幸村先輩の言葉と、おばあちゃんの言葉が頭の中で重なった。


「…ッ!!」


ガシャン!と私の真横に鉄の棒が倒れてきた。

少し腕をかすめたのか、当たった部分が鈍く痛んで顔をしかめた。
通学途中、工事現場の横を通りかかった時だ。

私は今世界で一番運が悪い人間に違いない。
いや、毎回毎回ギリギリで助かっているところを見るとむしろ運がいいのかもしれないけど、とにかくこのままでは私の寿命が保たない。

周りを見回してもまるで人気はなく、棒が人為的に倒されたものじゃないことだけはわかった。
まだ何か落ちてくるんじゃないかと怖くなって私は足早に学校に向かった。


“仁王に関わってはいけない”

“気をつけた方がいいよ。本当に危ないよ。”


現実は幸村先輩の言った通りになった。

鉢植えが降ってきたり、私の席の横の窓ガラスが割れたり、間一髪で免れてはいるものの異常なほど不幸が連なる。
そして、奇妙なものをよく見るようになった。

友達の背中に人と呼べるかわからないような物がしがみついていたり、ずっと同じ場所に立って俯いている人を見たり、体の一部がない人や体が有り得ない方向にねじ曲がっている人も見た。

見るのは一瞬で見間違いかとも思えるほどだったが、こう何度も見間違いが続くとさすがに無視できなくなった。

想像と実際に見るのは違う。

どうやら私は、本当に、幽霊が見えるようになったらしい。

まだ薄ぼんやりとしているけど、見ると本能的に悲鳴を上げそうになってしまう。
元は同じ人間なんだから怖がるのは失礼だと自分に言い聞かせても、怖い物は怖い。
気持ち悪い物は気持ち悪い。
気が滅入る。


ここ一週間の異常を思い出しながら、私は砂を噛むようにパンを頬張っていた。
どうして急に幽霊なんか見えるように―――……
そんなのは愚問だった。
愚問だからこそ信じたくなくて、その仮説を拒絶するように私は仁王の元に通った。

良くも悪くも、これは仁王に関わったことによる影響なんだろう。


「A…何かあったんか?」

「…え?なんで?」


仁王は私の頬を指で撫でた。


「顔色が良くないぜよ。」

「あはは…寝不足だからかな。テレビ面白くて。」


仁王は呆れた顔をして私の手からパンを取り上げるといきなり私の口にねじ込んだ。


「んぎゃあああ!死む!!」

「早よう食べんしゃい。早よう。」

「もごごご!!!」

「ひどい顔じゃ。」


私は必死にパンを口に詰め込んだ。
殺す気か!と仁王を叩くと仁王は大げさに痛がった。
仁王は私の肩を引っ張ると自分の膝の上に乗せた。


「…眠れるかのう?」


仁王が心配そうに訊いた。
頭を撫でる仁王の手があまりにも優しくて私は切なくなった。


「寝そう…。」

「おやすみ。」


ポケットに、幸村先輩に借りて洗濯したハンカチが入ったままになっている。

今日の放課後、高等部の校門で待ってみようかな。
幸村先輩に相談したら、何か助けてくれそうな気がする。

ゆっくり心地良い眠りに落ちていきながらそんなことを考えたその時、屋上の古い扉が強く開いた。


「A!!やっぱここにいた!」

「…あ…赤也?」


私が起き上がると仁王が乱れた髪を撫でてくれた。
急いで来たのか赤也の息が切れている。
赤也の焦点が私にしか合っていないのを見ると仁王の存在が急に朧気になってしまった。


「なんでこんなとこで一人飯食って寝てんだよ…。お前ぜってーおかしい。」

「別にどこで食べて寝てもいいじゃない。ここ気持ちいいよ?」

「旧校舎のどこがだよ。」


赤也はお世辞には綺麗と言えない屋上の床を靴でざりざりと踏んだ。
窓は埃で曇っているし、床は歩くたびにギシギシと軋む。
旧校舎と言っても閉鎖されたのは約一年前、つまり私が転校してくる約半年前だ。
そんなにボロボロというわけではないけれど、人気がない雰囲気が旧校舎を旧校舎らしく見せていた。

