「目を閉じて、ゆっくり……そう、そのまま息を止めて…。」
「………………。」
「………まだだよ。」
「………………。」
「………………。」
「…………ぶはァッ!!し、死ぬ!!」
幸村はわざとらしく盛大にため息をついてみせた。
「ちゃんと息を止めてって言ったじゃないか。」
「ハァー…ハァー…し……んだ…そ…ういう世界が見えた…。」
「次はきちんとやれるよね?」
アンタ鬼ですか。
そう言おうとしたけれど、息をしていてもそういう世界に送られると思って、私は慌てて口を閉じた。
私にしては賢明な判断だったと思う。
「も、もう…いいです……。」
「ここで諦めるのか?」
「死んだら元も子もないし……。」
「死ぬわけないだろ。」
「……そうですね。」
緩やかに笑う幸村を見ながら、私は密かに思う。
(幸村が楽しそうだ…。)
こうして足繁く病院に来るようになってから、幸村は案外表情が豊かなのだと気付いた。
それは幸村の心とか考え方とか思想がきっと他人の何倍も色彩鮮やかだからで、私はそんな幸村に大きく救われている。
目を閉じて息を止める。
次に目を開けた時は、違う世界が見えるから。
そう言ったのは幸村だった。
ボロボロな失恋を抱えて病室に転がりこんできた私を癒やしてくれた、幸村の言葉だった。
忘れてしまえと直接的な言葉を使わないところが幸村らしい気の遣い方だ。
私はテニス部のマネージャーで、同じクラスということもあって、一応幸村とはかなり親しい関係だった。
幸村が入院している今もほぼ毎週会いに来ていたけれど、失恋してからは毎日来るようになった。
騒がしいだけの私を拒みもせず、幸村はこうして私の相手をしてくれる。
「はい。もう一回。」
「幸村…私は何秒息をしなければいいの…?」
「そうだなぁ…最低5分くらいかな。」
「待って待って待って。それね、死ぬよ。死にます。」
「死なないってば。俺、できるけど生きてるだろ?」
「嘘だ!!」
コイツ人間じゃねぇよ。
そんな目で幸村を見ていると、暗黒オーラを全開にさせた幸村がニヤリと口元を歪めた。「早く目、閉じて。」
「もう嫌だ!!真田助けて!!幸村があたしを殺そうとしてる!!」
「なんで真田なんだ。」
「え…だって副部長だし…。」
幸村を止められるのは真田くらいだよとも思ったけどそれは黙っておいた。
一瞬幸村の眼が冷たく光った。
(あ…怒った…。)
どうして幸村が怒っているのかわからなくて、私はオロオロと困惑する。
「目。」
「はい?」
「閉じろ。」
「幸村サン、」
「聞こえなかった?」
「聞こえました……。」
幸村怖いとぼやきながら、私は泣く泣く目を閉じた。
次の瞬間、唇に何かが触れて私は息を止められていた。
何が起きたのかわからなくて、幸村が離れた後も、私は目を見開いたままポカンとしていた。
「目、閉じろって言ったのに。Aは本当に仕方がないな。」
「…………………。」
「A…?」
「…………………。」
茫然と、え。とか、う。とか短い言葉しか言えない私に幸村が近寄って、私はそのまま後ずさった。
幸村は再度ニヤリと笑って私の目の前で囁く。
「息止まってるよ。人工呼吸してあげようか。」
石になったように動けなくなった私は瞬きもせずに幸村を見続けた。
私の様子にフと息で笑って、幸村がもう一度唇を寄せるその短い時間の渦の中で、私は走馬灯のように思い出していた。
目を閉じて、息を止めて、違う世界が見える方法。
よくよく思い返してみれば、そう言った時の幸村の顔は、今の幸村と同じ顔をしている。
優しさの裏で何かを企んでいるようなそんな笑い方。
そうしてようやく、私が幸村の意図に辿り着いた時には遅かった。
(ああ…。こんなの…冗談じゃない。)
触れ合ったまま幸村の唇が弧を描いて、私は無性に恥ずかしくなった。
「幸村!!もうやらない!!できない!!」
「できるできないは聞いてない。」
それからも毎日幸村の病室を訪れる私は、まるで自ら虎のいる檻に入る小動物か何かだ。
私は相変わらず強要される呼吸停止の理由を、すっかり開き直っている虎に尋ねてみた。
「だってどれだけ今まで我慢してきたと思ってるんだい?」
「…と申しますと?」
「一度唇を合わせたら離れたくないだろ?俺は平気だけど、Aはキスしながら息をするなんてまだできないだろうし。俺だって時間を譲る気はないからね。それなら止めてしまった方が早いかなって。」
「何じゃそりゃ―!!!」
そうして私は今日も息を止める。
最近じゃ開き直って、死んだら幸村に人工呼吸してもらおうかと思案中だ。
耐えきれずに口を開けるとどんな惨事になるか、残念ながら学習済みなのである。
(いつかわざと口を開けるくらいの余裕を持ってやる…。)
叶わないから理想なんだけどということはこの際だから無視しておく。
「ていうか、息する方法教えてくれた方が早いんじゃないの?」
「それは実践中じゃないと会得できないんだけど、実践してもいいのかな?3時間くらい。」
「この人、もーやだ…。」
彼女という肩書きを強制的に受け取って、幸村がどんなに最悪で、鬼畜で、性格悪くて、どんなにカッコいいのか、わかってしまったのが悔しい。
楽しそうに笑う幸村の隣で、私は顔を隠すようにうつむいた。
(チクショー…本当に、)
「A、」
(好きになってしまった…。)