仁王先輩。
仁王雅治先輩。

幸村先輩や柳生先輩と同じ歳で、赤也の先輩で、テニス部のレギュラーだった。
頭が良くて、かっこよくて、掴み所がない猫みたいな性格。


「あだ名が詐欺師で、柳生先輩に変装するのがすっげー上手かったんだぜ。へへ、仁王先輩が変装しても誰もわかんなかったんだよな。」


赤也は自慢げに語ってみせた。
私が出会う前の仁王先輩を私は必死に想像する。

去年、夏の全国大会が終わった後の秋頃、仁王先輩は旧校舎の屋上から落ちた。
旧校舎の屋上はフェンスが古かったことや給水塔やアンテナがあったこともあり、元々生徒の立ち入りは禁止されていた。
先生の見回りの目も届かないため、針金で器用に鍵を開けられる仁王先輩にとっては憩いの場だったのかもしれない。

そして、仁王先輩は落ちた。
少し肌寒いけれど、雲一つない晴天の日の夕方。
そこから見えた逆さまの風景はどんなものだったんだろう。
遠のく空、近づいていく地面、重力のない体で、必死に受け身を取って。

どうして落ちたのかは、赤也はわからないそうだ。
後になって事故だと聞かされたが赤也は納得できなかったという。
屋上のフェンスはどこも外れていなかった。
自分で乗り越えて、フェンスの外側に行かなければ、落ちることはない。
自殺したらしいと校内に密かに囁かれる噂を上塗りするために、赤也自身もあれは事故だったと口にして周りと自分をなだめるしかなかった。

救急車を呼んだのは柳生先輩だ。
仁王先輩は、今、立海の大学病院に入院している。
事件から一度も目を覚ましていないそうだ。
そのまま冬を越し、春を迎え、昏睡していた仁王先輩は、高校に入学することができなかった。
先輩たちは皆、卒業式よりも入学式の方が辛そうな顔をしていたらしい。


赤也に聞いた話を何度も頭の中で繰り返した。
赤也が事故について先輩たちに詳しく聞いても、わからないと首を振られたらしい。
幸村先輩たちにも仁王先輩のことを聞いてもいいかと言うと、赤也はちょっと待ってくれと言った。


「なんか、仁王先輩の話ってしちゃいけない雰囲気あってさ…。やっぱりそれだけショックだったっていうか。あの時の先輩たちは…見てらんなかった。俺は馬鹿で単純だからいいけど、仁王先輩の幽霊に会ったからなんて言ったら、もしかしたら、怒る先輩もいるかもしんない…。できればあんまり思い出させたくないんだ。」

「そう…。」

「まず二人で、一緒に病院に行こう。Aも何か思い出すかもしれねぇだろ?」

「うん!わかった。あ、リョーマくんにも呼ばなきゃ。」

「あ…?リョーマ?なに、誰そいつ。」


不機嫌になった赤也をなだめて、私は幸村先輩に紹介してもらったお寺の話をした。
赤也はリョーマくんを呼ぶことをやたらと渋っていたが、リョーマくんがいると幽霊が寄って来ないことを説明すると渋々頷いた。
また肩や背後の辺りを手で払っていた。










「ゲ!お前!越前リョーマ!」


リョーマくんにメールをして了解を取り、次の日の日曜日、私たちは三人で待ち合わせた。
予想はしていたけど、リョーマくんを見た瞬間、赤也は怒鳴った。


「リョーマってアンタかよ!」

「ああ……立海の。何だっけ。」

「立海大部長!切原赤也!何回試合したと思ってんだよ。潰す。」

「すみませんね切原サン。で、なんでアンタがいるわけ。邪魔しないでくれる?」

「それは私が説明するね!」


今にも暴れそうな赤也を抑えて、私はリョーマくんと赤也の間に入った。
仁王先輩の病院に向かいながら、リョーマくんにまとめて事情を説明した。
私の話は南次郎さんに聞いていたようだったので赤也と仁王先輩の関係について話した。
赤也が仁王先輩の特徴や、試合の話をするとわかったようだった。


