「もしもし?弦一郎さん?Kです。」
「うむ。」
「こんばんは。今日はお疲れさま!今日も弦一郎さん頑張ってたね〜。」
「当然だ。だが、お前もずいぶん動いていたな。あまり無理をするな。」
「大丈夫!マネージャーだからね!」
毎晩電話をするのが日課だった。
弦一郎さんはまだ電話に慣れていないからと思って、いつも私からかけていた。
まあ夜じゃなくても、弦一郎さんの声が聞きたくてよく電話してたんだけど。
「それでね、……ふあぁ。」
「もうこんな時間か…。お前も疲れているだろう。そろそろ寝た方がいいな。」
「…うん。」
「遅刻しないようにな。」
「はぁい…。」
少し拗ねたような声を出すと、フッと笑う弦一郎さんの低い声が耳にくすぐったい。
夜に電話越しだと、昼間の弦一郎さんとはまた声が違うような気がする。
なんだか…色っぽい…かも、と思って私は何言ってんだろうと恥ずかしくなった。
「弦一郎さん、おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
弦一郎さんとおやすみの挨拶をしてからだとぐっすり眠れる。
この挨拶を弦一郎さんからされる時、私は今世界で一番幸せなんじゃないかって、思うんだ。
「……う、…ぐす…弦一郎さんのばか…」
弦一郎さんのケータイを見て嫉妬して、泣きながら帰ってきてしまった。
弦一郎さんに弁明の余地もあげられなかった。
そうやって逃げて一人で泣いて、だから私は駄目なんだ。
でもどうしても、痛い。
だってそんな余裕ないんだもん。弦一郎さんのせいだよ。弦一郎さんが悪いんだもん。
私はベッドの中で体を丸めて泣いた。
今日の夜、初めて電話をしなかった。
初めておやすみなさいの挨拶をせずに部屋の電気を消した。
初めて夜が怖く感じた。
涙が止まらなくて、眠れなかった。
弦一郎さんから電話してきてくれるんじゃないかって、少し期待してた自分が悔しい。
「弦一郎さん…私のこともう好きじゃないのかな……?」
弦一郎さんに会いたくない。
次の日の朝起きて、だるい身体を引きずりながら登校する時一番に思ったのはそれだった。
「Kちゃん、おはよう。どうしたの?今日珍しく遅……、…ちょっとこっちおいで。」
「え…?なに…?」
Rちゃんは部室の奥にいくと、タオルを水に濡らして私の目に当てた。
「目、腫れてる…。大丈夫?」
「あ…昨日泣いちゃったから…。大丈夫…。」
「真田とまだ仲直りしてないの?」
「うん…。」
「Kちゃんたちのことだからすぐに仲直りすると思ってた…。早く仲直りしなよ。」
「うん……でも…。」
「そろそろ始める。テニスコートに集合してくれ。」
部室のドアを開けて入ってきた幸村に会話を中断して外へ出た。
朝の挨拶をすませてそれぞれがばらけると、気まずそうに弦一郎さんが寄ってきた。
「K…その、昨日のことだが…」
「……弦一郎さんのばか…。」
私はうつむいて呟くと、マネージャーの仕事に専念した。
「真田!何をしているんだ!」
弦一郎さんのらしくないミスに、背後にあるコートでは幸村の怒声が響いていたけれど、何も耳に入って来なかった。
「…………。」
「…………。」
気まずかった。
こんな辛いのは嫌。
早く仲直りしたいのに、その一歩が踏み出せない。
あのケータイ画面が頭の隅でチラついて私はぎゅっと目を閉じて頭を振った。
(うぅ…こんなの嫌だよ…。)
「顔色が優れないな。気分でも悪いのか?」
「あ…柳…。」
休憩中なのか、柳は私の側に寄ってきた。
ドリンクを渡すと柳は素直にそれを一口飲んだ。
「お前も弦一郎も、ずいぶんと難しそうな顔をしている。」
「………どうしたらいいのか、わかんなくて…」
「やれやれ…。弦一郎も同じ事を言っていたな。」
「弦一郎さんも…?」
そういえば弦一郎さんは自他共に認める鈍感なんだっけ。
私はため息をついて肩を落とした。
「すまない…。こんな時どうするのが最善なのか俺にはわからない。友人が二人も悩んでいるというのに、不甲斐ないな。」
「ううん……ありがとう。」
「だが、腑に落ちないな。」
「え…?」
「普段ならこんな状態のお前をRが放っておくとは思えない。Rなら部活中だろうとお前を優先させるだろう。Rがそういう性格であることを周りは認識しているし、幸村だって例外じゃない。見方を変えればRはこういう時のためにそういう性格付けを普段から計算しているということだ。」
「…う、うん。そうかもしれないけど…。」
「今日の部活は、嫌に静かだな。」
柳はため息をついて肩をすくめた。
柳の言葉はわかるようなわからないような…でも言われてみればそうかもしれない。
こんなにも寂しいと思うのは、いつも私の両隣にいた二人が同時に遠くなったからだ。
「Rちゃん…この間から何か考え事してること多いみたい…。」
「ふむ…推測はたてられるんだが、それは無粋だろうな。」
「Rちゃん、私の悩みは聞いてくれるけど自分の悩みってあまり話さないんだよね…。」
「それは意外だな。Kには色々話すと思っていたが…。後で仁王にも聞いてみるか。」
「…………。」
ただタイミングが悪かっただけなのに、どうしてって言いたくなる。
弦一郎さんも、Rちゃんも、傍にいない。
じわじわと滲む視界に慌ててうつむいた。
「K?K…、大丈夫か?」
「…っ、う…。」
柳は私の横に立つと、弦一郎さんの目を避けるように私の手を引いて滑るように部室へ入った。
「今の部内状況でお前が泣いたことがわかれば部員の精神が乱れ、明日の練習試合に必ず影響する。泣きやむまでここにいた方がいいだろう。」
「…ごめん…なさ……い…っ。」
「気にするな。泣くのを我慢するのはよくないぞ。」
「う…ん……。」
柳は私にタオルを渡して頭を撫でると、扉の方へ向き直った。
「待っていろ。Rを呼んで来る。俺は…泣いているお前に何もしてやれないからな。」
柳が悲しそうに苦笑すると、私は無意識のうちに柳の上着の裾を握っていた。
「…っ行かないで…。」
弦一郎さんも、Rちゃんも、滅多に泣かない。
二人とも私にはない強さがあって、私はそれがうらやましかった。
強いから傷ついても大丈夫だなんてそういうことは少しも思わないけど、何かあると私はすぐに弱ってしまう。
傷口に涙が痛い。
弱い時に優しくされるとすぐにほだされちゃうなんてほんとに私は………
「それは、どう解釈していいのだろうか。」
静かな柳の声が降ってきた。
当たり前だ。こんなことをしておいて。私は弦一郎さんの彼女なのに。
寂しかったから、つい、なんて言い訳にはならない。
困らせてごめんと謝ろうとした瞬間、私はきつく抱きしめられた。
「やなぎ…っ。」
ポツリと耳元で呟かれて、私は言葉を失った。
柳はすっと離れるとそのまま無言で部室を出て行った。扉が閉まる音がして、再び部室には沈黙が流れる。
私はしばらく茫然と立ち尽くしていた。
「お前を無防備にさせたのは弦一郎だ。」
罪悪感と溢れだした想いに苦しむような柳の声が、耳から離れなかった。