「降ってきたな…雪…。」


江戸の町にまだまだ冬は続くらしい。
幸村は何杯目とも知れない日本酒の乗った杯を口に傾けながら窓の外を眺めた。
ここ最近、まともに部屋から出ていない。
仕事はしているもののほとんど柳に任せっぱなしだ。


「は…。」


幸村の幸という字が嫌いだった。

このご時世に珍しくはないが、決して幸せとは言えない環境に生きてきた自分が、幸せを願う名前をうざったく思わないはずがない。
雪と結びつく読み方も寒々しいと思う。
久々に客でも呼ぶかとふと思った。
酒を煽って女に酔えば、あの夜の間違いを忘れてしまえるだろうか。
あの日と同じ日本酒を味わいながら、あの甘く幼い口付けに何度も陶酔している自分に気づいて、幸村はため息をついた。

Aはどう思ったのだろう。
柄にもなく彼女に会えない。


「精市、番頭からの報告だ。」

「……なに。まだ眠いんだ…。」

「連日二日酔いのところ悪いがそうも言ってられない。…赤也が、Aを連れて出て行ったそうだ。」

「…!……ああ、赤也のやつ…。」

「行く場所ならある程度断定できるが、ジャッカルにでも行かせるか?」

「……心配しなくてもあの二人は戻ってくるよ。」

「いいのか。」

「俺にどうしろって?」

「精市…。」

「最悪な気分だ。飲み過ぎた。」


目を閉じて呟くと幸村は震えるような声を吐いた。
どれほど飲んでも楽しくなれない。
目眩と気持ち悪さだけが積もるだけで、Aが晩酌してくれた日から酔うという感覚を忘れてしまったようだった。
部屋に転がる何本もの日本酒の瓶から一つを拾うと柳は溜め息をついた。
決して安くはない酒は全て客からの貰い物だ。
病にかかって以降、今は、特にAが来てからはめったに客は取らないが、立海遊郭を栄えさせただけはある。
幸村の人気は城下でも上位を争うほど絶えない。

幸という字が嫌いだ。名前の頭についた文字。

幸せを願うのもくだらなくて、雪を連想させるそれは無条件に顔を曇らせた。
こんな寒い日は、嫌なことばかりだ。
俺が日常を失ったのも、病にかかったのも、そして、もがけばもがくほど大切な人が俺から離れていくのも。
どんなに大切なものもこの寒さに吹雪かれて、いつの間にかさらわれてしまって。


「いいよ…いつかはわかることだ。じっくり知ってくればいいさ…。」


そして俺の元に戻っておいで、A。
そうしたら次は死ぬまで離さないから。





赤也…!と制止の声をかけようとした時、赤也の横顔があまりに必死で私はすっかり言うタイミングを失った。


「どこ行くの…!」

「行けばわかる!」


まだ静かな立海遊郭を抜け出して、私たちは夕日の赤に染まっていく空に背を向けて町へ向かった。
久しぶりに出た遊郭の外は薄暗いはずなのに妙に明るく考えてた以上に広いように感じた。
心の中にあるもやもやも遊郭を飛び出した罪悪感幸村さんのことも、今は頭で考えられない。
急に胸の辺りが痛くなって、私は涙が出そうになるのを寒さのせいだと言い聞かせた。


(お父さん…お母さん…)


どこをどう走ったのかもうよくわからなくなった。
あんなに大きく目立つ遊郭が今はもうその高い屋根の先すら見えない。
幸村さんに連れて来られて以来、遊郭の外には出なかったから私は立海遊郭が町のどの辺りにあるのかよくわからないのだ。
ごちゃごちゃとした小道の狭さが懐かしい。
小屋や長屋の隙間を縫うようにして私は赤也と見知らない場所を一緒に走った。
赤也が私の手をぎゅうと握る。
男の子らしい大きくて強い手だ。
そう言えばあのひとの手はとても指が長くて綺麗だと思って、何もかもをそこに結びつけてしまう自分がどうしようもなくなった。


「なぁA…。」

「な、な、に…っ。」

「ははは!喋れてねぇって。」

「仕方ないでしょ…!走、て…んだから…!赤也はや…!」


言い終わる前に赤也が止まった。
私はぜーぜーと肩で息をしながら自分の体力のなさを恨んだ。
これでもあの広い遊郭の掃除で鍛えてるのに。
急に走ったせいでツンと痛くなる鼻をすする。
今は鼻もほっぺもおかしいくらい真っ赤に違いない。


