幸村さんの部屋は、勿忘草の間と言うらしい。

一夜で忘れることが鉄則の遊郭にはあまりに不釣り合いな名前。
ただあちらは一夜を忘れてもこちらは傷を忘れない。後に残るけだるさも虚しさも、一方的で一人で溜め込むには重たすぎるもの。
花魁のそれを全て一緒に背負ってやるのが幸村さんの役目だって、仁王さんが話していた。
その名の通り勿忘草の有名な花言葉に、幸村さんが込めた願い。
家族同然の花魁たちのために自分も傷を負うための戒め。

でも昨日の幸村さんはきっとそれだけじゃなかった。
眠る間際に私の肩で囁くように小さく呟いた言葉が忘れられない。
あれは、幸村さんの心に残るのは、私の知らないどこかの誰かを指していたんじゃないだろうか。


『どうか、俺を、覚えていて…。』





「…………。」


昨晩は上手く眠れなかった。
寝不足でぼやける視界をこするけれど、相変わらず眠気はなかった。
もう見慣れた小さな部屋の天井で、使い古された毛布に顔を埋める。

――――――どうか俺を覚えていて。

昨日、眠りに落ちる前の幸村さんが零した言葉に鼻の奥がツンとした。
そこに普段の強さも精悍さもなく、心の底から出た無防備な物のように思えた。
私なんかが聞いていい言葉じゃなかったのかもしれない。

幸村さんの過去、そして多分遊郭であった出来事で、もしかしてこの崇高で神聖な雰囲気がある幸村さんが自ら選んで恋をした相手に向けられた言葉。
私の勝手な邪推だけどきっとその重さに変わりはないだろう。
大事な、その相手の人だけが所有を許された大事な言葉。

切なかった。
幸村さんの弱い一面が目の前にいきなりあって。
どうすることもできくて。
そんな関係のない私が、踏み込んでいい領域じゃないと思い知らされた。
その途端、自分でもわけのわからない嫌な気分に襲われて動けなくなった。


(まさか……嫉…妬、)


違う。絶対に違う。
ここに来て幸村さんにはなんだかんだで助けてもらってばかりだったから。
なのに私が何も励ましたり元気づけたりできないから。
他の人と間違えてキスされたのが、身代わりにされたみたいで嫌だったから、だから。

幸村さんは命令や脅迫はしても借金を取り上げる真似も体を売ろうとする真似もしない。
それどころか着物や部屋などを与えてくれ、炊事洗濯掃除しかすることのない下働きには有り得ない程の待遇だった。
普通なら大部屋で雑魚寝するのが身分相応だ。
そもそもそんな雑用は花魁になれない下位の遊女が自分たちでやるもので、下働きだけの女の子なんか普通は雇わないのだとここに入って初めて知った。
借金を残した父親の娘に同情だけでこんなによくしてくれて、ありがとうございますなんて言葉じゃ済ませられない。


あの時、柳さんが来てくれなかったら、私はあの後どうしていたんだろう。
そのまま呆然としていただろうか。
幸村さんが風邪を引かないように掛ける物を探しただろうか。
声をかけて無理にでも起こしてみただろうか。
全部、なかったことに、しただろうか。

締め切った障子の向こうがまだ薄暗い。
夜の賑やかさは一夜の幻と消え、今はしとしとと雨が降っていた。
ため息を吐いて自分の中にある重い空気を出してしまおうとしたけど、それは逆に昨日のことを鮮明に蘇らせた。

私の膝の横に体を投げ出して、幸村さんはその白く綺麗な寝顔を晒していた。
鼻に残るお酒と幸村さんの匂いが私を呆然とさせていた時、障子の向こうで落ち着いた夜のような声が響いた。


「精市、開けるぞ。……精市?」


スルリと音を立てて開いた障子の向こうで、少し驚いた柳さんと目が合う。
ざっと顔が青ざめたのが自分でもわかった。


「………っ!あ、の…!これは違…!」

「し…静かに。客に聞こえては困る。」


柳さんは人差し指を薄く形の良い唇の前にかざし柔らかく微笑んだ。
見つけてくれたのが柳さんで良かった。
柳さんは幸村さんを見て少し困ったような呆れたような顔をした。


「珍しいこともあるものだ。」

「え…?」

「精市が人前で酔うなんてな。」


柳さんは部屋に入って障子を閉めるとくすくすとおかしそうにしながら、部屋の奥に布団を敷いた。
柳さんが幸村さんを抱えあげると幸村さんが肩に掛けていた羽織りがぱさりと落ちた。
それを拾って、布団に向かう柳さんの後ろをのろのろとついて行った。
横になった幸村さんの布団の上に羽織りをかけ、寝顔が安らかなことにほっと息をついた。


「…こんな時間まで付き合わせてすまなかったな。」

「あ…いえ…。あの、私…。」

「言わなくともわかっている。どうせ精市が我が儘を言ってお前を引き止めたのだろう。」

「う……ま、まあ。でも話があって押しかけてしまったのは私ですから…。」


うつむく私が複雑な顔をしていたことに気付いたのか、柳さんは心配そうに首を傾げた。


「…泣いていたのか、A。」

「…!!あ、えっと、泣い…てたわけじゃ…ないです…から。」

「精市に何か言われたのか。」

「ち、違います!そうじゃないんです…。なんていうか幸村さんがとても、悲しそうだったので…。」

「……そうか。」


少し沈黙が流れて、柳さんは私の頭を撫でた。


「今日はもう遅い。寝た方がいい。多少遠回りになるが部屋まで送って行こう。」

「あ…自分で帰れますから、柳さんももうお休みになって下さい。」

「お前一人で客室を上手く避けて帰ることができるのか?こっちだ。今夜の空部屋なら頭に入っている。静かに。客人の邪魔は野暮だ。ここの夜は、…そういうところだという認識を最低限持っておいてくれ。」

「……す、すみません…!!」

「不自由させてしまうが我慢してくれ。お前にはこういう場所に慣れて欲しくないのだ。精市もそう思っている。」

「幸村さんが…?で、でも…そんな…私は…借金を返すためにここにいるただの、下っ端なのに…。」


柳さんに部屋に送ってもらった後、私は深々と頭を下げてお礼を言った。


「礼には及ばない。ああ、精市のことだが…」

「はい…」

「精市は嫌なことや辛いことがあっても他人には甘えない。だから、たまにでいい。飲み過ぎる時は酒を取り上げてもいい。今日のように晩酌に付き合ってやってくれないか。」

「はい…。喜んで…!」

「ありがとう。」


柳さんは悲しそうに、だけど安堵した表情で笑った。


それが昨晩の記憶。
そこまで思い出したところで唇についたお酒の味を思い出した。


「ぎゃーーー!!!」


きっとあれに特に意味はないはず。目の前にいたからやったみたいなやつだきっと。
幸村さんは酔ってたんだから。
精一杯の小声で叫んでしばらく布団の中で葛藤に悶え悩んでいた。


「はぁ…そろそろ起きなきゃ…。」


私は朝からだるい体を起こして着替えると静かに部屋を出た。
今日はなるべく、幸村さんに会わないようにしよう。




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