困難に傷つけられない。
俺は石蕗の花のようだって、遊郭の遥か高みからあの人が言ってた。
普通ならそこで挫折してしまうようなことがあっても、前を向いて走り出せる人間だと。

『でもどんな理由があっても女の子に手をあげちゃいけないよ。』

そう言って頭の上に落とされた拳骨にのーしんとうってやつを起こすかと思った。
Aに初めて会った時だ。
多分仁王先輩がチクったんだ。
尋常じゃなく痛む頭を押さえながら廊下に出ると柳先輩がおかしそうに笑っていた。


「精市に気に入られているようだな。」

「柳先輩…。」

「…なぜここに来たかは聞かないが、今後一切お前の目的には手を出すなよ。」

「…!」

「最もそれについては当に精市も知っているだろうが。あれは聡い男だ。バレていないとでも思ったか。お前の、父親のことだ。」

「……。」

「まぁそう深刻にならなくとも…な。ただ精市を敵に回すとこの世界では生きていけない。それがここの規律というやつだ。Aは精市の特別だからな。」

「……っ、余計なお世話っす。」

「忠告はしたぞ。」


そう言って俺の頭を撫でた柳先輩は、こうなることを予想していたかのようだった。
Aは、特別。
俺にとっても、特別なのに。



物心ついた頃、父親が蒸発した。

母親は身を売っていたがそれは生活するためでなかった。
俺を産んでから家を出たみたいだけど母親は元々それなりに良い血筋の人だったし、俺の姉と間違えられるほど若かったし、俺が言うのもなんだけど癖の強い黒髪さえ際立たせるほど別嬪だったし、生活費の補助は充分なほどに家から受けていた。
離縁する代わりに補助はする、そんな約束だったらしい。

毎晩出掛けては母親は体で稼いだお金や補助金を全て失って帰ってくる。
次第に俺を疎ましい目で見るようになった。
家には食べる物もあまりなく、俺は盗んだり喧嘩をふっかけたりもした。
似たような境遇の奴らは近所にもわんさかいたから孤独を感じることはなかったけど、心にぽっかりと穴が空いているように思えた。

しばらくすると俺は働くようになった。
客にキレて首になって仕事探しての繰り返し。
帰ってこない母親の顔なんかもう随分見てなかったけど、正直どうでも良かった。


何かが起こるのはいつだって突然だ。

夏ももう終わる頃、母親が帰ってきた。
久しぶりに見た母親はきつい化粧と綺麗な着物で着飾っていた。
他人として町で見たならさぞ目を引いただろうが、今はその化粧や着物にすら吐き気がした。
母親は優しく俺の腕を引いた。
町を抜け、また違う騒がしさがある大人の町へ潜り込む。
たどり着いたのは目がチカチカするような明かりと耳障りな人の声の洪水。
噂に聞く遊郭だ。
それも町一番の。


「おい、勝手に入っていいのかよ…!」


母親は何も答えずに慣れた足取りで人気のない抜け道を行く。
どういうつもりだとも言えなくて俺はただ母親に連れていかれるがままになっていた。
まだ客も今夜はどの遊郭にするかと盛り上がっている時間帯だからか、遊女は店の外や見せ物部屋にいて、遊郭の中にはあまり人気がなく外装と比べるとうるさくない。
部屋続きの廊下は不気味でとても長く感じた。
一つの部屋の前で止まった母親は高く重そうな襖を細い腕で引く。


「……、」


驚いて母親の名前を呼んだのは形容し難い雰囲気を持った男だった。
歳がいくつかわからない。
俺よりちょっと上か、もしかしたら随分上なのかもしれない。
金の長いキセルをくわえているのも、髪を紐で簡単に結った髪型も、着崩した流行り物の着物も、様になっているのがすごくカッコよく見えた。
花魁、庶民には手が届かない存在。
切れ長の瞳がくるりと動く。
それだけで空気が動く。
部屋のむせかえる香の匂いに俺は思わず鼻をつまんだ。
それを見た男は白銀の髪を揺らしてふっと笑った。


