いつもの見慣れた屋上。
いつもの見慣れた仁王の顔、声、色、雰囲気。


「もう駄目じゃ。俺は死ぬかもしれん。」

「は…誰?」


普段のいけしゃあしゃあとしている仁王にはとても似つかわしくない言葉に、どうしてよりもお前は誰だという思考に飛んだ。


「Aとももう会えんくなるんじゃな…。思えば入学式の時に階段から滑って落ちたAに跳び蹴りされたのが文字通り衝撃的な出会いじゃった…。あれは効いたぜよ。」

「そ、それはもう忘れてよ!!!」

「授業をサボって一緒に怒られたり、夜中学校に忍び込んでプールで遊んだり。あ、その時もAは滑って転んでプールにドボンじゃったな。そのせいで警備員のおっちゃんに見つかった時はさすがの俺も焦った。」

「悪かったわね。どんくさくて。」

「ははは、Aとおるとろくなことがないのう。」

「それはこっちの台詞!ていうかなによその走馬灯のようなノリは……。」

「だってもう駄目かもしれん…。」


小さくなった語尾と共に私から遠い空へと目をそらす仁王の横顔に、笑いが消えていくのがわかった。


「ねぇ、冗談…でしょ?」

「…………。」

「いつもの嘘だよね?あたし騙されないよ。」

「もうすぐ死ぬのに騙す必要ないじゃろ?」

「…そんな冗談、度が過ぎるよ。大体なんで死ぬわけ。」


いつも私をからかってる仁王だけどそんな冗談笑えない。
私はむっとして依然として表情が変わらない仁王を見た。


「すまん…。」

「に…。」


仁王、と呼ぼうとした瞬間、私は仁王の腕の中にいた。
日差しが強い屋上は太陽にがんがん照らされて陽炎で揺らめいていた。
そんな中抱き締められるのは暑苦しくて仕方ないのに、私は仁王の腕を振り払えなかった。


「すまん…。」


繰り返し謝る仁王に目を見開いた。
自然と眉間に皺が寄る。


「仁王…、ちょっと、ねぇ…ほんとにどうしちゃったの…?」

「俺のせいじゃ…。すまん。」

「仁王…?」

「こんなことなら、お前さんに言っておくんじゃった…。」

「なに…を…?」


自然と閉じた瞼に仁王の唇が寄せられる。
ポタリ、と頬に落ちたものは私のじゃなく仁王の頬から伝ったものだ。
目を閉じているから確かめようはない。
もしかしたら雨が降ってきたのかもしれない。
だけど、それはきっと仁王にはとても似つかわしくないものだ。






真夏の夜の学校に涼みに行ったのは、確か夏休みに入ってすぐのことだった。

言い出したのは私で、それをむりやり実行したのは仁王だったからもちろん私も強制参加だった。

プールに落ちた時は、遠くから近づいてくる電灯の光と大人の怒声がひどく恐ろしいものに思えて。
怖くて怖くて。
水の冷たさが絶望を感じさせて、仁王が私の名前を呼んでも固まったように動かなかった。
そんな震える私の体をプールに飛び込んだ仁王が抱き上げた。
プールから上がったら引きずられるようにフェンスを登って、水と涙でぐしゃぐしゃになった情けない顔の私の手を引っ張りながら仁王と二人どこまでも走った。
遠くから聞こえる警備員の声に引きずり込まれるような恐怖が背中に重くのしかかる。
足がもつれて転ぶたびに仁王が肩を支えてくれた。
私が小さく声をあげて泣くたびに仁王は励ますように私の名前を呼んだ。
暗闇の中、静かで恐ろしい闇の中、どこをどんな風にどれだけ走っているのかもわからなかった。
ただ後ろから迫り来る得体の知れない恐怖から逃げ続けた。
全速力で走った。
喉が苦しかった。
転んで擦りむいたところが痺れていた。
濡れた服が重かった。
頭は真っ白だった。

痛いくらいに握り合った手の感覚はなかった。

世界に二人だけになるのは怖かった。
仁王の手だけが頼りで、他に何もわからなくて、ずっと涙が止まらないのに仁王の手だけは温かくて。
結局、途中重く疲れた体で眠り込んだ私を私の家まで仁王が背負ってくれたらしいけど私は全く覚えてなかった。

夏休み最大の思い出だ。


思えばあの時どうして、私は仁王に惚れてしまわなかったんだろう。
あんなに暖かい手を私はこれからの人生で、もう一度他に見つけられるとでも思っていたのだろうか。
ほんと、馬鹿だ。
恋愛のれの字もなかった子供だったから、だから後で私はものすごく後悔した。

仁王が他の女の子とキスしてるのを見た時にようやく気付いた。

遅すぎたんだ。
間に合わなかったんだって走りながら思った。


「A…。」


仁王の涙は、あの時私の手を引っ張ってくれた仁王の腕を思い出させた。
カルキ臭いプールの水が仁王の腕を伝って私の手に流れる。
水で滑って手が離れないようにと私たちは強く力を込めた。

