「仁王。どうしたの?今日なんか変だよ。」
「そうか?気のせいじゃろ。」
仁王は曖昧に笑って誤魔化した。
今日は元気がない。
私も昨日の交差点であんなことがあってからなんとなく沈んでいた。
二人して重たい沈黙を作ったまま、誰もいない荒廃した屋上で二人寄り添った。
ぎこちない仁王に気付かないふりをしながら、私は明るく口を開いた。
「知り合いってほどの知り合いでもないんだけど、先輩になんか霊感とかありそうな感じの人がいるんだよね。今日話を聞きに行ってみようかなと思って…。」
「怪しいのう。大抵は嘘か思い込みじゃろ。」
「でももし本当に霊感があったら、コントロールの仕方とか知ってるかもしれないでしょ?そうしたら、仁王をいつでも呼び寄せられるようになるかもしれないし、それに」
「あんまり変な事に首突っ込みなさんな。」
「……仁王?」
「いや、なに…心配するじゃろ。」
「うん…。無理はしないから。大丈夫。ごめん。」
仁王は再び黙り込んだ。
やっぱり様子がおかしい。
私の女の直感としては、きっと仁王は私に何か後ろめたい隠し事をしている。
でも聞けなかった。
私は赤也の時も何も聞けなかった。
今あるものを自分の手では壊したくなくて、後で傷つくことを知っていながら、最後まで相手が完全な悪者になるまで待ってしまう。
予測ができていた分、いざ修羅場になっても怒鳴るほどの力なんかすでになくて、後は私が頷けば全部終わるだけの簡単な終焉だ。
仁王が何を隠しているかはわからないけど、多分それは私を悲しくさせるものなんだろう。
そう考えると胸の奥が締め付けられた。
仁王以外に幽霊が見えるようになったことも、それがとても怖いことも、沢山の不幸が降りかかることも、仁王と一緒にいられる代償なら我慢できる気がしていたのに。
(仁王といられるなら、今の私をここから全部捨ててしまってもいいとさえ思えたのに…なんて、ね。)
屋上のフェンスから下を覗くと、隣で仁王が小さく身じろいだ。
危ないと言われて、私はうんとしか言えなかった。
放課後、私は高等部へ向かった。
高等部の敷地へ入ってすぐ歩いていた知らない先輩に幸村先輩のことを尋ねた。
今日こそは幸村先輩とすれ違いたくない。
知らない先輩は私を見ると不透明な眼鏡を指で直して柔らかい笑顔を浮かべた。
「あの…すみません。」
「はい。おや、中等部の方ですか。何か?」
「幸村先輩って知ってますか?会いたいんですが、クラスがわからなくて…。」
「幸村とは…。幸村精市くんのことですか?」
「え?はい。」
「失礼ですが、幸村くんのお知り合いですか?」
先輩は少し困った口調でそう聞いた。
私は首を傾げて、まぁ…と曖昧な返事をした。
「幸村くんに何か…?」
「あ…その、借りていたハンカチを返したくて。」
「それだけのためにわざわざこちらまで…?」
「はい。お礼も言いたかったので。」
柳生先輩は私の目をじっと見てようやく安心したような表情を浮かべ、よく知っている人ですと嬉しそうに答えた。
「詮索して申し訳ありません。その…幸村くんは大変女性に好意を寄せられる方ですから、女性をお連れすると色々と面倒な問題がありまして…、幸村くんもあまり良い顔はしないんです。」
「はぁ…。」
わからなくもない。
幸村先輩はモテそうだ。
赤也がモテる人だったからなんとなく大変さはわかる。
「申し遅れました。私は柳生比呂士と申します。」
柳生先輩はそう言って丁寧に頭をさげた。
私も自己紹介をして慌てて頭をさげた。
「幸村くんなら今、部室にいます。案内しましょう。」
「あ、ありがとうございます…。」
「いいえ。」
私は柳生先輩について歩いた。
しばらく歩くとテニスコートが見えてきた。
懐かしい鮮やかな緑色に思わず見入ってしまう。