「ほんとに連れて来よった。お前さんが、赤也か…。」


わかりにくいけど悲しそうな笑い声。
隣で母親が赤く染めた顔をうつむかせていて、まるで知らない人のようだと思った。


「雅治さんが…会いたいと言ってたから、私…。」


年下かどうかはわからないけどそいつは母親よりはそう見えた。
なのに年下に敬語を使って下手にでる母親にいらいらは増すばかり。
そこでようやく母親が惚れて貢ぎ込んでいる男が目の前にいるこいつだという事実を知った。


「ほら、赤也。挨拶は?」

「…………。」

「…仁王雅治じゃ。そう睨みなさんな。」

「うっせぇ…!潰されてぇのかよ…!」

「赤也…!!」

「素直で可愛い、ね…。嘘つきやの、お前さんのかあさんは。」

「……!」


つかみかかる前に母親にスゴい力で引っ張られた。
偶然空いていた向かいの部屋に入ると、母親は俺の頬をぶった。
顔を真っ赤にして目にいっぱいの涙を浮かべていた。
母親が俺を罵倒しようとした時、仁王と名乗った男が間に入った。


「駄目じゃ。」

「でも雅治さんにあんな口を……!」

「赤也クンはしばらく俺が預かってもええ?」

「雅治さん…!」

「だめかのう?」

「……っ、わかりました…。役に立たないし、きっと雅治さんに粗相ばかりするけれど、好きに使ってください…。」

「ありがとさん。ああ…それと、お前さんもうここには来ん方がいいぜよ。」

「ど、どうして…!」

「幸村に見つかったら危ないじゃろ。今いくらツケとるかわかっとるんか。赤也クンで帳消しにしておくぜよ。」

「嫌…っ!私、私、雅治さんに会えなくなるなんてそんなの…!!」

「出て行きんしゃい。もう会いとうない。」

「……っ!」


化粧も着物もボロボロと泣き崩しながら走っていく母親を冷めた気持ちで見ていた。
その反面、横に立っている男が憎くて憎くて、何を考えているかわからないようなその顔を殴ってやろうと思った。


「……。」


母親の後ろ姿を見て、仁王先輩が何を思っていたのか今でもわからない。
だけど、後にも先にも仁王先輩があんな顔をしているのを俺は見たことがなかった。
仁王先輩のところに通うために、家を捨てて、俺を捨てて、自分の体を売っていることを、多分仁王先輩は知っていたんじゃないかと思う。
言葉だけじゃとてもそうは思えないけど、あの二人は好き合っていたのだ。きっと。

それからしばらく俺は仁王先輩と柳生先輩のところで暮らしていた。


「先輩。」

「せんぱい」

「部長。」

「ぶちょー」

「柳生先輩。」

「野牛?」

「柳生です!…仁王くん、変な言葉ばかりを教えるのは止めたまえ!」

「面白いじゃろ?客に貰った本に書いてあったナリ。部活っていう集まりの話じゃ、うちの遊郭にそっくりでよ。」

「柳生先輩。」

「はぁ……。」


二人の人柄のせいか、本来なら邪魔でしかない俺を置いていても上からは何も言われなかったらしい。
ただし他言は無用。
俺の存在は一部の人間しか知らなかった。
仁王先輩はしばらく客を遠ざけていたから、朝から晩まで俺と遊んでくれた。
兄のような存在だった。
仁王先輩の隣の部屋が空き部屋だったからたまにそこも使っていたけど、いつだったか幸村部長とよく言い合うおっさんが居座るようになった。


「お前が諦めるまでしばらくここに通わせてもらうからな!!」

「好きにしてくれ。だけど、諦めるつもりは毛頭ない。」

「ならば我慢比べだ。」

「フフ…この俺が負けるとでも?」


二人はよく言い争いをしていたけど、大抵は幸村部長が圧勝していた。
おっさんは不定期に現れては時々ここに寝泊まりをして帰っていった。
だけど若い女の客と出くわそうものなら長々と説教をした挙げ句外へ追い出していた。
これで遊郭は大きな損害を受けていたらしい。
幸村部長がこの頑固なおっさんにすごい剣幕で近寄るのを、隣の襖に穴をあけて仁王先輩と覗いていた。
俺はおっさんともたまに話すようになった。
おっさんは幸村部長や仁王先輩、柳生先輩と友達みたいな関係にあった。


