- ナノ -

入学して三日目です



「サクラ! 聞いたわよ!!」
「へ? 何を?」

 翌朝。家を出たと思ったら何故か玄関先で待ち構えていたいのに思いっきり捕まる。

「昨日ナルトから鬼電されてビックリしたんだから!」
「いや、だから何の話?」

 朝も早くから何をそんなに騒いでいるのかと顔を顰めれば、一緒にいたヒナタも赤くなったり青くなったりと忙しない様子で「それがね……」と話し出す。

「――で、外周してたナルトはあんたと見知らぬ男子生徒が仲良く連れたって歩いている姿を見て滅茶苦茶ショックを受けた、って話よ」
「あー……。成程ね……」

 あちゃー。見られてたかぁ〜。しかもナルトに。
 まぁ、確かにナルトは今生でも私の事が気にかかっているみたいだけど、何ていうか、昔ほど本気には感じなかったから全力でスルーしてたのよね。意外や意外。割とマジだったのかもしれない。
 思わず「悪いことしたなぁ〜」なんて考えていると、噂の張本人からメッセージが飛んできていたことを思い出す。

「あ。だから昨日『サクラちゃんアレはどういうことだってばよ?!』って意味不明なメッセージが飛んで来たのか」
「おっそ!! あんた気付くの遅くない?! っていうかマジでどういうことなの?! あたしにも分かるよう説明してくれる?!」
「ナルトくんは今日から朝練が始まるみたいだから、私たちに『詳しくて聞いて欲しい』ってお願いされてて……」
「あ〜。ごめんね、ヒナタ。迷惑かけちゃって」
「う、ううん! そんなことないよ! 私も、その、気になってるし……」

 とはいえ、正直に「あの人私の“元夫”なのよ」なんて言えるわけもなく。どう言い訳したものかなぁ〜、なんて考えていると、噂の赤髪が見えてくる。
 しかしその両サイドにはこれまた見知った顔が立っており、中心にいる彼は酷く疲れた顔で項垂れていた。

「あちゃ〜……。あっちもかぁ」

 確実に捕まったのだろう。両脇をガッシリと固められ、あまつさえ二の腕をテマリさんに捕まれている彼の顔色は真っ青だ。血の気が引いているどころかそもそも血が流れているのかも怪しい。それほどまでに色々と問い詰められたのだろう。
 それにしても、あの僅かな時間を色んな人に見られていたとは。今は違うとはいえ、元忍としては残念と言うか悔しいと言うか無念と言うか。まぁとにかく、やってしまったな。とは思う。

「よォ、待ってたじゃん」
「あんたが“春野サクラ”かい?」

 わあ。挨拶抜きの喧嘩腰。しかも二人は上級生だ。それが見てわかる程度には威圧感のある二人にいのとヒナタは「うっ」と一歩退くが、私としては二人の成長した姿を知っているので別にどうとは思わない。

「はい。おはようございます。テマリさん。カンクロウさん」
「うえっ!? な、なんで俺らの名前知ってんだよ……」
「ちょっと我愛羅! お前何をどこまで話したんだい?!」
「もういいから離してくれ……」

 ぐったりと、完全にグロッキーになっている我愛羅くんがいっそのこと可哀想になってきた。思わず「大丈夫?」と聞けば、蚊の鳴くような声で「だいじょばない……」と返される。うーん、これはだいぶキテますね!!

「あのぉ、どうせ向かう先は同じなんですから、我愛羅くんのこと離してあげたらどうでしょうか?」
「そういうわけにはいかないよ。この子、こう見えて逃げ足は速いんだ」
「そうそう。気付けばいなくなるとかザラだから、こうして捕まえとかないと何も聞けないじゃん」

 これは過保護を通り越した何かなのでは? と一瞬頭を過るが、とりあえずは彼を救出するのが先だろう。青い顔のまま虚ろに地面を見つめる彼に向かい、改めて名前を呼ぶ。

「我愛羅くん。一緒に学校行きましょうか」
「ちょ、ちょっと! サクラ!」

 後ろにいたいのから肩を掴まれるが、私は敢えて無視して俯く彼を下から覗き込む。

「だが……」
「私なら大丈夫よ。ていうかそもそも今更じゃない?」

 彼らと初めて出会った時に比べたら可愛いものだ。それに、彼との関係がバレた時も一騒動あった。それを思い出せばこの程度、痛くも痒くもない。

「ね?」
「あー……。それもそうか……」

 彼も思い出したのだろう。数度瞬くと渋い顔をし、納得したように頷く。よかった。彼もその時の記憶を持っているらしい。「あれは苦い思い出だな」と言いつつ二人の手を強制的に解いて鞄を肩に掛けなおした。

