翌日は、異常気象とはまるで無縁の快晴だった。
私は朝、赤也が部活に行っている隙を狙って旧校舎に向かった。
本当は昨日行きたかったのだが、赤也がきっちり横に居たのでできなかった。
歩くたびにガシャリと廊下に散らばったガラスが割れる。
旧校舎の内装は荒れていて、昨日の暴風雨の威力を物語っていた。
各所で電球が割れた跡があった。
「やっぱり…雷は落ちたんだ…。」
誰一人気付かなかっただけで、私は確かに昨日雷が落ちたここで死にかけたんだ。
私は昨日のことを思い出して、また寒気がした。
大丈夫。
夢でおばあちゃんが背中を撫でてくれた時のことを思い出して深呼吸をすると少し落ち着いた。
「仁王…。」
本当は昨日のことが怖くて、旧校舎に行くまでに何度も足踏みしたけど、私はとにかく仁王に会いたかった。
旧校舎は昨日とは違う、いつもと同じ空気だ。
なのに、昨日感じた不安がまだ胸から消えない。
私は階段を上がって、屋上の扉を開けた。
開けてすぐ屋上の真ん中に落ちたアンテナが見えた。
金属の棒が折れ曲がって、床のタイルを崩している。
アンテナに繋がっていた電線が切れて地面に焦げ跡を残していた。
「仁王!」
「おー。」
壊れたアンテナの先に、陽の光にきらきらと反射する銀色の髪が見えて私はその背中に飛びついた。
ぎゅうと力を込めると仁王は痛いと言った。
「昨日どこにいたの!?大丈夫だった!?」
「昨日…?」
「大雨降ってたし、雷も落ちたでしょ?」
「あー…そうじゃったか…?天気なんかあんまり気にせんけぇのう。別に雨が降っても濡れんからな。便利じゃろ。」
私はどうでも良さそうに答える仁王に大きくため息をついて脱力した。
「A?大丈夫か?」
「はは…うん…。大丈夫。」
昨日あんなに大変なことがあったのに、元気そうな仁王の顔を見たら全部忘れてしまった。
赤也や幸村先輩に心配かけておきながら自分でも現金な奴だなと思う。
二人の間を気持ちの良い風がゆるりと流れて抜けた。
仁王が微笑みを浮かべ、私は視界の端にそれを見て、顔を上げて仁王の目を見ようとした。
「A。」
「ん?…!」
名前を呼ばれてすぐに、目の前に仁王の顔があった。
触れるか触れないか程度の位置で重なった唇からは仁王の温度と私の温度が交わる。
思わず目を閉じると、割れ物を触るような手つきで髪を撫でられた。
反対の手でまだ少し赤い手の痕が残る私の腕をさする。
そのまま頬に移り、あやすように肌の上を滑って、私はそれに合わせて呼吸をした。
「大丈夫。」と聞こえたのは、仁王の声だったのか幻聴だったのか。
「俺、成仏するぜよ。」
「…?にお…?」
「さよならじゃ。」
「え?なに?仁王…?ちょっと…!」
「色々ありがとさん。」
「なんで…!いきなりどうしたの!?仁王、なんで…っ!なんで!!!」
「 」
「仁王!仁王!! なに 言 聞こえ な い なんで突然そう な 仁 王 …… い 待 て に ……・・・・・」
「 」
ゴトン、と頭を窓枠にぶつけて目が覚めた。
ガタンゴトンと一定のリズムで電車が揺れるたびに頭上で吊革が仲良く揺れていた。
私は寝起きでぼやける頭で必死に現在地点を確認する。
どうやら降りるべき駅はまだのようだ。
私は胸を撫で下ろしてふかふかの座席に座りなおした。
車内はそれなりに混雑しているが、平日の昼前のせいか人は普段より大分少ないはずだ。
学校は創立記念日で丁度休みだった。
手には切符とメモ用紙がある。
寝ている間にそうしたのか握りしめて曲がっていた。
折り目がついた端を指先で伸ばして、私は窓の外の景色に目をやった。
この辺に来るのも随分久しぶりな気がする。
神奈川にある立海に通い出してからは、東京の方へはあまり行かなくなった。
車内のアナウンスが聞こえて、私はふと降りるために座席を立った。
幸村先輩のメモ用紙には聞いたことのないお寺の名前が書いてある。
今日は今からそのお寺に行こうとするところだ。
駅を降りて駅員の人にお寺の名前を告げると場所を案内してくれた。
地図を頭に入れて見慣れない場所を一人、歩いていく。
お寺についてから私は迷うことなく中に入った。
お寺は思ったよりも広く、本堂がどれだかわからない。
