撫でた。
私はリョーマくんにしがみついて声を抑えた。
リョーマくんも気にしていなかったので人目も気にしなかった。


「頑張るって言ったじゃん。」


リョーマくんの声がリョーマくんの体に響いて聞こえる。
涙でぼんやりする頭に静かに入ってきて、とても落ち着く声だと思った。


「負けてどうすんの。」

「……で…も…、…!」


勝てない。
幸村先輩に、ここから飛び降りることができるかと尋ねられた時、私の足は完全に竦んでいた。


「勝てないよ…。」


ひーちゃんの顔が頭に浮かんだ。
雅治先輩という呼び方、仁王が考えたひー子というあだ名。
どんな気分で考えて、呼んでいたんだろう。
そう考えると、私の名前を呼ぶ仁王の声はとても軽く聞こえた。
考えれば考えるほど、ひーちゃんの名前が愛しくて大切な物に思えてくる。


「何もせずに負けるの?」


リョーマくんは私の頬に手を当て私の涙を親指で拭った。
自然と顔を上げるとリョーマくんと目が合った。


「そんなの俺は絶っ対、イヤだね。」


リョーマくんには、災厄を祓う力がある。
リョーマくんの目は強くて、リョーマくんの言葉は力で溢れている。


「負けないで。A。」

「………う、ん…。うん……。」


私はそれ以上何も返事ができずに、先に帰ることを赤也に伝えてほしいとリョーマくんに頼んで、その日はそのまま帰った。
自分の部屋に籠って、何かに耐えるように体を丸めていた。

仁王、ここに来て。仁王。仁王。
ひーちゃんを好きでもいいから、私のこと好きじゃなくてもいいから、仁王の口で説明してほしいよ。
涙が枯れて、ちゃんと私が理解できるまで、言い聞かせてよ。

一晩中泣いて願い続けても、仁王は応えてはくれなかった。
仁王から必要ないって言われても、私は頑張れるかな。
変わらず想い続けることができるのかな。
この想いを屋上から投げ捨てて、仁王の背中を押すことが。私にも。


――――――――できる?





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