麻痺したように何も考えられず、ただ目を瞑って仁王を想った。
瞼から離れた唇が頬に触れる。


「仁王…。」


校舎裏を通ったのは偶然だったんだ。
紙飛行機飛ばして遊んでたら、窓から飛び出しちゃったから、私は拾いに行くために校舎裏まで探しに行った。

キスシーンを見たのはほんの一瞬。
でも記憶に残るには充分過ぎる一瞬だった。

仁王と目が合ったら、私は無意識に駆け出していた。
仁王が私の名前を呼んで追いかけてくるのがわかって、さらに足を速めた。
全速力で走っているのはプールに落ちたあの時と全く同じなのに、もっともっと苦しい。
支える手も、励ましてくれる声も、私はさっきの一瞬で全て失ってしまったんだと思うと涙が止まらなかった。


「………。」


仁王の唇が頬から離れた。
風でなびいた仁王の髪がさらりと顔にかかる。
唇が触れ合いそうになった瞬間、仁王はいなくなっていた。
屋上と体に残る微かな熱に、仁王が消えた悲しみだけが凍るように重い。


「待って…。仁王…!」










「A、A…っ!」

「……に、お…。」


つんと鼻をかすめる独特の臭い。
真っ白な天井とベッド。
腕には針が刺さっていて点滴と繋がっていた。
麻酔が残っているのか体の感覚がない。
それでも手に温かさを感じて、気だるい視線を必死に動かしてみると仁王が握りしめていた。
先ほどまでの朧気な記憶の中で忽然と姿を消した仁王を思い出し、苦い表情で私を見ている仁王に私は目を見開いた。


「仁王…。」

「……、A、俺のことわかるか?」


文句を言う仁王の鼻声によく見ると目も赤い。
ベッドの横の丸椅子に座って私の手を握り締める仁王の手はどれくらいそうしていたのか可哀想なくらい白くなっていた。


「わかるよ…。」


ため息をつく仁王の目から溜まっていた涙がまた一筋落ちた。


「仁王……元気そう…。」

「は?なんじゃ突然…当たり前じゃろ。」

「うそ…やっぱり嘘だったんじゃん…。俺は死ぬとか、泣いといて……仁王のバカ…。」

「何言っとるんじゃ。死にかけたのはお前さんの方じゃろうが。あーもうお前さん意味がわからんぜよ…。」


そう言って私の手は握ったまま、仁王はぼふっとベッドに顔をうずめた。

沈黙した仁王に、私は自分の置かれた状況を考える。
ここはどう見ても病院だ。
私は入院しているらしい。
なんでかって、包帯が巻かれているから怪我したんだろう。
どうしてだっけ…。


「本当に…びっくりしたぜよ……。」


病院の真っ白な布団に顔をうずめたまま喋る仁王のくぐもった声に考えを一時中断した。


「仁王…。」

「このままお前さんが死んだら俺も死のうとか考えちょった……。」

「バカだね…。」


いつもなら憎まれ口が返ってくるはずなのに黙ってしまった仁王を何か励まさなくちゃとわたわた考えていると、ぎゅうっと手が強く握られた。


「良かった……。」


聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で仁王が呟く。


「ご、ごめん…。」


何に対してかわからないけど、呟いた仁王の声がまた涙声になっていたから自然と謝る言葉が口をついて出た。
そのまま沈黙する仁王の頭を見ながら、泣かせているのは自分だと悩む前に仁王でも泣くんだなと当たり前のことを考えていた。
ぼんやりとしていた頭が段々はっきりしてくる。
長い夢を見る前の、ああそうだ。
キスシーンを見て仁王から逃げた後、校門を飛び出したところで私は車にぶつかったんだ。

追いかけてきた仁王が後ろから何を叫んでいたのか本当はきちんと聞こえてた。
どんな時でも仁王の声だけは拾うこの耳先まで、仁王に惚れこんでたなんてどんな顔して言えばいいんだろう。
誤解するなとかむりやりされたとかぎりぎりだったとか、冷静な仁王が珍しいくらい慌てて大きな声を出していたのに。
自分でもそうなんだろうなって想像できていたのに。
やっぱり悲しかった。

だけどそれ以上に、仁王と離れることの方が悲しいのだとわかってしまった。

顔を動かすと微かに枕が濡れていることに気づいて、自分の涙なのかと自分の目に触れた。
昏睡していたからか泣いた跡はない。
思い当たる節があったから、私は未だに手を握って布団に顔を伏せたままの仁王に視線をやった。
夢の中で自分は死ぬのだと言っていた仁王の顔を思い出しながらさっきの仁王の言葉をもう一度考え直した。


「仁王…。私の怪我、多分大したことないよ…。」

「うん…。」

「死んだら怒るからね。」

「おう…。」


頷いても顔をあげない仁王につられて目の奥がじわりと熱くなった。
仁王が悪いんじゃないってわかってたのに私は逃げた。
きっと救急車を呼んだのも仁王なんだろう。


「ごめん…。」


目を伏せると、仁王が顔をあげた。
私と同じように赤くなった目が私を見た。
仁王は何も言わずに立ち上がると触れるだけのキスをした。


「好きじゃ…。ようやっと言えた…。」


その行為を何度も繰り返しながら言われた仁王の言葉になんだか涙が溢れた。
気持ちがごちゃごちゃしていて言葉にならなかったけど、夏の熱くて冷たい夜決して手を離さなかったあの日のように仁王は手を繋いでくれていた。

ただ手を握ることが私たちにとってはすごく大事な意味を持った時から、私たちはもう一人じゃいられなかったのかもしれない。
風に揺られるカーテンの先、夕暮れ前の青い空を見ながら、ふとそんなことを思った。










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