短い間だったけど、テニス部のマネージャーをしながら、よくこうして走り回る赤也の後ろ姿を見ていた。
テニスコート横の建物を差しながら、柳生先輩があれですと言って私は目を丸くした。
「え?テニス部……なんですか…?」
「……?そうですが。」
「柳生先輩というか、皆さんは…中学の時からずっとテニス部なんですか?」
「大抵はそうですね。うちはエスカレーター式の学校ですし。」
つまり、それは。
幸村先輩も柳生先輩も、赤也の先輩になるってことだ。
それは、つまり。
幸村先輩も柳生先輩も、仁王の知り合いってことになるんじゃ…。
「ここで待っていて下さい。幸村くんを呼んできますね。」
もしかしたら、仁王は幸村先輩たちより年上の先輩かもしれないし、赤也と仁王は委員会が同じだったとか違う場所で知り合っただけで部活の先輩とは限らないけど。
すごく嫌な予感がする。
私や仁王の意志に関わらず、どんどん仁王の周りに巻き込まれていくように逆らえない。
そもそも赤也と付き合ってなければ仁王の過去の端を掴むこともなかった。
偶然私を助けてくれた幸村先輩や、偶然私が声をかけた柳生先輩。
本当に偶然なのか。
偶然はこんなに続くものなんだろうか。
まるで見えない何かに抗いようもなく翻弄されて流されていくみたいに。
ぞくりと風が背中を撫でた。
手招きをするように、それは私の体ごと押しやっていく。
「Aさん!ここまで来てくれたんだね。今柳生に聞いて…、」
「幸村…先輩…。」
怖い。
何が起きてるんだろう。
私と仁王を中心として、一体何が。
「先輩……。」
私の不安げな顔を見て幸村先輩は苦い顔をすると、私を部室に連れて行った。
柳生先輩も含め、部室の中にいた人たちは驚いた顔をしていたけど、幸村先輩が頼むと気を遣うように出て行ってくれた。
「ここに座って。汚いところでごめんね。」
男子テニス部の部室にしては随分綺麗だと思うんだけど、あまりじろじろ見るのも失礼だと思って私はただ首を振った。
「落ち着いた…?」
「大丈夫です…。あ、これ。」
私はハンカチを取り出すと幸村先輩に返した。
「ありがとうございました。」
「もらって良かったのに。洗濯までしてもらって、なんだか悪いね。」
前に助けてもらった時のお礼をもう一度言うと幸村先輩は笑って首を振った。
それからハンカチをしまって私の隣にイスに座った。
パイプのイスが軋んで、ますます沈黙が重たくなった。
「それで、俺に何か話があって来てくれたんだよね?」
優しく尋ねる幸村先輩の顔を見て、私は決心して頷いた。
「こんな話をしても困らせてしまうかもしれないんですけど……。」
「うん。」
「幸村先輩は、その、幽霊って信じますか…?」
思わず小声になった。
幸村先輩に変な人間だと思われたかもしれない。
でも、“そういうのが少しだけわかる”って言ってた幸村先輩なら、わかってくれるかもしれない。
幸村先輩は腕を組んで私を見た。
「信じないよ。」
「はい………って、え!信じてないんですか!?先輩は、でも、前に会った時は、なんか意味深なこと言ってたじゃないですか…!」
「ああ、あれは口説き文句みたいなものだよ。フフ…俺のことちゃんと覚えてくれた?」
「え…!」
「冗談。」
「幸村先輩!」
「ごめん。あまりに君が真面目な顔するから…フフ。確かに、俺は普通の人よりは霊感みたいなものがあるのかもしれない。俺は前に一度、重い病気にかかってしまってね、それから直感っていうのかな…?以前より明らかに感覚が鋭くなったのは確かだよ。」
「感覚が…?」
「直感みたいな感覚的なものに近いのかもしれないな。人間の直感って言うのは、不思議な現象なんかじゃなくて、とても合理的なものなんだよ。昔の経験とか、知識から、無意識の内に予測してしまうんだ。それが直感。だから、視覚で幽霊が見えるっていうのとはまた別の物だ。『幽霊が見える』人がいても、ただの思い込みなのか、本当に霊感があるのか、それは誰にもわからないんだよ。だから、幽霊は信じていない。」
