今はずいぶんと馴染んだ右手の恋人指輪を見つめて、ふと幼い記憶を辿った。
他人を認めること、他人に認められること、他人に認めさせること。それを繰り返してみんな成長していく。
あの時静かに充満する暗闇の中で、今まで誰にも心を許していなかった仁王が初めて面白そうな笑顔を浮かべていたから。
飄々としている仁王がこの学校で過ごすにあたってテニス部の仲間と一緒にいることを選んだ理由が、少しだけ見えた気がした。
「A。」
「先輩、でしょ!」
「センパイ。」
自分にやましいことがあると、表情は変わらないのに見つめてくる仁王に咎められているような気がしてならない。
大きな瞳はずれることを知らない。
「仁王は。」
サボり、という声が二人重なる。
言葉が一致したというよりも私の真似をされたという気分になってむっとした。
仁王は面白そうに笑顔を浮かべた。
サボり場所の定番、屋上。
壁に寄りかかる私の隣には散らばった教科書とペン、前にはポケットに手を入れてだるそうに突っ立っている小さな後輩。
銀色に光る自分の髪先をいじっている。それが彼の癖みたいなものなんだと最近気づいた。
「暑くないの?」
初秋なのに仁王は大きめの長袖のセーターを着ている。
学校指定のものではないものを着ているのはたまに見るけど、サイズまで合っていないのか長い袖の先から綺麗な指だけが少し見えていた。
仁王は下に視線を落とすとぶかぶかなセーターの裾を引っ張ってしばらく黙っていたが再び私を見た。
「似合うか?」
「え?…う、うん。」
「じゃあ暑くないぜよ。」
なんだその基準は。
と言っても曖昧に返されそうだったのでやめた。
このナリで、授業サボったり。決して素行がいいわけじゃないけど先生に何も言われないのはテニス部レギュラーだからか成績がいいからか。
でも仁王は要領がいいからというのが最終的な結論だと思う。
今年でテニス部のマネージャーを三年務めることになった私がふらりとテニス部にやってきた仁王を観察してしばらく。
「そういう行動は興味深いのでしょう。多分仁王は。」
と、蓮二くんに言われた時は何のことだと首を捻ったけれどそれはすぐにわかった。
いつの間にか懐かれてしまったらしい。
行く先々に現れて、偶然そのときよく私は一人だ。
敬語もあまり使わない生意気な後輩なのにいつも飄々とかわされて怒るに怒れない。
そのうちそれが仁王のキャラだとして定着していった。
なんてお得な性格を作っているんだろう。
先輩としての威厳が…と意味もなく私がじろりと仁王を睨むと仁王は普通に見返してきた。
「……………。」
「……………。」
結局いつも気まずくなって目をそらすのは私の方だ。
ナチュラルに私の膝の上に頭を乗せる仁王を屋上の床に落として、私は伸ばしていた足を曲げるとその上に教科書を広げた。
「膝枕。」
「だめ。」
断ると大人しく隣に座る仁王に、まるで猫を躾ているようだと少しおかしい。
認めたくないけど、こういう仁王は可愛いと思う。
今度はずるずると肩に寄りかかってくる仁王をはねのける気にもなれなくて放っておくと、私が拒否しないとわかった途端仁王はもう少しすり寄って寝息をたて始めた。
さらさらした髪がくすぐったい。
肩にかかる重さと伝わる熱が気持ち良くて、教科書を放り出すと私も目を閉じた。
授業をサボりたくなって屋上に来るのに、不安になって教科書を広げているあたり私はどうしようもない。
仁王はクラスではどんな感じなんだろう。
今のテニス部の二年生は幸村くんと真田くんと蓮二くんを筆頭にすごく強い。
もう三年生なんか目じゃないくらい。
威厳をなくした三年生が可哀想になるほどだけど王者立海の掟を前に誰も何も言わなかったし、むしろこれでテニス部は安泰だと喜んでいる人たちもいた。
少しずつ三年生の人口は減っていって、今では名ばかりの部員ばかり。
真面目に部活に出てる三年はきっと私くらいだ。
仁王もレギュラーを勝ち取った一人だし、みんなに馴染んでるけど、その実いつ頃から立海にいたのかも入部動機もほとんどわかっていない。
蓮二くんでさえ仁王のことはあまり知らないようだった。
仁王の身長はみんなより少し低め。というか細い。白い。