「そう言えば、手塚部長とか大石先輩とか、試合した不二先輩とか、代表でお見舞いに行ってたっけ。…まだ目覚まさないの?」

「まあな。怪我はもういいはずなんだけど。」


リョーマくんは一言、ふーん。と言った。


「でさ、アンタたちはどういう関係?」

「「え」」


どういう関係かと言われたら、元カレと元カノだ。


「友達かな…。」

「へぇ。」


赤也が睨んで、リョーマくんは笑った。


「Sorry to hear that.」

「てめ!今なんつったんだよ!」

「別に。」

「A!訳!」

「あ、えっと…意訳でお気の毒に、みたいな意味かな…。」

「うっっぜぇ!帰国子女だかなんだか知らねぇけど、お前まじ潰す!!」

「赤也!」

「俺が嫌なら帰れば?」

「リョーマくん!もうケンカしないで!」


二人は噛みつきながら病院についた。
私が幽霊を見た横断歩道の近くだった。
もしかしたらあの日見た幸村先輩たちは仁王先輩のお見舞いに来ていたのかもしれない。
受付で病室を確認して、三人で病室に向かう。


「A大丈夫?」

「うん。」


心配そうな赤也に頷いて、私は緊張で固まる手を握り締めた。
仁王先輩を見て、私はちゃんと“彼”をわかるのかな。思い出せるのかな。

個室の前に立つ。
ネームプレートには仁王雅治の名前が入っていた。
厚くも薄くもない白い扉の冷たい取っ手に手をかける。
音も立てずに横にスライドさせると中から心電図の音が聞こえた。

ピ、


「A。」


ピ、
入り口で固まっていた私を赤也が呼ぶ。
リョーマくんが後ろで扉を閉めた。


「A、こっち来て。よく見ろよ。」

「大丈夫?」

「う、うん…。」


私は赤也とリョーマくんに見守られてゆっくりと部屋の真ん中にあるベッドに近付いた。


「仁王…先輩……?」


ピ、

電子音が跳ねる。
白い肌、銀色の髪は短く切りそろえられていて、瞼は接着剤でくっつけられた人形のように動かない。


「仁王…先…?」


わからない。
ちゃんと目を開けて、動いて、名前を呼んでくれなくちゃ。


「A…」


ピ、

彼を包む消毒液の匂い。
生々しい生気の薄さを繋ぎ止めるように、私はその白い腕に手を伸ばした。


「仁王……。」


腕に触れた瞬間、私の中で涙が溢れた。


“A”


笑うように、愛しむように、風に流れるようなスピードで、仁王の声が聞こえた気がした。

そうだ、どうして忘れていたんだろう。
こんなにも、仁王への想いが溢れて止まらない。
髪一つ、声一つ、体温一つ、瞬き一つ、仁王を作る全てに、私は恋をしたんだ。

仁王の腕に、うっすらと爪で引っ掻いたような跡があった。
そこに手を重ねてみる。
私の手の形とピタリと重なった。
階段から落ちそうになった時に助けてくれた跡だ。
そう思うと尚更涙が流れた。
好きな人の痛々しい姿、ようやく会えたのに、こんな形でしか確かめ合えないなんて。


「……っ、ふ、」

「A…」


後ろから心配した赤也が私の肩を引いた。


仁王。仁王。仁王。

仁王が本当に生きていてくれて嬉しい。
どう表現していいかわからないくらい嬉しい。
でも涙が止まらない。
私は温かい仁王しか知らないから、こうして仁王を前にしたら今仁王が倒れてしまったようで、それを目の当たりにしてしまったようで、気持ちの整理が追い付かなくて、涙が止まらなかった。
動かない仁王を私は知らない。


「…っ、ぅ…」

「A…。一旦外の空気吸いに行こうぜ。な?」

「切原さん、誰か来たっすよ。」


リョーマくんがそう言った瞬間、病室の扉が開いた。
色とりどりの花束に埋もれて、大きな瞳がまん丸になる。


「あ…れ…?赤也先輩…?」

「ひー子!」


ひー…子…?
赤也の顔色が変わった。
こんにちは!と眩しい笑顔で挨拶をした反動で茶色の髪がふわふわと揺れた。
見間違えるはずがない。赤也の元カノで後輩の美少女だ。
私は慌てて隠れて涙を拭き、何ともない顔をして後輩を見た。


