朝、起きて違和感に気付いた。
頭が妙に冴えている感覚がしたのだ。
冬の早朝に外に出てみたような、一晩のうちに頭の中を誰かが大掃除してきちんと整理したのではないかと思った。
「どうしたの私…急にIQが180にでもなったかのようなこのみなぎる清涼感…ってそんなわけないよね!」
誰もつっこんでくれる人がいないので、自分でつっこんでみたものの笑いの才能がない自分が惨めになっただけだった。
あくびをして、ぼさぼさの髪を撫でつけながらゆったり体を起こすと、ベッドの横に見知らぬ人たちが無言でたたずんでいて悲鳴をあげそうになった。
「ヒギャアアア!!」
いや、あげてしまった。
冷静さを取り戻せたのはその知らない人たちの中に死んだはずの祖母がいたからだ。
聞いた話では、祖母は、とても霊感の強い人だったらしい。
祖父が現実的な人だったから、祖母は何も言わなかったようだが、それでも時々古い付き合いの人たちが祖母によく相談をしに訪れていたようだ。
私はまだ幼かったし、祖母と普通の人がどう違うのかわからなかったけれど、全てを悟ったような穏やかな人だったことは覚えている。祖母に撫でられると怪我をしても風邪を引いていても不思議と楽になったものだ。
「おばあちゃん……?」
私は恐る恐る声をかけた。
祖母は生前と変わらないゆったりした微笑みを浮かべて私を見た。
それから何度も頷きながらはっきりこう言ったのである。
仁王に関わってはいけない、と。
「はあ―……」
学校に行ってからもおばあちゃんの言葉が離れなかった。
一言だけ私に伝えてから、初めから何もなかったかのように姿を消したおばあちゃんを思い出して、あれは夢だったんじゃないかとも考えた。
終始机にゴロゴロ突っ伏しては長いため息をついていたため、友達数人から心配されたり恋の悩みかと茶化されたりもした。
仁王に関わるとよくない…って、理由くらい言ってくれればいいのに。
でもその理由がわかったところで、私は仁王と別れようなんて思うのかな。
仁王の顔が浮かんだ。
ただの想像だけど、幽霊というのはみんなあんなに寂しげなのだろうか。
何か大切な物を忘れたような顔をして佇んでいる。
仁王も同じ、ただ唯一違うのはそれを表に出そうとしないことだ。
ぼーっと窓を見ていると、下に赤也が見えた。
女の子と話している。その後ろ姿には多少心当たりがあった。
赤也の元カノだ。
はっきりと見たことがあるわけじゃないし、むしろ見ないようにしていたんだけど、艶やかな茶色の髪が風に揺れただけで、ここからじゃ顔が見えないはずのその女の子は多分すごく美人なんだろうなと思った。
“ごめん。でもやっぱりまだ…お前が好き。”
私が断った後でまたあの子とヨリを戻すのかと考えて、憂鬱な気分になった。
仁王に会いたい。
私はぐるぐると回る頭を落ち着けようと力を抜いた。
朝礼はまだなのかと、朝の騒がしい教室をくるりと見回す。
動く友達の隙間に一瞬長い髪の毛が見えてゾッと鳥肌がたった。
なんだ今の。
「赤也が?」
「そう。仁王先輩のこと知ってるのかって私に。仁王先輩ってさ…やっぱり仁王のことだよね……。」
昼休みに私は旧校舎の屋上に上がって、昨日あったことを話した。
仁王は無表情で黙り込んだ。
「仁王に黙って赤也に聞くのもどうかと思って、とりあえず知らないって言っといたんだけど………仁王が知りたいなら、赤也に聞く。」
私は仁王の横顔を見つめた。
風でなびいた邪魔な髪を耳にかけて、仁王の表情を一瞬でも見逃さないようにした。
もしかしたら、私のエゴを仁王に読み取って欲しかったのかもしれない。
卑怯だとは思っても、目は勝手に仁王に縋ろうとする。
「そうじゃな…、知りたい。」
「……………、」
わかった、と言おうと口を開いて言えなかった。
抱き寄せられて頭を仁王の肩に押し付けられた。
「嘘じゃ。」
「仁王…!」
「生きとった頃の記憶にお前さんはおらんのじゃろ。なら今の俺には必要ない。」
嘘つき。
仁王はニヤリと余裕たっぷりに笑った。
嘘つき。
地縛霊がどんなものかわからないけど、どれだけの時間をここで孤独に過ごしてきたか想像するだけで私は怖い。
本当なら今すぐにでも解放されたいに決まってる。
「仁王……」
「なんもいらん。」
吐き捨てるようにそう言って、仁王は更に私を抱き締めた。
仁王のことを何も知らない私が仁王が大好きだって本当なら言えるはずはないけど、この腕が欲しい、それくらいなら言える。
こんなに惹かれ合う人を、他に見つけられる気がしない。
陳腐な言葉だけど、運命かもしれないって、思ってみたりもした。
チャイムが鳴って、昼休みの終わりを告げた。
「じゃあ…戻るね。」
「おー…授業頑張ってきんしゃい。居眠りしたら背中に乗っかるけぇの。」
「いやアァァ!シャレにならないからほんと止めて!」
にやにやと笑う仁王を追い払って屋上を出た。
屋上を出る時が一番寂しい。
お互いそれだけは言わない。
赤也と話してた時みたいに、せめて仁王が屋上から自由に出れたら、仁王は孤独じゃなくなるし、私はいつでも会えるようになる。
放課後、家路を歩きながら私は考えていた。
高校の方の終わりと重なったのか道にはいつもより人が溢れていた。
中学と高校の制服がちらほら混ざって見える。
足元の舗装されたコンクリートを眺めながら、私はもくもくと歩いた。
仁王は私に呼ばれた気がしたって言ってたっけ。
私が呼べば仁王は行き来できるってことかな。
仁王を地縛霊じゃなくて、私に憑いてる浮遊霊にできればいいのかな。
そんなことできるの?