まだまだ成長期だから伸びてるみたいだけど、あの姿勢じゃ伸びきれないような気がしなくもない。
今の二年はかっこいい子が多い。
仁王もかっこいい。顔はもちろん、このけだるさが良いと言う女の子は少なくない。
後輩に懐かれるのは嬉しいけど、仁王は少し違う。
時折見せる大人びた顔がどうも私の調子を狂わせるのだ。
慕って懐く後輩よりは、居場所を見つけた猫のようで。
どう扱っていいのかわからなくなる。
「先輩…目、覚めたんか…?」
「………に、お…。」
優しく笑う仁王の笑顔はなんだか大人っぽい魅力があって、距離が近いとかそんなことよりもまず見とれてしまった。
「寝ぼけとう…?」
「…………え。」
ぼけっとした頭でようやく私は仁王に膝枕されていると把握した。
私の髪に指を絡める仁王の動作に不意にどきりとする。
「俺の膝枕はどんな…?」
年下がそんな大人びた動作をしていることにすごく違和感を感じるのに、仁王は妙に様になっていて。
このままじゃ惑わされてしまう、と赤くなりそうな顔を隠すように起き上がろうとしたら仁王は私の腕を取った。
「先輩、返事は?」
「仁王…。」
「よう眠れた?」
妖艶に囁いたかと思えば仁王は私の首筋をその長い指でするりと撫でた。
「う、わ…!」
びくっとした私の反応を見て仁王は妙に納得すると私の背中を押して起こしてくれた。
「な、なにすんのよ…!」
「今度は先輩の膝枕がいいぜよ。」
「今度って…。」
首筋を押さえる私にクツクツと笑うと仁王はひらりと屋上を去って行った。
撫でられた首筋が妙に熱を持っている。
残った感触にぞく…と鳥肌がたって、私は火照る頬を隠すように忌々しげに唇を噛んだ。
暗闇の中、私は後ろから優しく抱きしめられる。
振り向いていないのに、制服の上から優しく這いまわる手が仁王のものだと知っていた。
抵抗しない私と酷く熱をあげる身体。
「…っ、ふ…。」
「先輩、いやらしい顔しとる…。」
囁く仁王の吐息が耳にかかってくすぐったい。
スカートの下から上へ太ももを撫でられる。
これ以上焦らさないでと声に出したくなるほど、残酷なほど優しくて、いやらしいものだった。
「にお…」
「好いとうよ…、先輩…。」
気がつけばいつもの自分の部屋でぼけっとしていた。
「……………………。」
私は寝癖でぼさぼさになった頭を抱えて再び布団に倒れ込んだ。
ありえない。
夢の中とは言え仁王と……。
私は声にならない悲鳴をあげた。
それもこれも昨日の仁王のせいだ。
今まで懐いてきたり傍に寄ったりはしてたけど、それはどちらかと言えばペットみたいな感じで。
だから、だから、仁王のせいだ…。
「もう嫌だ…。」
仁王といると調子が狂う。
もう少し距離を置こう。
私はそう決心するとため息をついて起き上がった。
「先輩、タオル。」
「部室にあるから自分で取りなさい。」
部室とコートを行ったり来たりして、私は忙しいふりを装っていた。
いつもと違う様子の私を鋭く感じ取って、仁王は動き回る私をじっと見つめていた。
切れ長なのに大きな瞳が私の行動に沿って右に左にと動いている。
大人っぽい色気の中に残るあどけなさが逆にいやらしく思えるのは今朝あんな夢にうなされたからだ…ということにしておこう。
無言で見続ける仁王に耐えきれなくなって、私は部室に行くついでにタオルを取った。
今日から仁王と距離を置こうと思ったのに。
私は心の中で小さくため息をついて、仁王にタオルを渡した。
「はい。」
仁王はぱあっと笑顔を浮かべた。
「…………………。」
駄目だ。ほんと駄目だ。
ときめくな、あたし。
「先輩、疲れとう?喉は乾いとらんか?休憩は?」
「だ、大丈夫だから!」
嬉しそうに喋り出す仁王に負けて、私は大きくはっきり言うと逃げるようにその場を去った。
「参謀…、俺悪いこと言ったかのう。」
「………。さあ、どうだろうか。」
「嫌われとうないのに、うまくいかんのじゃ。」
悲しそうな声を出しているのに口元は笑っているように見えて、柳はそれ以上何も言わなかった。
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