ざわざわと胸の奥が落ち着かない。
雨が降っていたからでもなく、誰かに何か言われたわけでもなく、幽霊に何かされたわけでもなく、直感的に今日は良くない日だと思った。
憂鬱で重たい足取りで学校へ辿り着いた。
それだけでなんだか疲れる。
「……はよ。」
「赤也…おはよう。どうしたの?ずぶ濡れじゃない。」
靴箱で覇気のない声に呼び止められて私は目を丸くして立ち止った。
やんわりストレートになった赤也が雨に濡れた子犬のような目をしていた。
両脇にかかえたカバンとぐしゃぐしゃに丸めこまれた制服も濡れている。
得意気にテニスの武勇伝を語る時に見せびらかすレギュラージャージの裾からボタボタと水滴が落ちていた。
「これくらいの雨なら朝練できるかなと思ったんだけど無理だった。途中から思いっきり降ってきやがってさ…。」
「相変わらず無茶やってるの?」
「うっせ。」
「風邪引くから早く着替えないと。」
「着替え持ってねぇし、しばらく保健室いるから先生に上手く言っといてくんねぇ?」
赤也は張り付く髪が不快なのか頭を振った。
飛んでくる水滴に嫌な顔をすると赤也は悪ィと笑って謝った。
「授業ついていけなくなっても知らないからね!」
「いっつもサボってるお前に言われたくねぇよ。」
拳を振り上げて殴る真似をすると、ベーと舌を出して赤也は保健室に走って行った。
あのやんちゃな男は私だけじゃ飽き足らずどれだけ周りに迷惑をかけたいのか、水がべちゃべちゃと廊下に垂れていくのを見ながら私は肩をすくめた。
「……。」
挙げたままの腕をおろして私も教室へ向かう。
形容しがたい不安が、胸の中で広がっていく。
それと連動するように空を分厚い曇が埋めていった。
「嘘でしょ…。」
私はザアザアと滝のように降る雨を見て立ち尽くしていた。
地面にはすでに水が溜まっていて洪水のようにどこかへ流れていく。
雷が鳴り響く中、私は帰るのを諦めて靴箱から教室へ再び引き返した。
雨はますます激しさを増して、未だかつて見たこともないようなおかしな色の空で分厚い雲が唸りをあげている。
校舎は帰れない生徒で静かな喧騒に包まれていた。
外が雷で光ると色んなところで悲鳴が聞こえた。
遠くでまだ鳴っている雷鳴を聞きながら、廊下で親に電話をしてみたが電波が悪いのかまだ仕事中なのか出なかった。
ケータイのワンセグは途切れ途切れになった画面から天気予報が異常気象の豪雨を伝えている。
私はアンテナを戻しケータイを閉じて窓を見上げた。
「どうしよう…。」
そう言えば、仁王は。
ハッとして、私は旧校舎が見える窓まで走った。
雨に叩きつけられた旧校舎はますますホラーめいている。
窓ガラスは今にも割れそうだし、野ざらしになった壁も壊れそうに見えるほど強い風に押されていた。
入り口の扉が強い風でバタバタとせわしなく動いていた。
「お願い…!こっちに来て…!!」
前に仁王が現れた時みたいに、呼べば来てくれるんじゃないかと祈ってみたが何も起きなかった。
こんな雨の中に仁王が一人だけいると思うと私は居ても立ってもいられなくなった。
洪水みたいになっている校門前はさすがに通れないけど、旧校舎までの道なら、下は土で水は溜まっていないし、旧校舎まで行けば屋根があるから大丈夫だろう。
どうせ家に帰る頃にはびしょ濡れだ。
今濡れようが帰りに濡れようが同じだと、私は意を決して旧校舎へ続く道へと激しい雨の中飛び出した。
横殴りの雨に叩かれながら旧校舎へ入る。
中に入ると途端に外の音が鈍くなった。
静かな室内は異様な雰囲気に満たされている。
外で轟々と風が音を立てているせいか、誰もいないのに何かが沢山ざわめいているような感じがして不気味だった。
「仁王…。」
近くにある階段に目をやって肩で息をしながら、薄暗い階段を駆け上がった。
なんだか空気が重くて息苦しい。
何かがいつもと違う。
何段上がっても、屋上に辿り着けない。
その時、窓の外で強い閃光が走った。
「きゃ…!!」
凄まじい轟音が鳴り響いて校舎が揺れ、私は慌てて階段の手すりを掴みその場にしゃがんだ。
雷鳴が聞こえて、旧校舎の電球がビカビカとフラッシュした。
光のせいで眩暈がする目を強く閉じて衝撃が収まるのを必死に待った。
校舎全体に響いている振動が全身にも伝わってくる。
大きな音のせいで耳がおかしくなるのを感じて、私は細く眼を開いた。
こわい
「…!…っ!!」
パリン!と破裂音が走る。
雷が落ちて電線に走ったのか、天井にある電球が勢い良く割れて火花が散った。
逃げなくちゃ…!
