Aを迎えに行こうと、二年程前にAの家に丁寧な文を送って、俺は真田という男に会った。

真田はAの父親で、昔たまに見かけたことがあったが、昔と何一つ変わっていなかった。
真田は俺を覚えていてくれたが、身分を名乗ると物凄い顔をして驚いていた。
不器用な言葉を並べながら、大変だっただろうと優しく励ましてくれた。


「実は…お話がありまして…」


それから俺と真田の交渉は何度も続いた。
たまには酒を交ぜながら、時には剣を交えながら、いつしか敬称も敬語もなくなって、真田は真昼の遊郭に出入りするようになった。


「今は違うのかもしれないが、お前は花魁だったのだろう。」

「……ああ、そうやって生きてきた。否定はしない…。」

「Aは俺の大切な娘だ。お前の生い立ちには同情するが、俺は…体を売っていた男に娘をやるわけにはいかないのだ。」

「真田、お前が言いたいことはよくわかるよ…でも、」

「俺は許す気はない。お前がAと約束をしていたとしてもだ。子供の約束など…もうあいつは覚えていないだろう。」

「ああ、それでも俺は諦めないから…。お前に許してもらえるまで、俺は何度でも頭を下げに来る。」


真田は何も言わずに眉間にシワを寄せて苦い顔をしていた。
生きるため、金を得るため、地位を得るための代償に男娼となって、この手は汚れていったのだ。
そんな手でAに触れることがどんなにおぞましいことなのか、俺が一番よく分かってる。
それでも客に心まであげたことは一度だってなかったんだ。

Aの唇に触れた瞬間、泣いてしまう前に目を閉じて眠った。
優しい、小さな、俺の光。






「…サヨナラ、かの。」


燃えるような夕陽が迫ってくる。

空を、町を、遊郭を飲み込んで、一瞬息を止めた後いつまでも明けない夜になる。
そんな夜に背を向けて、遊郭を出て行くAと赤也を部屋の窓からただ見下ろしていた。


雪混じりの雨の滴が跳ねてハッとする。
長い間窓辺に寄りかかっていたのか、しっとりと濡れてしまった銀色の髪が顔に張りついて気持ち悪かった。
今日は曇っていて真っ赤に揺らぐ夕陽は見えないはずだが、遊郭の夜から逃げようともがく人間の後ろ姿を見るとどうしてもフラッシュバックしてしまう。

ここからの夕陽はあまりに毒だ、自分の前に檻が下りてくるような息苦しさに対してあまりに美しく燃えていて。
今日もまた自由を掴み損ねたと、言われたような気分になる。
この場所が決して嫌いではないのに、時々とても悲しくなった。

傷だらけのお互いをただ支え合っているだけの俺たちに、Aは笑顔を分けてくれた。
苦しかった夕陽も雪も夜も、ただ静かに胸の内を流れていくようになった。
救われていたのは絶対に俺だけじゃない。
頼むからお前さんたち二人だけは幸せになってくれ。
どんな手段を使っても、どんな道を選んでもいい。

色んなところから視線が交差しているのを感じて、この様子じゃ立海遊郭の花魁全員がこの二人の逃避行を見つめているのだろうと思った。
逃げて欲しい気持ちと、戻って来て欲しい気持ち、どうせ逃げられないだろうと思ってしまう浅ましい羨望。
寂しさと愛情を含めて、ただ見守るだけしかできない。
応援する言葉を口にすることさえここでは自分の首を絞めることになる。

逃げろ、この二人は今なら元の世界に戻れる。


「…サヨナラ、か。可愛いものだな。あいつらも、お前も。」

「何の用じゃ、参謀。」

「何の用か、わかるだろう。赤也とAがいなくなった。…だが、あの二人は戻ってくる。」

「そんなことはわからん。」

「それはお前の願望だ。お前は二人にこの世界に染まって欲しくないだけだ。Aは、あるいは赤也でなければ、このまま帰って来なかったかもしれない。だが、Aは父親のことが気になっているだけで赤也を選んだわけではないんだぞ。」