「テマリ、カンクロウ。俺は逃げないからさっさと行くぞ」
「あ! ちょ、おい! 我愛羅!」
「待ちな我愛羅! 話はまだ終わってないよ!」
「だから今からする。こんなところで立ち話などするか。遅刻したらどうする」

 心底嫌そうに顔を顰める姿が懐かしくて、思わず吹き出せば全員の視線がこちらを向く。とはいえ、いのとヒナタに関しては「この命知らず……」「サクラちゃん……」という悲観的なものだった。そしてテマリさんとカンクロウさんからは色んな意味で熱い眼差しを貰ってしまった。うーん。昔の記憶がなかったら泣いてたかもしれない。この威圧感。

「改めて、苦労を掛けるな。サクラ」
「あら。別にいいわよ。そもそも一番の苦労者はあなたじゃない?」
「違いない」

 おそらく昨夜か朝からこんな感じなのだろう。疲れたようにため息を零す彼に「お疲れ様」と背中を叩けば、途端に「おい」と不機嫌そうに声が掛けられる。

「お前、うちの弟とどんな関係なんだい?」
「説明して欲しいじゃん」
「チッ!」
「我愛羅くん、舌打ちしないの」

 久々に見た不機嫌値マックス超えの姿に苦笑いし、それから未だ青い顔のまま私たちと距離を取る旧友二人を改めて手招きして歩き出す。
 でも何と説明したものか……。
 ちらりと彼を見上げれば、彼も言葉に悩んでいるのだろう。顎に手を当て考える素振りを見せてから、すっと顔を寄せて耳打ちしてくる。

「この場合“元夫婦”とは言わない方がいいだろう」
「そうね。変な誤解されてもイヤだし、私もいのたちから不審者を見るような目で見られたくはないわ」
「最悪頭の病院に連れて行かれるな」
「手っ取り早く救急車呼ばれるかもね」

 となると、だ。ここは別の言葉で言いかえた方がいいだろう。そう。つまり――。

「侍女みたいなものです」
「ちょっと待て」

 後ろにいる四人に向かって笑顔で言いきれば、何故か彼に腕を掴まれ一行から離される。あれ? 何かおかしなこと言った?

「何故侍女になる?!」
「だって『保護者です』とは本物の保護者相手には言えないじゃない?」
「お前は俺をどういう目で見ているんだ?」

 がっしりと肩を掴まれ詰め寄られるが、恋人でもないのに『付き合ってます』とは言えないし……。ましてや『元夫婦』とは絶対に言えない。

「だってあなた時々ぼーっとしてるじゃない」
「否定はしないが普段はしていない」
「授業中はね。でも時々教師の目を盗んで窓の外見てるでしょ」
「それは……まあ……」

 前世の記憶を抜きにしても要領がいい人だ。授業に関しても今はまだ入学したばかり。それほど難しくもないので適度に息抜きしているのだろう。席順が後ろの私からは丸見えなのだが、知らぬは彼ばかり。
 暗にそれを伝えて微笑めば、何故か肩を落とされた。

「だからと言って侍女はない。俺がお前を虐げている酷い男みたいじゃないか」
「ええ? そんな偏見持つ人いるかしら」
「受け取り方は千差万別だ。規制は出来ん。そもそもだな、侍女というのは相手より格下であり、同級生に使う言葉ではない。それにもう俺とお前には立場も何もないだろうが」
「それはそうだけど」

 じゃあ他にどう言えと。促すように視線を向ければ、彼は暫し悩んだ末に困惑顔でこちらを見つめる一行を振り返った。

「ちょっと親しくなるスピードが速かっただけのクラスメイトだ」

 ああ……。嘘じゃないけど本当でもない、って奴か。割とそういう濁した言い方得意なのよね、彼。だけどそれに納得するような面々でもない。(ヒナタは別だけど)