「真田副部長。」

「なんだお前は。副部長とはなんだ。」

「仁王先輩がそう呼べって。」

「またあいつか。くだらん。お前もあんな奴の言うことを真に受けるな。家はどこだ。親御さんは心配しているだろう。」

「家はあっちだ。親はいない。」

「む、そうか…。不躾にすまなかった。では…母親も…?」

「どこかに行っちまった。」

「そうか。」


真田副部長はそうかそうかって繰り返しながら俺の頭を何度も撫でた。


「俺にはお前と同じ歳くらいの娘がいる。あれは女房に似てなかなか美人になるぞ。」

「……。」

「なんだその疑うような目は。」


俺はここの人たちが好きだ。
面倒見てくれた仁王先輩も柳生先輩も。
俺を知らないのに優しくしてくれる他の人たちも。
たくさんのあの温かな人の手を俺は一生忘れないと思う。


何かが起こるのは、そうやっぱり突然だった。

次の年の祭の日。
長い冬の間の闘病生活から一変。
幸村部長の病気が治ったお祝いも兼ねて、数人で祭りに行くことになった。
俺も行きたいと駄々をこねて仁王先輩と柳生先輩にこっそり連れて行ってもらった。
けど、客入りの前には俺は帰らなくちゃいけなかった。
仁王先輩の部屋は遊郭の奥まったところにあるから、客が入る前までに戻らないとお子さまには悪影響だと考えていたらしい。
それにもし他の人間に知れたら俺はここでは暮らせない。
だから俺は仁王先輩が呼び出しておいた番頭のおじさんと一緒に早めに帰ってきた。


真田副部長だけは祭りには行かず遊郭に残っていた。
それが、間違いだったんだ。


「赤也、今すぐここを出る準備をしろ。」

「え?なんで?」

「いいから今すぐだ!!引きずってでも連れて行くぞ!!」


帰ってきたら突然、真田副部長が慌てて俺の元に飛んできた。
困りますと焦る番頭をよそにぐいぐいと腕を引っ張られた。
残っていた人たちが何事かと集まってきて、遊郭は一時騒然とした。
何者だこのおっさん。
何人かを手早く仕留めた真田副部長を見て、俺は抵抗するのを止めた。
半ば体が浮くように引っ張られて遊郭を出て、俺たちは町へ消えた。


「真田副部長!」

「すまない。本当にすまない。赤也。」


真田副部長はいい大人だってのにボロボロと涙を流していた。


「お前は俺の息子なのだな。」


走りながら、俺は父親失格だと真田副部長は何度も謝った。
薄っすらとだが俺の記憶にはきちんとろくでなしの親父の顔が残っている。
違う真田副部長じゃないと言っても、真田副部長は俺をつれて走った。




「もし…もし…どなたかいらっしゃいますか。」

「む?誰だ。」

「ああその声…!私の声を忘れたのですか。」

「なんだ?生憎、俺には覚えがないが…。」

「……っ、ひどい…ひどい…、うっ…う…。」

「な、泣くな!!」


化粧もせず安い着物で着飾った女。
それだけなら全くわからなかったけど、他の特徴を聞いたら、当てはまる人物は一人しかいなかった。
強い癖のある漆黒の髪。
俺の母親と名乗るそいつは、真田副部長のことを父親だと告げたらしい。


「あの日のことを覚えていないのですか。あなたはとても酔っていたので…。」


真田副部長は女の強い癖のある黒髪に見覚えがあった。
昔引き受けた用心棒の仕事で、高い位の家に行った時だ。
そんな女を見たことがあった。
仕事が終わった際にその家の宴に是非にと招かれていた。
実際、仕事の報酬とはまた別にお礼として食事や宴に誘われるのは珍しくことではなかったため、その日も付き合いだと思って断らなかった。


俺の父親は真田副部長じゃない。
多分母親は仁王先輩に会えなくなったのが悲しくて、仁王先輩の傍にいる俺が疎ましくて、それで真田副部長を嵌めたんだと思う。
仁王先輩の隣の部屋に居座っている真田副部長を。

何度説明しても、真田副部長は首を縦には振らなかった。
証拠がない以上お前は俺の息子だと言い張った。
こんな最低な男を何も言わずに忘れてくれとだけ書いた文を送って、真田副部長は俺と二人で暮らすための家を探した。


その頃、Aは幸村部長と出会ったはずだ。
俺はこれを今になって後悔している。




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