「本人に訊かんと100%とは言いきれんじゃろ。」

「……仁王、」

「幸村もそうは思っとらん。Aは赤也を選んだ、端から見れば今の状態はそう見える。」

「精市やお前がどう思おうと俺は俺の考えで最善を尽くすだけだ。事は急を要している。悪いが今日は押し問答に付き合う気はないぞ。」

「なんじゃ、つまらんのう。」

「お前の協力が必要だ。」

「……俺はな、参謀…幸村の敵になるかもわからんぜよ。それでもか。」


窓から入る風が湿気を含んでいた。
参謀が珍しく顔をしかめた。
それが悲しい色を含んでいることに気づいて、俺は静かに外を見た。


「それでも、だ。それにこれは精市の意向でもある。お前が精市の敵になろうと、Aの敵になることはないからな。」

「……容赦ないのう。」

「結果的にはお前がAの家庭を壊したのだからな。償うのが筋というものだ。」

「わかっとる。…ありがとう、参謀。」

「すまないな。」

「なに、気にせんでくれ。」


俺があんな突き放し方をしなければ、あの人があんなにも壊れることはなかった。

赤也の母親。
癖の強い黒髪と印象的な目元。
強く想い合った結果は、あまりにも酷く歪んでしまった。

もっと俺がきちんとしていれば、赤也や真田や幸村や、Aの人生が、狂ってしまうことはなかっただろう。
俺がきちんとしていれば、あの人が狂ってしまうことも、赤也の父親が真田だなんて嘘をついて真田を騙すことも、それからしばらくして自殺することも、なかったはずだ。
あの恋を醜く変えてしまったのは俺だ。
長い間ずっと心に引っかかっていたけど、これで少しでも罪が軽くなればいい。
そのためなら何でもする。


「柳生。」


俺は部屋を出て、向かいの襖を開けた。







暗い部屋の中で、蝋燭の火が揺れた。
ゆらゆらと襖に私の影を写す。
周りの音が聞こえない。
いつもと変わらない遊郭の夜なのに、幸村さんが遠い。


寒い

着物がはだけているからでもなく、日が落ちているからでもなく、心が凍えそうだった。


「……っ、く、…う」


幸村さんを傷つけてしまった。

あんなに強い人が崩れてしまうほど、他の誰でもない私が、傷つけた。
浅はかで目の前しか見えない自分が、今は憎くて悔しくて仕方がない。


「……、うぅ、…っ、ふ」


涙で何も見えない目によみがえるのはさっきまでの幸村さんの顔ばかりだ。
今にも泣きそうで、とても傷ついて、全身から悲しさが伝わってきた。
縋るような手、震える声、きつく寄せられた眉間と私を見つめる瞳が、痛かった。
胸が張り裂けてしまいそうだった。


「A、」

「…………っ」


突然声をかけられて、びくりと震えた。
ふわりと優しい手が頭に落ちてきて、涙を拭われた。
顔をあげると眼鏡越しに微笑んでくれた。


「や…ぎゅう…さん…、……?」

「違う。」

「仁王さ…ん…?」

「そうじゃ。今日俺には客がおる。柳生に頼んで変わってもらったんじゃ。」

「なんで……っ」

「ほらほら泣きなさんな。」


仁王さんは苦笑して泣き崩れる私の背中をさすった。
私は仁王さんの腕と袖にすがりついてますます声を大きくした。


「仁王さん……仁王さん…っ、…にお…さ……う、あぁ…うわあぁん」


私はなんて馬鹿なんだろう。

幸村さんの弱さが、私は浅はかにも自分の物になればいいのにと、そう思った。
あの瞬間。
切なくてたまらない表情をしているこの人に、このまま傷つけられてもいいとさえ思った。


“俺の前で、他の男を選ぶなんて”


違う、私は、幸村さんが好きなんです。
それが言えなかった。
幸村さんが泣きそうだったから、幸村さんがすぐに部屋を出て行ったから、そうじゃなくて。


「………っ、う、ぇ…、ふ…っ、ゆき…むらさ…」


あまりに自分に嫌気がさした。
未だにくすぶっていたのは、幸村さんには好きな人がいるんじゃないかってことと、幸村さんが私に優しいのは幸村さんがお父さんの知り合いだからじゃないかという後ろ向きな疑念だった。

恐かった。
とても恐かったから。

幸村さんが目移りしないくらい私が美人だったら良かったのに。
私と並んでもチグハグじゃないくらい幸村さんが普通の人だったら良かったのに。
幸村さんが幸村さんの好きな人を忘れてしまえるくらい、私を好きになってくれたら良かったのに。
疑う気持ちなんかなかったことにして幸村さんに気持ちをぶつけられるほど心が単純だったら良かったのに。


「……っ、う、ぅ…ひっく…私、私がもっとよく考えてれば…何も変わらなかったのに…っ」

「A…、違う…。変わることは悪いことじゃないぜよ。遅かれ早かれこうなるのは避けられんかった。だけど、お前さんと幸村が向き合うことを止めたら、全部嫌なことに変わってしまうじゃろ。」

「でも…でも…っ、」

「できるじゃろ、お前さんがしたいように。ここから逃げ出したいとか、このまま遊郭にいたいとか、俺はそれを全力で助けちゃる。」

「仁王さん…どうして…」


仁王さんは私の頭をくしゃりと撫でると、ヒミツと意地悪そうに笑った。


「お前さんには一生教えん。」

「な、なんですかそれ…っ」

「何でも言いんしゃい。俺に不可能はないんじゃ。」


仁王さんに励まされて、私はゆっくり深呼吸をした。


「仁王さん…助けて…くれますか…?」

「おう、もちろん。」

「お願いが、あるんです…。」


仁王さんはニヤリと笑って、了解ナリと目を細めた。




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