「幸村。今日の練習のことだが…。」
「……………。」
「コホン。……。幸村、今日の練習メニューだが昨日と同じでいいか。」
「……………。」
「ゆ、幸村…。昨日と同じでいいのか。」
放課後になっても、精市の機嫌はなおらなかった。真田が必死に話しかけても精市は一言も喋らなかった。
窓の傍でイスに座って、窓枠に肘をついたまま外を見つめている。
しょんぼりしながら帰ってきた真田の肩を仁王と柳生がぽんと叩いた。
「幸村部長。俺と試合してください!」
「…………。」
精市にとって可愛い後輩である赤也が話しかけても精市は微動だにしない。
赤也がみんなの方向に振り向くと、ブン太が肩をすくめて首を横に振った。
誰が話しかけてもあんな様子だ。これじゃ部活が始められない。
「Aが話しかければ返す確率94%。」
柳がぼそっと呟くと、一斉にみんなが私を見た。
「え!?私!?」
「頼む。」
真田が重々しく言うとなんだか事態が妙に深刻なように思える。
みんなの視線に耐えられず私は恐る恐る精市に近づいた。
「精市………。」
たっぷり間を置いてから、精市は「なに。」と短く返事をした。
後ろの方でみんながガッツポーズをしていたのが見えた。ちなみに真田のガッツポーズが一番大きかった。
「部活始めようよ。」
「……。今日は昨日のメニュー二倍。」
精市が表情なくそう言うと、後ろでみんなが固まった。
「精市。」
咎めるように名前を呼ぶと精市は私に目を向けた。
「精市が部長なんだから精市がきちんとしなきゃだめでしょ!」
「ねぇ、何が不満なんだい?」
精市は悲しそうに言ってイスから立つと私を見つめた。
部室の中の空気が凍った。部員たちは静かに私と精市を見守っている。
「俺はAが好きだ。強引に手に入れてでも欲しかったよ。それくらい好きだし、Aが何より特別だ。だからそういう扱いをしてる。これのどこに不満があるって言うのかな。」
「不満…っていうか…。」
どうしよう何て言えばいいんだろう。
口ごもっている私に精市は低い声を落とした。
「…それが答えなんだね。」
バッと顔をあげると、精市はもう私を見ていなかった。
「精市…っ!!」
精市はおどおどするみんなを掻きわけて外へ出た。
「何してるんだみんな。早くコートに出て。真田!号令。」
「う、うむ。全員集合!」
慌ててみんなも外へ出て行った。
ドアが閉まってしんと静かになった部室の真ん中で私は立ち尽くしていた。
「………っ。」
流れてくる涙を拭って今すぐにここから去ってしまいたい気分に襲われる。
だけどマネージャーの仕事はきちんとこなさないとさらに精市に嫌われてしまう気がしてぎゅっとスカートを握った。
私は唇を噛んで涙を止めるといつも通りの仕事を始めた。
いつも、好きだって恥ずかしげもなく何度も口にする。
綺麗な顔なのにすることは黒々しい。
肌の色は私と変わらないくらい白くて、細いくせに力だけは強い。
そんな精市とは関わらない方がいいとずっと前まで思っていた。
精市は誤解してる。
確かに付き合ったのは精市が強引に推し進めた結果だけど、私だってちゃんと精市のこと見てる。
部活やテニスにかける精市の強い思いも、私の前だけで見せる拗ねたような甘えたような表情も、真っ直ぐで嫉妬深い愛情も。
全部包み込んであげたいって、そう思うようになったんだ。
世界が広がった気がした。
精市と一緒にいると全部がきらきらして見えて、私は精市が好きなんだって痛いほど強く思った。
ちゃんと言わなきゃ。
「幸村っ!!」
コートの方で真田の大きな声がした。
騒がしくなるコートに嫌な予感がして私は部室から飛び出した。
部員たちが一か所に集まって慌てている。
「どいて…っ!お願い!」
自分より遥かに大きな部員たちを押しのけて、私は集まっている部員たちの中心を目指した。
「幸村!大丈夫なのか!?」
「フフ…そんなに心配しなくていいよ。躓いただけじゃないか。」
「しかし…っ!」
「精市…っ!!」
私は中心に出ると精市の傍に座り込んだ。
「どうしたの!?」
「…転んだだけ。」
「………っ。」
精市はそれだけ言うと平気そうに立ち上がった。
