笑った。


俺はAと話しているとよく笑った。
思い出してみれば、笑うというのはこんなに簡単にできるものだったのか。
俺はどれだけの間、忘れていたのかすらわからない。

楽しいという気持ちを思い出す。
幸せという気持ちを思い出す。
嫉妬という感情を思い出す。
好きだという感情を思い出す。

痛いという感覚を、思い出した。

Aと出会って、俺は本当は生きていて、Aと同じ時間の中にいて、このままずっと二人でいられるんじゃないかとさえ思った。
あんなに苦しくて不安でもどかしく虚しいだけの毎日が明るくなった。
明日が待ち遠しくて、Aが屋上のドアを開けて俺を見つけた時に零す笑顔が何より好きで。

それなのに、俺はこのフェンスから先に行けない。
Aにガラスが落ちてきても、車が突っ込んできても、他の幽霊が迫っていても、この屋上から出られない。
Aに危険が迫っていることはわかるのに。すぐにでも走っていってAを庇いたいのに。

俺は、好きな女の子一人、守れなかったのだ。




見慣れない高齢のおばあさんが、目の前に立っていた。
優しい目元がよくAに似ていて、俺はすぐにそれがAの守護霊なんだとわかった。
優しく、それでいてとても強い力をもったその人は俺に頭を下げてゆっくりと微笑んだ。
わかっているんでしょう?とその人は静かに言った。
何も答えられなかった。
俺はわかっていたから。
俺に近づいたせいで、Aには霊障が起きていた。
俺という幽霊と関わったことによって、無理にこじ開けられたAの霊感は日に日に強くなっていく。
俺にはそれが止められない。

もともとAには素質があったのか、守護霊たちが守っても抑えきれない程膨れ上がった霊感目がけて、低俗霊たちが集まり始めた。
彷徨い続ける幽霊たちの世界で、霊感がある人間は暗闇の中で輝く光に見えてしまう。
そこに集まるのは仕方がないことだが、低俗霊の一つ一つは弱くても集まると厄介なものに変化する。
不幸が続きながらもAが無事だったのは、このおばあさんの力が強いおかげだ。

このままではAは近いうちに死ぬでしょうとその人はまた言った。
あなたもこのままでは永遠に現世を彷徨うことになるとその人は言った。


「すまんのう。好きになってすまん。A…。」


その人はゆっくりと俺の頭を撫でた。
心配ないよとそれだけ告げて、その人はいつの間にか消えていた。

Aを守る力が欲しかった。



いつもいつも、目を覚ますと屋上に立っている。
毎日その繰り返しだ。
屋上にいない間、自分がどこにいるのかはわからないし覚えていない。
もしかしたらどこかを彷徨っていたのかもしれないし、もしかしたらその間、俺は消えているのかもしれない。
Aが認めているから、俺が存在する。
本当にたったそれだけの存在。
Aの負担になるだけの存在。

霊障が起こりだして、Aはだんだん元気がなくなっていった。
目の下にくまをつくって、ふらついていて、傷が絶えなくて、どこか上の空だった。
「仁王と一緒にいたい」というAの言葉は、いつからか危うさを含むようになっていた。
まるでそのまま俺と同じように屋上から飛び降りてしまいそうで怖くて、なのにどこか喜んでいる自分もいて、怖くなった。
このままじゃ、低俗霊より先に、俺がAを殺してしまう。

Aの傍にいたい。
でも強く想っていはいけない。
Aに取り憑いてしまわないように、愛情が依存に変わらないように。


「たす…け…て…!助け…て…!仁王…っ!!」


呼んでくれ、もっと、俺を。俺の名前を。
俺がちゃんとお前さんを守れるように。
ちゃんとこの手がAに届くように。


“ 俺がおると、お前さんが不幸になるぜよ ”


なに、ほんの少しの間だけのさよならだ。
たとえAが俺を忘れても、俺はAを永遠に守るだけだ。

そうして、俺はゆっくりと目を閉じた。
泣いて俺に縋るAの後ろで、いつか会ったAのおばあさんが悲しそうな顔をして力を込めた。
Aの霊感を塞いで、それを確認してから、おばあさんは俺に頭を下げた。

