“声がでないから、次の時間任せていい?書記はやるから。”
ルーズリーフの一番始めの行にそう書いて跡部に渡すと、跡部はルーズリーフを見て片眉をつりあげた。
「声が出ないだと…?ああ、インフルエンザか。もう大丈夫なのか?」
私はこくりと頷いた。
跡部はマスクをした私を見てその整った綺麗な顔で憂う。
それだけでぞっとするくらい、跡部には蠱惑的な雰囲気があった。
跡部とは中学一年の時から毎年同じクラスだ。
自然と仲も良くなって、今ではこういうのも頼みやすい。
今日は私と跡部が日直で、次の授業のホームルームは日直が仕切ることになっていた。
私は一週間前にインフルエンザにかかり、昨日からようやく登校できるようになったのだが、一週間も私を蝕んでいた病原菌は置き土産として声を奪っていった。
「高く貸すぜ。」
跡部はフと笑って席を立った。
私はありがとうと動作で伝えてた。
ホームルームは跡部がほとんどやってくれたので、私は手伝うと言う跡部を部活へ押しやって、放課後の日直の仕事を進んでやった。
黒板を綺麗にし、ゴミを捨て、後は日誌を書くだけになった。
外も随分薄暗くなったので急いで終わらせてしまおうとペンを走らせた。
「終わったか?」
「…っ!!!」
急に後ろから耳元で声がして、私は飛び上がるほど驚いた。
振り返るとジャージ姿の跡部が面白そうに笑っていた。
「アーン?…本当に声、出ないんだな。」
「…!!!」
私はばくばくとうるさい心臓をシャツごとぎゅうと掴んだ。
部活は?と書くと、跡部はお前がヘマしないか心配で抜けてきたと言った。
開けっ放しの窓から隙間風が入り込んで、跡部の上着のジャージがはたと揺れる。
後ろから跡部の匂いがして逃げ出してしまい気分になったけど、跡部が後ろから覗き込んでいるため椅子を引くことができなかった。
跡部が黙ると、否が応でも沈黙が訪れる。
沈黙の中、跡部の指が私の髪を梳いた。
ビクと肩が揺れると、跡部が薄く笑った気がした。
そのまま左耳の後ろを伝って、耳にかけていたマスクの紐を外す。
これは普通、じゃ、ない。
慌てて振り返ると跡部が反対側のマスクの紐を取った。
私の膝の上にマスクが音もなく落ちる。
私は暗い教室で跡部と二人きりでいるのが急に怖くなって席を立った。
「…!…!!」
「叫んだら誰か来てくれるぜ。まだ校内には人がいる。…ああ、声出ないんだったな。」
わざとらしく言って、好都合だと跡部は唇を歪ませた。
跡部は私の両横から机に手をついて私の逃げ場をなくした。
跡部と机の間で身動きが取れなくなった。
腰を密着させて足の間に入ってくる跡部を私は必死に押し返して首を振った。
「…つ…っ、ぁ……、っ、!」
「声が聞けねぇのは残念だが、それはそれでいい。」
跡部は私を抱き締めると大きく息を吸い込んで、普段は私を名字で呼ぶのにこの時は私の名前を呼んだ。小さく。
「…好きだ。ずっと前からそう思ってた。」
「…、」
「返事は…できねぇか…。」
跡部は肩をすくめて、私の首に歯を立てた。
『新型インフルエンザの病状』
(熱い、熱い、熱い)
(俺はずっと傍にいた。)(お前が気づかないだけで。)(お前を襲ったら一時でも。)(この手で奪ってしまえ。)