「みんな大袈裟だよ。もう練習に戻って。」
相変わらず機嫌がなおっていないのか素気なく言う精市に、部員たちは仕方なくぞろぞろと戻って行った。
まだ心配そうに何か言おうとしている真田にラケットを持たせると精市はコートの向こう側に戻るように指示した。
「Aも。戻って。」
私は背中を向けようとする精市の腕をとっさに掴んだ。
「精…市……!」
機嫌が悪いだけとは少し違うような精市の様子に私は顔をしかめた。
心なしか掴んだ手が熱い。
「もしかして……。」
私は精市の腕を強引に引っ張るとコートを出た。
コートの向こう側でラケットをかまえたまま私と精市のやりとりをポカンと見つめている真田に身振り手振りで言いたいことを伝える。
「???」
あ、だめだ。絶対わかってない。
もういいや、と私は真田から目を離して精市を見上げた。
「A…。」
怒ったようなあきれたような声を出す精市をそのまま連れ出して、私は保健室に向かった。
「37度5分。風邪かな…。」
「それくらい大丈夫だよ。」
「精市!」
泣きそうな声が二人しかいない保健室に響く。
精市が座っている安っぽいパイプイスがぎしと音をたてた。
精市は何も言わずに私を見つめていた。私も何も言わなかった。その代りにじわりと視界の端が滲んだ。
「なんでもっと…。」
「…………。」
「もっと…。」
精市は立ち上がるとうつむいた私をそっと抱き締めた。
「A…。」
「うん…。」
「俺はどこにもいかないよ。」
心の中を読んだかのように精市がはっきりと通る声で言った。
病気のことを思い出したら、今だって鳥肌がたつくらいだ。
夜空よりも深海よりも真っ暗な恐怖。精市がいなくなる、たったそれだけの短い言葉で表せる終焉。
失ってからじゃ遅いのに、何もできない無力な両手。
「大好き…。」
どこにもいかないで。
私は精市に抱きついて、ごめんと好きを繰り返した。
「フフ…初めてだな。Aがそんなこと言ってくれるの。」
精市が笑いを押し殺したように言うから急に恥ずかしくなって、私は口ごもった。
精市をベッドに押しやって強引に布団をかける。
「精市はベッドで休んで!今日はもう部活は終わりにした方がいいよね。」
「A、どこ行くの?」
「どこってコートに行ってみんなに言わなきゃ…。」
「できればここにいて欲しいな。駄目かい?」
「………。」
私の手を掴んでいる精市は離す気配がなくて、私は渋々頷きベッドに座った。
横になったまま私の腰に手を回そうとする精市の手を掴んで布団の中にしまう。
精市の笑顔が少し曇った。
精市は再び私の腰に手を回したけど、今度は掴んでもびくともしなかったので私は精市を睨むだけで諦めることにした。
「いつから熱があったの?」
「それが自分でもよくわからないんだ。」
「もしかして朝からかな…。朝練は出てたけど。」
「うーん…それなら体がだるかった原因は風邪ってことになるのかな。」
「………………。」
苦い顔をする私に精市は笑顔で、ん?なんてとぼけてみせた。
文句を言っていたのは私だとしても、彼女としてその言い回しは少し傷つく。
きっとわかっていってるんだろう。これは精市の仕返しだ。
「じゃあ、私としなくても精市は大丈夫なんだ。」
ギスギスした声で言うと、精市はにっこり笑った。
「大丈夫じゃないって言ったらしてもいいって言ってくれるんだろうね?」
ぎゃー!と声をあげる前に私はベッドに押し倒された。
「ありがとう。誘ってくれて嬉しいよ。」
「誘ってない!」
「でもそう聞こえた。」
「い…っ。」
ジャージの隙間から覗く鎖骨から首筋にかけて唇と舌で触れる。
久々の感覚にびくっとすると精市はおかしそうに笑った。
抵抗しようと手足をばたつかせてみても精市には効果がないようだった。…いつものことだけど。
「病人なんだから大人しくしてよ!」
なんだか嬉しそうに私のジャージを崩していく精市にやっとの思いでそう叫ぶ。
精市は手を止めて悩むと精市の下で呻いている私にさらに密着した。
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