そう思うのに、金縛りにあったように恐怖で体が動かない。
力が入り過ぎて全身が痛い。
動こうと思っても思うように力が入らず、私は目だけ動かして、縫いつけられたように動かない足元を見た。
そこには、手、手、手。沢山の青白い手が私の足を掴んでいた。
「きゃ……っ!!」
階段の下から次々に這い上がってくるそれは、もうとても人間だとは思えなかった。
人間にしては細すぎる不自然な手が私の手足に食い込むほどの力で掴んでくる。
ぎしりと骨が悲鳴をあげた。
「いやああああっ!!離して!離して…っ!あああああ!!」
私は狂ったように声をあげて抵抗した。
恐怖で無意識のうちに流れ出した涙が冷や汗と混ざって落ちていく。
ぐるぐると回る視界に訳がわからなくなる。
誰か、誰か、………!!
まるで奪い合うかのように強い力で四方八方に引っ張られ、このまま手足が引き裂かれてしまうかのような気がした。
手すりから引き剥がそうと、肩に、手に、足に体温のない乾いた粘土のような指が容赦なく力を込める。
「いや…!たす…け…て…!助け…て…!仁王…っ!!」
汗で手が滑り、とうとう手すりを離してしまった瞬間、引きずられるようにして私は頭から階下へ落ちた。
落ちる私の手を、誰かが上から掴んだ。
その途端に、私を引っ張る沢山の指が消えて、体が自由になった。
私は目をつぶったまま、私を助けるこの暖かい手は仁王なのだと思った。
いつも私を撫でてくれた仁王の手。
私の意識はそこでブツリと真っ黒に途絶えた。
夢の中で、私は長い月日を旧校舎でさまよった。
まだ旧校舎が旧じゃなかった頃の、私のものじゃない沢山の人の、建物に焼き付いた記憶。
逃れたい。
解放されたい。
苦しい。
行きたいのに行けない。
生きたいのに生きられない。
色んな事情や思い出が苦しくて、悲しくて、つらくて、私は涙が止まらなかった。
泣く私をおばあちゃんがあやしてくれた。
幼い頃のように、何度も私の背中を撫でてくれた。
「A!!」
強い消毒液の匂いと、白い天井が眩しい。
「………赤也…。」
「A!!先生…Aが目覚ました!」
赤也がカーテンを開けて先生を呼びに行った。
私はゆっくり起き上がって周りを確認した。
どこからどう見ても学校の保健室だ。
少なくとも天国じゃないようだ。
顔の横が濡れていて、私はずっと泣いていたことに気付いた。
重たくて悲しい亡くなった人たちの記憶。
私は寒気がして体をさすった。
ふと腕に沢山の人の指のような赤い痕が残っているのに気付いて布団の中に慌てて隠した。
「気分はどう?」
「大丈夫です…。」
「まだ顔色が悪いわね。風邪引いたんじゃないかしら。」
先生は私の顔を覗き込んで、他に痛む場所はないか尋ねた。
赤也は先生の後ろで怖い顔をしてじっと私を見つめていた。
「あの…私…何があったのか覚えてなくて…。」
「校舎の前で倒れてた。」
先生の代わりに固くなった声で赤也が答えた。
「頭は打ってないみたいだし、他に怪我もないし…。あえて言うなら寝不足かな?どうして倒れていたのかは…わからないのよ。あんな雨の中、一人で帰ろうとしたの?」
「私は…旧校舎…そう…旧校舎に雷が落ちて…!」
「雷?そう…?先生は気付かなかったけど…切原くんは?」
「旧校舎に雷なんか落ちてねぇよ。誰も何も言ってなかったし、見てもねぇ。」
「………。」
「夢見てたんじゃねーの。」
あれが、夢?