でも仁王を知っている私にとってはただ古いだけの場所じゃない。
私と仁王を唯一繋げてくれる場所だ。


「…教室戻るぜ。」

「赤也。」


赤也は私の腕を引っ張った。
私が慌てて振り返ると、仁王はいなくなっていた。
屋上を見回したが仁王はどこにもいない。


「A?どうしたんだよ?」

「…何でもない。」

「なあ、お前やっぱ変。何かあったんだろ?」

「やだな。何もないよ。」


赤也はどこか寂しそうな顔をしていた。


「俺には言えない悩みなのかよ。」


私は何も言えなかった。
もう赤也は私の彼氏じゃない。
私が好きなのは仁王だと、それが言えなかった。
どこのクラスの奴だとか、連れて来いとか言って、赤也はきっと引き下がらない。

赤也は無言の私の手を引いて屋上を後にした。


「明日から俺も屋上で昼飯食うから。」


私が何か言う前に赤也はさっさと行ってしまった。
私は溜め息をついて、下から旧校舎の屋上を見上げた。
青空に対峙するように影で暗く染まった校舎が高く佇んでいる。
割れている窓ガラスは光を通さず、壁の汚れは涙のように下へ下へと伝っている。
私は旧校舎の屋上に仁王が一人風に吹かれている様子を想像した。
そのままどこか遠くへ飛ばされてしまいそうなほど儚い。


「…………仁王。」


髪に触れてみた。
さっきまで仁王が撫でてくれていた場所に、仁王との繋がりを求めて指を滑らす。

一緒にいたい、だけなのに。










放課後、私は高等部の門の辺りに行ってみた。
中等部の制服で中をうろつくと人の目につくので、門が見える道端で待ち伏せすることにした。
次々と帰っていく高校生たちが好奇の目を向けながら通り過ぎて行った。
「誰かと待ち合わせかな?」「彼氏じゃない?」「カワイイー」と時々聞こえる悪ふざけに肩を狭くして過ごした。
幸村先輩は目立つから多分すぐにわかるだろうと楽観視していたのだが、日が傾いても幸村先輩は門から出て来なかった。


「見落としたか…すれ違っちゃったのかな…。」


私は腕時計に目を落とすとため息をついて今日は諦めることにした。
薄暗く人気のない辺りに、学校のチャイムがぐわんぐわんと響くように聞こえた。
なんだか怖くなって、私は早足で大通りに出た。
右に左に通り過ぎていく沢山の人にほっと胸をなで下ろして、駅までの道を歩き出す。


「あれ…」


ふと前を見た道路の対岸に、見覚えのある制服が見えた。
紺色のウェーブがかかった綺麗な顔立ちの高校生。


「幸村先輩…?」


幸村先輩は隣にいる同じ制服の男の子二人と真面目な顔で話をしていた。
三人が横断歩道の赤信号に捕まったのを見て、自然と横断歩道の反対側に足が向いてしまった。
話し込んでいるからか、人が多いからか、幸村先輩はこちらには気づいていない。
今は幸村先輩の友達もいるし、こんな街中で突然話しかけても先輩の迷惑になるだけだと、普段の私ならそう思ったはずだった。


「……?」


くらっとするような眩暈を覚えた。
横断歩道で待っている人たちの背中と横断歩道の白線が歪んで見えた。
まるで中に吸い込まれそうになるかのように。

嫌だ。そっちに行きたくない…!

倒れそうになる体に抗って下を向くと、横断歩道横の植え込みの下にまだ新しい花束と水が見えた。
車通りが激しい道路の真ん中から、ぼんやりとした影がずるずるとこちらに手を伸ばして向かってくる。

私は、あなたを助けられない…!

そう強く思っても影は苦しそうに呻きながら私の方へ近づいてきた。
周りは誰も気づいていない。
急に自分の存在が薄くなって、まるで別世界に入り込んだかのように、私は影と二人取り残される。
確かにみんなそこにいるのに、私が苦しそうにしゃがみ込んでしまっても誰も気付けないようだった。

血まみれになった血色の悪い足が目の前で止まって私の視界に入った。
片方しか履いていない靴、爪が剥がれて痛々しそうな指、スーツらしきズボンはズタズタに破れていてあちこちから血が流れている。
頭上から覗きこまれている気配がして全身が震えた。

声が出ない。

音が必要ない世界で私は必死に声を出そうとしたが、咽喉は風が通るだけで音を発してはくれない。

俺はどこへ行けばいい?嫌だ死にたくない。どこかへ行かなくちゃいけないとはわかっているのにどこに行けばいいかわからない。行けない。誰か助けてくれ。もっと生きたい。あの時ああしていれば良かった。行きたくない。なんで俺が死ななくちゃいけなかったんだ?もう体がない。助けてくれ。助けてくれ。お前の体を乗っ取れば俺は楽になれるのか?