「いやいやいや。無理があるって、それは」
「明らかに親しい以上の何かを感じるじゃん」
「我愛羅、あんた何か隠してるね?」
「ええっと……ナルトくんにはどうお話すれば……」
「見て。めっちゃ疑われてる。むしろ墓穴掘ってない?」
「…………面倒くさい……」

 やっぱり通じなかった言い訳に彼は額を押さえて項垂れたかと思うと、すぐに顔上げて私に耳打ちしてきた。その問いかけの意味が理解出来て苦笑いしか浮かばなかったが、頷けばすかさず彼に手を取られる。

「こうなれば逃げるが勝ちだ」
「あーあ。知らないわよ? あとでテマリさんに怒られても」
「今更だろう」
「あ! コラ! 待て! 我愛羅!」

 激昂するテマリさんの声を聞きながら、私たちは二人揃って学校に向かって駆け抜ける。流石に昔ほど速くは走れないけど、走ること自体苦手ではない。
 彼に手を掴まれたまま走り去る私たちに背後から色んな声が飛んで来たが、結局私たちは追いつかれることなく学校まで走り切ったのだった。


 ◇ ◇ ◇


「やれやれ……。酷い目に合った」
「でもこんなの序章に過ぎないわよ。絶対」
「まあな……」

 辿り着いた教室には既に多くの生徒が揃っている。ホームルームまで時間があるとはいえ、流石にここまで追ってはこないだろう。はあ。と息を吐きだしつつ彼に背を押されて席に着けば、途端に周囲から視線が飛んで来た。
 …………え? 何?

「あ、あの……春野、さん?」
「はい?」

 まだ数回しか話したことのない隣の席の子に話しかけられ、首を傾ける。彼女はいつも暇さえあればノートに何かを書き綴っている人だ。そして用がなければ他人に話しかけない子なのに、一体どうしたというのか。
 疑問に思いつつ彼女を見返せば、何故かうろうろと視線を彷徨わせる。……本当にどうしたのだろう。

「そ、その……春野さんは……」
「あの男子生徒と付き合ってんの?」

 すっぱりと尋ねて来たのは、反対側に座っている黒ツチさん似の勉強熱心な女生徒だった。あー……。もうここでも噂になってんのね。え? ていうか情報速すぎない? 元忍もビックリなんだけど。

「そういうわけじゃないけど……」

 正確に言えば『昔そうだった』だけで今は違う。今は(彼の言葉を借りるなら)単なるクラスメイトで、それ以上でも以下でもない。だから苦笑いしつつも否定すれば、疑わし気な視線を向けられる。

「の割には一緒に登校してきたみたいだけど?」
「家が近所なのよ。通る道も一緒なんだし、同じクラスなんだから挨拶ぐらいするでしょ?」
「で、でも、なんか親しそうっていうか何ていうか……」
「そういう風に見えただけですよ。本当に」

 どうにか言葉を濁していると、タイミングよくバキ先生が入ってくる。おかげで話はそこで打ち止めになり、その後は授業の準備やら何やらで質問攻めにあうこともなかった。
 ――三限目の技術の授業が来るまでは。

「では今日は実際に道具を使ってみましょう。各班にそれぞれ道具を配布しますので、お互い協力しながら作業を行ってください」

 用意されていたのは手頃なサイズにカットされた木材が数種類と、ノコギリだ。あとは三角定規などの小道具が数点。それを使って木材を切る練習をするのが今日の授業内容だった。

「まずは採寸をしましょう」

 ヤマト先生の穏やかな声に従い、各自手元の木材に採寸した印を書き加えていく。そうして二人一組になって木材を切り始め、暫く経ってからのことだった。

「うわあっ!」
「ごめん!」
「キャーッ!? 大丈夫?!」

 突然数名の悲鳴が聞こえたかと思うと、次々とそれは広がっていく。一体どうかしたのかと顔を上げれば、何故か彼が小走りで近付いてきた。

「サクラ」
「何よ」
「切った」
「え?」

 何を? と聞くよりも早く、ポタポタと彼の手から赤い鮮血が滴り落ちる。

「ちょ、我愛羅くん、今すぐ保健室に――」

 生徒たちを掻き分け近付いてきたヤマト先生が最後まで言い切る前に、私は彼の手首を掴んで叫んでいた。

「とにかく保健室!!」

 唖然とする周囲を完全に無視し、今朝とは真逆に彼の手首を掴んだまま走り出す。その際ヤマト先生から何か言われた気がしたが、全くと言っていい程聞こえていなかった。
 とにかく彼の傷を塞ぐこと、止血する事で頭がいっぱいで、技術室から然程離れていなかった保健室にすかさず駆け込んで声を掛ける。