「あ、えっと、後ろの二人は…?」

「お、お前はいいから!花は挿しとくから今日は帰れ!ほら!」

「え?どうしてですか?いたたた、せんぱい…!」


何度もここに通っているかのような感じだった。
どうして赤也の元カノが。
仁王と赤也の元カノにどんな関係が。
考えてみてもさっぱりわからなかった。
赤也は慌てて後輩の手から花束を受け取り病室から押し出そうとしている。


「はやく!」

「あか、赤也先輩!でも精市先輩も来てるのに。」

「まじで!?やっべえ…!A!」

「え?」

「ひー子!A連れてしばらく隠れてくれ!越前!お前は病院の中テキトーにうろついてろ!」

「はぁ…?なんなわけ…。」

「幸村部長がいなくなったらメールするから!ひー子、行け!」


赤也は後輩と私とリョーマくんを外へ押しやってピシャリとドアを閉めた。


「ちょっと赤也!」

「先輩、こっちです!」


後輩は小さな手で私の手を掴んで階段の方へ早足で歩き出した。
リョーマくんは肩をすくめて、エレベーターの方へ向かったようだった。


「どこ行くの…!」

「一つ上の階のベランダです。」

「一階の待合室でも良かったんじゃない…?」

「だめです!精市先輩は鋭いから!」


なんとなく二人きりになりたくなくて言ってみればあっさり断られた。
私は仕方なく黙ってついて行った。
階段を上って廊下を真っ直ぐ進み、後輩が言っていたベランダは突き当たりにあった。
あまり広くはない。
真ん中に背中合わせになっているベンチが二つ置いてあった。
すぐ近くではシーツが干されている。
私たちはなんとなくベンチに座った。


「ふぅ…。ふふふ、びっくりしましたね。」

「うん…。」


私なにしてるんだろう。とぼんやり上を見上げた。
こうして仁王ともよく眺めていたっけ。
空は今日も青い。
私はまた溢れそうになる涙を上を向くことで必死に我慢した。


「ひー子ちゃん…?だっけ。」

「はい、えっと、A先輩。ひー子っていうのは、あだ名なんです。友達は、ひーとかひーちゃんって呼ぶので、好きなように呼んでください!」

「そう?じゃ……ひーちゃんで…。」

「はい!」

「お見舞いは、よく来るの?」

「はい。そういえば、A先輩はどうしてお見舞いに来たんですか?それにもう一人の…。」

「リョーマくんは私の友達で、ただの付き添いだから関係ないんだ。私は、仁王の知り合いだったから。」


間違ってはない。
説明をしているとなんだか微妙な感じになってしまったが、ひーちゃんはそれで納得したようだった。


「実はA先輩のこと、私知ってたんです。赤也く…赤也先輩が、よく話してたから。」


うわあああああ

いきなり爆弾を落としたひーちゃんに私はビシッと固まった。
関係ないけど後で赤也を殴ることを決意し、私は必死に声を絞り出した。


「私も、ひーちゃんのこと知ってたよ。」

「えっ。そうなんですか?じゃあ私たち、前に旧校舎前で会った時知らないふりしたんですね。ふふふ変なの。」

「はは…。」

「赤也先輩、A先輩のこと大好きだったんですよ。だからA先輩ってどんな人なんだろうと思ってて、そしたらすごく綺麗で大人っぽくて、私なんか全然だめだなぁって思ったんです。本当に、昔から私のろまで、だから、赤也先輩は私がただ可哀想だったから付き合ったんだと思います。雅治先輩も私に友達があんまりいないから構ってくれて、精市先輩は私のこと多分あんまり好きじゃないから。」