強い耳鳴りが聞こえて、私は思わず耳を塞いだ。
風が私の体を通り抜けるように、幽霊の気持ちが一瞬で伝わってきた。


「ねぇ、」

「……ッ!!」


――――♪

横断歩道の聞きなれたメロディーが流れた瞬間、人が歩き出した雑踏の音にハッとした。
影はもういない。
周りの人たちは何事もなかったかのように過ぎていく。


「ねぇ、アンタ、大丈夫?」


後ろから聞こえた声に私は恐る恐る振り返った。
急に溢れ返った音と現実味に私の顔色は蒼白だった。
勝気そうな顔に釣りがちな大きな目が私の瞳を覗いていた。


「そんなところで座ってたら、邪魔だと思うんだけど。」

「あ、すみません…!」


大きなテニスバックを肩からさげていたその男の子は片眉を釣りあげると、別にと素っ気なく返した。
私が立ち上がると、男の子はさほど身長が高くなかった。
猫を思い出させるような綺麗な顔立ちの男の子だ。
きっとあと二、三年経てばすごくモテるだろうなと呑気にも思ってしまった。
どこにでもありそうな学ランを着ているため、どこの学校の子かはよくわからない。
年もよくわからなかった。


「あの…ありがとうございます…。」

「……変な奴。」


男の子は嫌味でもなく心底そう思っているかのようにそう言ってどこかへ行ってしまった。
そういえばと思いだして、周りを探すが幸村先輩はもうすでにいなかった。
明日また休み時間にでも高等部を訪ねてみようと私は気を取り直すことにした。
歩き出そうとしてもう一度横断歩道へ戻り、花束が供えてある植え込みに向かって手を合わせて頭を下げた。
通りすぎていく人たちが痛ましそうな目で私を見流して行った。
黙祷しているとなぜか涙が溢れてきたけど、もう嫌な気分にはならなかった。










寒いイメージ。

今は季節で言えば初夏なんだろうと言うことはなんとなくAの制服でわかった。
仁王は何も感じない。
暑いとも寒いとも思わないし、季節だとか時間の経過を感じる心がすとんと抜け落ちたような気分でいた。
Aがいなくなった屋上で一人ぼんやりと思う。

どこから来て、これからどこへ行けばいいのか。

考えれば考えるほど不安と焦りと恐怖が混沌となって胸の内を占める。
Aがいなかったら、Aがいなくなったら、自分がどうなるのかというのは考えたくなかった。
沢山の記憶や感情が抜けて暗闇に放り出された心が、もうずっと寒いままだ。

どうしてここにいて、どうしてここにいなくてはいけないのか。

わからないのに離れられない自分がいる。
もどかしい想いにいっそRに頼んで成仏させてもらいたいと思った。
楽になりたい。
だけどAと離れるのは辛い。

確かにAを好きだと思ったのに、今ではそれがいつ依存に変わるのかわからない。
仁王はもう人間ではないし、本当はAの傍にいるべきではないこともわかっていた。
交わることの許されない別世界の存在が関わって、Aや世界にどんな影響を及ぼすかもわからない。


「今が初夏っちゅうことは…あと一、二ヶ月すれば彼岸かのう…。」


彼岸は先祖を敬い亡くなった人を偲ぶ日だ。
この死んだ人間があの世で安らかに過ごせるように祈る日には、こちらの世界とあちらの世界の距離が近くなる。
それが潮時だろうなと仁王は他人事のように思った。
屋上の端に突っ立って、何もないただ風が吹く空中を飽きもせずじっと見つめていた。


今まで生きた世界を置いて、一体どこへ行くのだろう。


寒いイメージが少しだけ安らぐ錯覚がした。
その時、Aは泣くだろうか。
死んだ時も自分はそうやって、誰かを泣かせてしまったのだろうか。




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