呆然とする私に赤也が冷たい視線を投げつけた。
また旧校舎。
赤也は益々眉間に皺を寄せた。
「赤也…。運んでくれたの?」
赤也は口を閉じたままだった。
ありがとうと私が言うと、赤也はそっぽを向いてしまった。
どうやら相当怒っているみたいだ。
「Aに会わせたい人がいるんだ。」
「え…?」
「俺のテニス部の先輩。さっき電話で呼んだから。」
「な、なんで?」
「いいから!」
赤也は口ごもって、鞄取ってくると言い残して保健室を出て行った。
先生は私に水の入ったコップを渡して、私の担任の先生に報告するため職員室に向かった。
先生が開けてくれたカーテンのおかげで、向こうの壁にかかった時計が見えた。
今は夕方18時半を回ったところだ。
一時間ほど昏睡していたらしい。
外はすっかり雨が弱まっていた。
今はしとしとと落ち着いているのを窓越しに見て私は深呼吸を繰り返した。
大分落ち着いた。
泣いた後の独特の倦怠感はあるが、頭痛も引いている。
(仁王…。)
分厚い雲のせいで、普段ならまだ明るい夏の空が今日は薄暗い。
失礼しますと落ち着いた声と共に、ガラガラと保健室のドアが開いた。
「…やっぱり、Aさんだったんだ。」
「幸村先輩…どうして…。」
幸村先輩はフフと笑って私のベッドの横に立った。
簡易のイスをすすめると幸村先輩はそれに座った。
「もう平気なのかい?」
「はい。大丈夫です。」
「災難だったね。でも今は、うん…前より落ち着いて見えるかな。」
困惑する私を安心させるように幸村先輩は明るく笑ってくれた。
「赤也がね、知り合いに様子がおかしい子がいるって俺に相談しにきたんだ。それで、Aさんのことじゃないかってピンと来たよ。まさか赤也の知り合いだったなんて偶然だね。」
「幸村先輩も、赤也の部活の先輩だったとは知りませんでした…。私は三年の初めにこっちに引っ越してきたから…。」
「そうだったのか。道理で見たことないはずだ。それで、何があったんだい?」
「わ…私…やっぱりおかしいんでしょうか…。変な物が見えるんです…。怖くて…!」
幸村先輩は考え込むような素振りを見せた。
私は思い出した光景に身ぶるいして、まだ赤い痕が残る手を手で握ってぎゅうと力を込めた。
幸村先輩は力を込めていた私の手を和らげるように包んだ。
「大丈夫だよ。」
「幸村先輩。」
「大丈夫。君は何も怖がる必要はない。だから、自分だけで抱え込まないで。周りに頼っていいんだ。」
「先輩…?」
一瞬幸村先輩が悲しそうな顔をしているように見えたが、すぐにいつものように笑顔を浮かべて幸村先輩は笑った。
「ところで、どうしてメールしてくれないんだい?俺ずっと待ってたんだけどな。」
「え、あ、すみません…!」
「俺を待たせるなんて、君はすごいよ。」
「あー!!幸村部長!何やってんですか!!」
幸村先輩が私の手を取った瞬間、入り口から赤也が叫んだ。
走り寄ってくると、私と幸村先輩を引き剥がして怒った。
「いくら幸村部長でもAに手出したら許さないっス!!」
「なんだ、残念。赤也の彼女だったのか。」
「――……。」
「おや。フフ…片想いの間違いみたいだね。」
「幸村部長!」
「わかった。もう帰るよ。真田と柳を待たせてるんだ。赤也、ちゃんとAさんを送っていくんだよ。」
「言われなくても…!うっ!は、はい…。」
「うん。それじゃあAさん、また今度ゆっくり話そうね。」
「あ、ありがとうございました…。」
幸村先輩が去っていっても、赤也は相変わらず口を尖らせていた。
「もう旧校舎には行くなって、あんなに言ったのに。」
「ごめん。」
「次行ったら、俺まじで許さねぇから。」
「赤…」
赤也が本気で怒っているのがわかって私は何も言えなかった。
赤也が一方的で我が儘なのは、裏にちゃんと誰かを思いやる気持ちがあるからだっていうのを、私はよく知っている。
知らなければいくらでも反抗できたのにと思っても、それはただ虚しいだけだった。
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