オカルトすぎてさっぱりわからない。
私が深く溜め息をついていると、突然大声が聞こえた。
「危ない!」
え?と思った瞬間、腕を強く引っ張られて尻もちをついた。
ガン!とつんざくような大きな音が耳に響いた。
さっきまで目の前にしっかりあったはずの電柱が倒れている。
あまりにびっくりし過ぎて、私はコンクリートの壁と地面を破壊している電柱を見つめて放心した。
わらわらと人が集まってくる。
人が口々に話しているのを聞いて、元からこの電柱は足元がぐらついていたらしいことを知った。
それにしたって、ちょっとやそっとで倒れるものじゃない。
「危なかった。…怪我はない?」
後ろから落ち着いた声が聞こえて、私は慌てて振り返って腕を掴んでくれた人を見た。
深い群青色のウェーブがかかった髪が少しだけ乱れているのを耳にかけて、綺麗な動作で立ち上がると、男の人は私を立ち上がらせてくれた。
整った顔立ちで微笑まれて、なんとなく目線を下にそらした。
立海の高校の制服に気付いて、先輩であることを知った。
「あ、大丈夫です…。ありがとうございました…。」
「…手、見せて。」
「え?……あ。」
尻もちをついた時に手を擦り剥いたようだ。
うっすらと血がにじんでいるが、電柱が倒れてきたことに比べれば全く大したことはない。
私の手に私のじゃないハンカチを巻く先輩に私はまた慌てた。
「あの、これくらい大丈夫ですよ…?」
「帰ったらちゃんと消毒するんだよ。小さな傷でもばい菌が入ったら大変なんだ。いいね?」
「…は、はい。」
「これくらいで済んで本当に良かった。フフ…さすがにひやっとしたよ。」
「本当にありがとうございます…!あ、ハンカチは洗って返しますね!」
「気にしないで。えっと…君の名前は?」
「Aです。立海中三年です…。」
「俺は幸村精市。立海高一年。」
幸村先輩はふわりと笑った。
なんというか独特な雰囲気の人だ。
「Aさん、おかしなことを言うようだけど…最近、何か変わったことなかった?」
幸村先輩の強くなった口調に心臓が跳ねた。
仁王のことを見透かされたような気分になった。
未だ騒がしい周りの雑音に紛れて、私と幸村先輩の間に沈黙が流れた。
「いえ、何も…。」
仁王のことがバレたらどうなるんだろう。
そもそも見ず知らずの人にいきなり実は幽霊が恋人になったんですなんて言えるわけがない。
幸村先輩は何か考え込むような顔をしてから、私の不安げな顔を見て困ったように笑った。
「ならいいんだ。でも、気をつけた方がいいよ。」
「え…?」
「本当に危ないよ。…脅すつもりはないんだけど、俺、そういうの、ちょっとだけわかる方なんだ。」
「先輩…それどういう意味ですか…?」
「まぁ気にしすぎてもよくないから…。」
幸村先輩が言葉を濁した。
私がもっと聞こうとした時、誰かの通報で駆けつけた警察が私の肩を叩いた。
怪我はないかとか、どういう状況だったのかとか、そういう質問にしどろもどろ答えながら幸村先輩を探そうとしたけれど、人混みの中にもうその姿はなかった。
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