「すみません! 今すぐ消毒液と包帯と針と糸をください! 縫合します!!」
「え?! 何々?! どうしたの?!」

 居合わせた保険医が慌てて椅子から立ち上がる。そして後ろからは「流石に縫合は必要ないと思うぞ」と突っ込まれたが、言い返している暇はない。

「とにかく傷口洗って! 先生! すぐに消毒液の用意をしてください! それから――」
「ちょちょちょ、ちょっと待って! 待ちなさい! まずは傷口を先生に診せて?! ね?!」

 駆け寄ってきた先生は我愛羅くんの傷口を見ると、小声で「うわぁ。また派手に切ったねぇ」と呟いて顔を顰める。そうして設置されていた手洗い場で傷口を洗い流すよう指示を出すと、ちゃかちゃかと慣れた様子で道具を集め出す。

「君も責任感が強いのは分かるけど、いきなり“縫合します”なんて言われたらビックリするよ」
「す、すみません……」
「それに思ったより傷は深くないから、そこまでする必要はないよ」

 苦笑いする先生の判断にほっとしたけど、改めて先走ってしまった自分が恥ずかしい。“昔の私”ならそんなことなかったんだろうな。もっと冷静に、あるいは自分の手で彼の傷口を塞いであげられたのだろう。そう思うと今の自分がとてつもなく不甲斐なく感じる。

「……ごめんなさい」
「え? あ、ああ、いや、責めてるわけじゃないよ!? 彼を心配してのことだってことは分かっているから、そんなに落ち込まなくていいさ」
「……はい……」

 ノコギリで軽く切っただけとはいえ、元々が包丁とは比にならないぐらい危ない凶器だ。鮫の歯のようにギザギザの切り口からは未だに血が溢れている。思わず血の気が引いてフラリとしたけれど、切った本人と保険医は驚くほど冷静だった。

「これ掠っただけでしょ?」
「はい。咄嗟に手を引いたんですが、間に合わず……」
「ああ、なら大丈夫だ。今は切ったばかりだから血が出てるけど、そのうち止まるよ」

 十分に傷口を洗い流したのだろう。そっと掲げた指の切り口は派手ではあったが、確かに深く切っているようではなかった。
 それが分かって安心すると同時に力が抜け、思わず近場の椅子に座り込んでしまう。

「よかった……」
「そりゃあ目の前でこんなに血を流されたら心配するよねぇ。よく頑張ったね。偉い偉い」

 穏やかな声音で慰めてくれる保険医は、恐らく教師陣の中でも年長者なのだろう。皺の寄った手で彼の傷口にタオルを当てると「血が止まるまでここにいなさい」と告げる。それに対し彼は素直に頷くと私に向き直り――何故か目を丸くして駆け寄り、俯く私の顔を覗き込むようにして片膝をつく。

「どうした、サクラ」
「……なにが?」
「ありゃりゃ。安心したら泣けてきちゃったのかな?」

 は? 今なんて?
 思わず顔を上げた私の前の間にいる彼の顔が、何故かぼやけてはっきりと見えない。だけど瞬いた瞬間それは解消され、代わりに頬を濡れた感覚が滑っていく。

「――あれ?」

 今まで泣いている実感はなかったのに、どうして。無意識に手元へと視線を落とせば、指先がかなり震えていることに今更ながらに気付く。そうして今の今まで泣いていることに気付けなかったのは、目元に手を当てていたため、全部Yシャツが涙を吸い取っていたのだ。
 濡れた袖口と震える指先。瞬く度にボロボロと涙が零れて止まらない。
 だけどどうして自分が泣いているのかも理解出来ずに困惑していると、すかさず立ちあがった彼が保険医に「ベッドを借ります」と告げて私を抱き上げる。

「おお?!」
「ひゃっ?! ちょ、ちょっと、我愛羅く――」

 設けられたベッドは今はどれも未使用だ。そのうち一番近くにあったベッドに彼は私を抱えたまま腰かけると、保険医の目から隠すようにカーテンを引いてしまう。それに対し保険医は「ありゃりゃ」と困ったような声を出したが、無理やりカーテンを開けることも近づいてくることもなかった。