「そんなこと、ないでしょ…?赤也も幸村先輩も仁王も、そんな人じゃないよ…。多分。」

「えへへ。ありがとうございます。でも精市先輩は…。」

「ひーちゃん…?」

「あ、それで、えっと。雅治先輩が入院したの私のせいだから、私すごく責任感じて落ち込んでたら、赤也先輩がいっぱい色々話しかけてくれたんです。ふふふ、赤也くんは優しいですよね。」

「…………。」


赤也くん、かぁ…。
きっと付き合っていた時は、そう呼んでいたんだろう。


「って、仁王が入院したのが、ひーちゃんのせい!?」

「はい。うーんと、私こんなだから、悪いこと全部きっと私が悪いんです。」

「そんな…。ひーちゃんのせいって、その…仁王は事故じゃなかったの?」

「なんだか、私にもよくわからないんです。雅治先輩がどうして落ちたのかわからないんです。でも本当に、私のせいなんです。」


要領を得ないひーちゃんの言葉に私は首を捻るばかりだった。
ひーちゃんは自分でも混乱しているのか、申し訳なさそうに謝った。


「すみません…。こんなだから、精市先輩にも嫌われちゃうんですよね。」

「あはは、大丈夫だよ!ひーちゃんは女の私から見ても可愛いし、羨ましいよ。赤也が好きになったのわかるもん。」

「……!ありがとうございます。でも、すぐに別れちゃったから、赤也先輩はA先輩のことがまだ好きなんです。だから…だから…あの…赤也先輩のこと、また考えてくれませんか。私がこんなこと言うのすっごく変だけど、先輩にずっと言いたかったんです…。」


ひーちゃんの目が大きく揺らいだ。
私は眉を八の字にして曖昧に笑った。
私も正直に胸の内を口に出した。


「ありがとう。でも、私今好きな人いるんだ。」

「え…?」

「赤也じゃない別の人…。だから、赤也はもう友達。」

「そうなんですか…。ごめんなさい。私のせいですよね。すみません…。」

「ひーちゃんのせいじゃないよ。赤也と私のことは私たちの問題だし…。あ、そういえば、ひーちゃんに渡したいものがあるの。」


ひーちゃんが泣きそうな顔で謝るので私は話題を変えようと鞄から落とし物を出した。
前にひーちゃんと会った時にひーちゃんが落としていったものだ。
古びた紐のようなもの。
これと南次郎さんから貰った御守りは常に持ち歩くことにしていた。
紐を見せた瞬間、ひーちゃんの顔色が変わった。


「返して!!!」

「わ…っ!」

「これは私の御守りなの!!」


ひーちゃんは飛びかかって私の手から強い勢いで紐を取った。
目を見開く私と睨んでいるひーちゃん、二人の間にある空気がぴりぴりと痛い。
ひーちゃんは紐を大切そうに両手でそっと握り締めた。
伏せられた瞳が潤んでいる。
二人の空気を壊したのは、私のケータイの着信だった。
ほぼ同時にひーちゃんのケータイも鳴った。
ひーちゃんははっとした様子で私を見た。


「あ、赤也先輩じゃないですか…?」

「ひーちゃんこそ…。」


私たちは顔を見合わせてそれぞれケータイに出た。


「も、しもし?赤也?」

「A!悪ィ!バレた!」

「え?」

「幸村部長そっち向かってるから!ひー子から離れて逃げろ!」

「は?なんで?」

「幸村部長が、むちゃくちゃ怒ってる!!」


赤也が何をそんなに慌てるのかわからなかった。


「精市先輩っ!」


隣でひーちゃんが明るい声でケータイに出た。
無意識にでもその声はとても女の子らしくて、ひーちゃんが誰を想っているのか、私の頭に予感が過ぎった。
そう言えばさっきも何度も幸村先輩のことを気にしていた気がする。


「え?今ですか…?上のベランダにいますけど…。え?でも……。」


私はひーちゃんに気づかれないようにベンチから立ち上がった。
私たちの横ではシーツが風に泳いでいる。
逃げなくちゃ、でも。
仁王に近付くためには、仁王を探すためには、どんな道に何があっても立ち向かわなくちゃいけない。





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