住職の人に会うためには本堂に行くべきか、それとも隣の檀家の方へ行ってみるべきか。
ゴーン…とお寺の鐘の音が聞こえて、私はそっちの方へと向かうことにした。
角を曲がって目に飛び込んできたのは、お寺の中とは思えない手作りのテニスコートと鐘を器用に足で突きながら雑誌を広げるお坊さんの姿だった。
唖然としていると足音で気付いたのかお坊さんが頭を掻きながら振り向いた。
無精髭がよく似合う思ったよりも若いお坊さんだった。
「あン?」
お坊さんは私を見ると眉をひそめて小声でぼそぼそと呟いていた。
「こりゃあ厄介なのがきやがったなぁ。あーめんどくせ…。」
お坊さんは雑誌を放り投げて鐘の縄を足から外すと、木製の欄干に肘をついて私に向き直った。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
お坊さんはいかにも面倒臭そうに耳に小指をいれて口を尖らせた。
「お嬢ちゃん…?」
“ 俺がおると、お前さんが不幸になるぜよ ”
「……………ッ!!!!」
違う。そんなことはなかった。
嫌だ。消えないで。
あの後、どうなったのか、何があったのか、私の頭の中にはその辺りの記憶がない。
午後の授業は何を習ったのか?
放課後どうやって家に帰ったのか?
夜ご飯は何を食べたのか?
何を考えながら、布団に入ったのか?
なぜ今日は何も悪いことが起きないのか。
おぞましいものを一つも見ないのか。
どうしてお寺の住所も書かれていないのに降りるべき駅がわかったのか。
気が付いたら電車に飛び乗って、お寺に来ることしか考えられなかった。
まるでその道しか他には残されていないかのように、私はただここに来て縋りたくて。
“ ごめん ”
(………!……!……!!)
きっと、学校に行っても、彼はもう。あの後ろ姿はどこにもない。
それどころか私は、幽霊が見えなくなってしまった。
彼に会う前みたいに、綺麗に閉ざされてしまった。
こんな状態で彼のことが見えるのだろうか、見つけられるのだろうか、探し出せるのだろうか。
本当に?
触れられるのだろうか、あの優しい手に、綺麗な髪に、背中に、腕に、頭に。
あの声で名前を呼んでもらうこともなくなったのだろうか。
一緒にお昼を食べる事も、一緒に笑う事も。
こんなに好きなのに。こんなに好きになったのに。
「たすけて…、たすけて……。」
それはとても朧気なものでしかなくなってしまった。
こうして見えなくなると、顔も声も背格好さえも記憶の中でぼんやりしている。
すぐに色褪せてしまいそうなほど弱く、残った鮮烈な感情だけが喉に焦げ付いて痛いほど残っている。
これじゃ幽霊と同じだ。
生きていた頃の記憶をなくして、それでも強い感情に縛られて、何かを求めて彷徨い続ける。
なまえ、名前、さえ、あんなに毎日胸の中でも口に出しても繰り返し呼んでいたはずの名前さえも、思い出せないなんて。
最後のキスの感触も、温度も、彼の何も私に残っていないなんて。
「嫌…!忘れたくない…っ。わ…たしは……、」
どんなに幽霊に苦しめられても、ほんの少しも不幸なんかじゃなかったのに。
「ほれ。」
いつの間に降りて来たのか、お坊さんは首に巻いていたタオルを私に渡した。
「鼻水拭いて、まァその、なんだ。茶でも出すから、とりあえずうちに上がれや。」
お坊さんはそれだけ言うと頭を掻きながら、まいったまいったね〜っとォと呑気に歌いながら歩き出した。
私は慌ててお坊さんの後を追った。
「おじさんは越前南次郎っつうんだ。本物の住職じゃあないんだけど、まぁ縁があってこの通り今はおじさんが代理だ。俺のことは南次郎さんでもおじさまでも好きに呼んでいいぜ。」
「は、はい…。」
「それにしても色々大変だったろ。やっぱり幽霊なんか見てぇもんじゃねぇよなァ。」
「……!どうして…!」
「う〜ん若いっていいねえ。」
南次郎さんは大声で笑って私の背中を叩いた。
びっくりした。
力が強くて少し痛かったけど、さっきまでの喉が焼け焦げるような苦しい感情は凪いだ気がした。
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