「ここまで来れば大丈夫か…。」

「赤也…?」

「ここからは歩こうぜ。」

「あ、うん…。」


私は赤也につられて何もない道を振り返った。
赤也に引っ張られて歩き始める。
走るのに夢中で気付かなかったけど、薄暗い空中には雪がふわふわと舞っている。
これじゃ寒いはずだと冬の象徴を見て思った。
雪から幸村さんを連想してしまう。
白くて綺麗でどこか儚げで。
幸村さんには雪が似合う。
そう言ったら、喜ぶだろうか、怒るだろうか。


「A…、Aの母親って、今なにしてんの。」

「え…?」

「いや、なんとなくっつーか…。聞いちゃまずかった?」

「ううん…お母さんは、お父さんが借金残していなくなったって知ってからすぐに出ていっちゃったみたいで。手紙だけ置いてあった。」


母は二人一緒に逃げることのリスクをよく知っていた。
手を出した遊郭がどんなところだったのかも。
隣の太郎おじさんが話していた、町で一番古くて華やかで鮮やかで規律も厳しい立海遊郭。
借金を踏み倒して逃げられただけでもお父さんはすごいのだ。
お父さんは色んなお偉方から御用達されていた腕利きの用心棒だった。
幸村さんから後で聞いた話では、相当な人数の被害者を出したらしい。
その記録を破る人は未だにいないとか。
あの日は町で祭があっていて偶然幸村さんが数人のお供を連れて外に出ていなければ、お父さんは捕まっていたかもしれない。


お父さんは遊郭に借金を残すような人じゃない。
きっと何かの間違えかきちんとした理由があってそうなってしまったと思う。
だからあなたも逃げなさいと、殺されてしまうかもしれないからと、お母さんの手紙には書いてあった。
そして、お父さんとお母さんのことはもう忘れなさいとも。
何がなんだかわからなくて、悲しいとかそんなことよりもひたすら真っ白で。
とにかく家は出てみたもののどこにも行くところなんかなくて、私は一日中うろついていた。
案の定、夕方には幸村さんに見つかってしまったわけだけど。
「子犬一匹幸村さんが直々に捕まえに来るなんてねぇ…。どんだけ借金積んでたんだか。あんたにはきっと一生返せやしないよ。」と炊事場のおばちゃんがせせら笑っていた。
お父さんが借金をするような人じゃないことは私もわかる。
だけど幸村さんはずいぶん貢いでたって、言ってた。
駄目だ。またわからなくなる。


「お母さんを恨んだことはないよ…まぁ、ちょっとはあるけど。でもお父さんに会ったら…どんな正当な理由があったって一発殴ってやる!」

「たるんどる!って言って殴ってやろーぜ。」

「ほんとだよ!!たるんどるのはどっちだ!って言ってやる……って、赤也…なんで私のお父さんの口癖知ってんの…?」

「やっべ…あー、違うくて、その…」

「お父さんを知ってる!?お父さんがどこにいるか知ってるの…!?赤也…!!」

「後で説明するから!」

「でも…っ。」


なんで。

なんで赤也が。

でもそれなら私の名前を知っていたことに説明がつく。
赤也はお父さんとそんなことまで話すほど仲が良いんだ。


「時間がねぇんだよ!俺は夜までには遊郭に戻る。あそこでナンバーワンになるって大見得切っちまったし、なんだかんだで先輩たちといるのすっげー楽しいし。それに…言い忘れたこと、あるから。」

「誰に…?幸村さん…?」

「そう。それとAに。」

「…………。」

「答えによっては、お前はもう二度とあそこには帰さねぇから。」

「……赤也。私は…。」

「俺、Aのことが好きだぜ。本当に、好きだ。」

「わ、私も…好きだけど…。」

「じゃ、俺の子供産んでって言ったら、Aはどーすんの。」

「………っ!」

「なぁ、どうすんだよ。」


頭が混乱する。
赤也の言葉は友達という単語の反対語を示している。
真剣な赤也の表情が見ていられなくなって私は不自然に目をそらした。
繋いでいる手がじわりと汗ばむのがわかった。
黙ったままの私に赤也は何も言わなかった。
ただひたすら黙々と歩いた。
いつの間にか町は賑やかになっていて、私たちは人波の中を進む。
いつもはうるさい喧騒も今は沈黙を打ち消すために必要なものだった。

お父さんのことも、赤也のことも、今遊郭から逃げて来たことも、幸村さんのことも、私のちっぽけな頭の中を駆け巡る。
鼻の頭に落ちた雪がじわっと溶けた。

私には、きっと、雪は似合わない。




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