「そうなんですか…。」
「俺で良かったら全部話してくれないかな。」
「先輩…。」
遠まわしに仁王のことを話してしまおうかと思ったけど、幸村先輩と仁王先輩が知り合いの可能性がある以上踏み込んではいけない気がした。
仁王が許可してないのに、私が仁王の知らないところで仁王の何かを知るのは嫌だった。
何より仁王はそういうのを嫌いそうだと思った。
私が渋っていると幸村先輩は私の手を握って真面目な顔をした。
「このままだと命に関わるかもしれない。自分でもわかってるんじゃないのかい?」
「…それは、」
「何を言っても変な顔をしたりしないから。…君は幽霊が見えるの?」
私はしばらく黙ってから小さく頷いた。
「前から?突然?」
「………と、突然…。」
「見えるようになったきっかけは?」
「………………。」
「見えるようになって、どう思った?怖い?」
「………………………悲しい。」
「悲しい?…どうして?」
「亡くなった人の気持ちが、伝わってくるから…。」
「そう。Aさんは優しいんだね。」
先輩の笑顔に違和感を感じた。
これじゃまるで、私を傷つけずに探ろうとしている大人とか先生とか医者みたいな口調だ。
「…………幸村先輩、私のこと本当に信じてますか…?」
「信じてるよ。」
私が悲しそうに黙ると、幸村先輩も肩を落とした。
先輩は立ち上がって私の頭を撫でると、机の上にあった誰かのノートの一番裏側のページを破ってペンを取った。
「知り合いにお寺の関係者がいるんだ。行ってどうにかなる保証はできないけど損はないと思う。ここからじゃ少し遠いから誰かと一緒に行って。俺から話は通しておくから…。」
「…!」
「俺じゃ駄目みたいだ。ごめんね。」
幸村先輩は困った顔で笑った。
「すみません…!私…!先輩がせっかく相談に乗ってくれたのに、本当にすみません…。」
「気にしないで。またいつでも相談しに来て。俺はAさんの味方だから。」
幸村先輩は破った紙にお寺の名前と知り合いの人の名前を書くと私に渡した。
ついでに幸村先輩のメールアドレスもさり気なく書いてあった。
Aが部室を出てから、柳生は部室を覗いて幸村に声をかけた。
「幸村くん、Aさんとのお話はもうよろしいんですか?随分短かったように思いますが…。」
「まいったよ。案外鋭くてさ、一瞬焦ってしまった。それとも俺が顔に出してたのかな。」
「おや…。何か、あったんですか?」
珍しく不機嫌な部長に柳生は少したじろいで目をそらした。
部室に来るのが少し早かったのかもしれない。
幸村は自嘲気味に鼻で笑って奥歯を噛んだ。
「…………。」
額に手をついて微動だにしないまま幸村は呆れた表情を浮かべていた。
それでも、幸村が悲しんでいるように見えて柳生は何も言えなかった。
幸村も、柳生も、赤也も、テニス部の全員が、きっと一生消えないであろう傷を背負ってもうすぐ一年近くになろうとしている。
学校にいても、テニスをしていても、どうしても思い出してしまう。
一緒に励んだ部活の練習、全国大会で準優勝した時、楽しかった時も辛かった時も支え合って、一緒に過ごした時間は長く、長く、親しかった友人の笑顔も、最後の瞬間の顔も、鮮明に目に焼きついたままだ。
「信じないんじゃなくて、信じたくないんだ。もう何も…。」
「幸村くん…?」
「現実主義でいたいんだ。病気でも幽霊でも何でも。そんな不確かなものに怯えるのは、もう、嫌なんだよ…。」
言い聞かせるように言う幸村に柳生はそっと目をそらした。
「そう思えば、貴方は楽なんですか…?」
幸村は何も答えなかった。
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