Aとおばあさんは静かに屋上を出て行った。
俺はその後ろ姿を見送った。

Aと出会う前の俺に戻った俺は、またぼんやりとただ空を眺める。
ここでこうして待っていればきっと俺は夏の終わりのお盆の時期にはここから前へ進めるはずだ。
もう思い残すことはないはずだから。
成仏して、自分がどこへ行くかはわからないけど、もし神様がいたら頼んでみよう。
Aの守護霊になりたいと言ってみよう。
俺はきっとそのために成仏せずに屋上で待っていたのだ。

永い時を、Aと出会うために。












「ちっとは落ち着いたみたいだな。」

「はい、すみません…。」


私はさっきまでの抑えきれなかった感情の波を思い出して申し訳なくなった。
出された煎茶が涙で水分を失った喉に沁みる。
静かになった私を見て南次郎さんが「最近のガキっつーのはみんな落ち着いてんのかね?」と頭を掻いてぼやいていた。


「それで、単刀直入に聞くぜ。何があった?」


ふざけたり急に真面目になったりよくわからない人だ。
南次郎さんの有無を言わせない鋭い眼に少し戸惑ったが頼りがいも感じ、なんだか安心して私は何があったのか最初から全部を南次郎さんに打ち明けた。
彼と出会ったこと、彼と付き合ったこと、幽霊が見えるようになったこと、彼が消えてしまったこと、彼の全てを忘れてしまったこと。
南次郎さんは頷いたり、へーとかほーとかリアクションを取りながら私の話を最後まで聞いてくれた。


「ま、Aちゃんのことは大体わかったわ。」

「信じてくれるんですか…?」

「人の話を聞くのがおじさんの仕事だからね。それにこういうのは信じる信じないってよりは、困ってる少年少女たちを導くのがおじさんの役目ってもんだ。だーいじょうぶ大丈夫!おじさんに任せときなって!」

「私、いつの間にか向こうの世界に引きずられていたんですね…。きっと彼はそれに気付いて、私の前から消えたんです。」


南次郎さんは膝を立てて肘をついて私を見ていた。
唇を尖らせて気まずそうに唸ると言いにくそうに切り出した。


「でも結果的に、それが正しかったんじゃねぇか?Aちゃんは生きてる。そいつと、Aちゃんの周りにいる人たちが助けてくれたんだろう。」

「………。」


“お前さんが不幸になる”


私は思い出して、膝の上でぎゅうと手を握りしめた。
それからしっかりと南次郎さんの目を見た。


「ごめんなさい…わかってるんです…。今のこのままが、一番正しいんだって。」

「おう。」

「でも、私、彼を思い出したいんです。彼は多分まだ成仏してなくて、どこかに独りでいるはずだから…。この世界と向こうの世界の均衡は壊さないって約束します。だから、彼をきちんと送る時間が欲しいんです…!彼にちゃんと幸せになって欲しいんです!」

「…簡単に言ったけど、俺ァ想像以上に大変なことだと思うぜ。もしかしたら、そいつは成仏できても、Aちゃんは不幸になるかもしれない。どうかするとAちゃんの一生が狂っちまうかもしれない。命の危険があるかもしれねぇしよ。それでも、やるか?」

「はい!」


南次郎さんは一息を吐いて両手を後ろについた。


「ハアァァ〜…。仕方ねぇか…。言って聞くならわざわざここまで来ないよな。」

「す、すみません…。」

「あーいいってことよ。一先ず、その彼とやらを探さねーと。幽霊は生前と関わりあるところに惹かれやすいから、そいつについて詳しく調べてみるこったな。」

「はい!」

「それから、霊感を取り戻す必要があるな。こればっかりは慎重にやんねぇと、俺がお前の婆さんにどやされそうだぜ…。」


南次郎さんはちらりと私の後ろを見た。


「え?」

「いんやこっちの話。ちょっと待ってな。」


南次郎さんは席を立ち、部屋の隅の戸棚を順番に開けてごそごそと何かを探した。


「えーっと、どこにやったっけな…。あ〜あった。これだこれ。」


ほらよ、と南次郎さんが小さな物を私に投げた。
私は慌ててキャッチする。
手のひらに収まる大きさのそれは、小さなお守りだった。


「持っていきな。気休めにしかなんねぇけど、おじちゃんの手作りなんだぜ。」

「ありがとうございます!本当に、ありがとうございます!」


南次郎さんはウインクをすると白く綺麗に揃った歯を見せてにっと笑った。
私はお守りを大切に制服のポケットに入れた。




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