「サクラ。何故泣く」
「わ、分かんない……」

 涙腺と同時に鼻も緩くなり、グズグズになった鼻を啜るとすかさず抱きしめられる。

「大丈夫だ。サクラ。この程度の傷で死んだりしない」
「分かってるわよ、そんなことっ」

 でも、それならどうしてこんなにも不安で、足元から何かが崩れ去るような恐怖を覚えたのだろうか。
 分からないまま彼の体にしがみつけば、背中と頭を同時に、優しくポンポンと叩かれる。そうして私にしか聞こえないような小さな声で、話し出した。

「……おそらく、お前は覚えていないのだろう。あるいは自ら記憶を封印したか。どちらにせよ、お前のトラウマになっているのだろうな」
「なんのはなし……?」

 また一粒、瞬いた瞬間落ちていく涙を袖で拭えば「昔の話だ」と私の頭を撫でながら語りだす。

「日頃から砂に守られていた俺は大した怪我もなく生きてきたが、一度だけ、自身の血で血塗れになったことがある」
「ッ?!」

 私が見た“夢”でそんなシーンはなかった。彼はいつも五体満足で私の傍にいた。こちらを見つめて、優しく綻んで、愛してくれた。だけど、そんな彼が怪我を――? 一体、いつ?

「あの時もお前が傍にいてくれたから事なきを得たが、もしお前がいなかったら……。どうなっていたのだろうな。テマリやカンクロウから随分と叱られたものだ」
「そんなの、覚えてない……」

 呟く私に、彼は「だろうな」と冷静に返す。詳しいことは教えてくれなかったけど、当時の私も彼が目覚めた時に泣いたらしい。

「『絶対に助けると思って処置をした。峠を越えたのもこの目で確認した。それでも怖くて仕方なかった』そう言って今みたいに泣きじゃくるお前を、当時の俺も抱きしめたものだ」

 だけど私の中では随分とトラウマになっていたらしい。おそらくその時の記憶を見ないよう無意識に深く封印しているのだろう。それが彼の見解だった。

「だが映像として見返さずとも覚えているものがあるのだろう。それが今回の件と共鳴し、お前を泣かせてしまったのだろうな。今も昔も不甲斐ない男ですまない」
「そんなこと……!」

 だって今回のは事故だった。咄嗟に手を引いたから縫合せずに済んだものの、場合によっては指を切り落としていたかもしれない。そう考えた瞬間背筋がゾッと寒くなり、無意識に強く彼の体にしがみつく。

「すまなかった。つい『お前なら何とかしてくれるだろう』と無意識に甘えた俺の責任だ」
「違う! 違うわ! 私、私も、昔の私ならって、昔みたいに出来たらって……ずっと、考えてた」

 でも出来なかった。出来なかったのだ。彼の手から零れ落ちる鮮血を目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。止める先生たちの声も聞かずに走りだし、勝手に突っ走って保険医に迷惑を掛けてしまった。
 彼が冷静でいてくれたから大騒ぎにならずに済んだけど、私がしたことといえば無駄に騒ぎ立てて場を乱したことぐらいだ。改めて己の情けなさに悔し涙が滲んでくる。
 だけど彼はそんな私に吐息だけで優しく笑うと、慰めるように目尻に唇を押し当ててくる。

「大丈夫だ。サクラ。泣かなくていい」
「でもっ、」
「そもそも、お前のようにすぐ『保健室に行かなければ』と思わなった時点で俺の方が間抜けだと思わないか?」

 お前に甘えてばかりで情けない。と苦く笑う彼に、緩く頭を振る。
 違う。違うのだ。私は、今更だけど彼に頼られて嬉しかった。今も昔も無茶ばかりする男達と一緒にいたせいか、一人で背負い込もうとする彼が昔から見ていられなくて、そんな彼の支えになりたくて仕方なかった。
 だから頼ってくれて嬉しかったのだ。でも、それに応えられる実力が今の“私”にはなかった。

「ごめんね。私、役立たずで」
「そんなことはない。お前がいてくれなかったら今頃やせ我慢も出来ず、一人で泣いていたかもしれない」
「……フフッ、何それ。あなた、泣くほど痛いの?」
「ああ。お前が代わりに泣いてくれたから平気だがな」

 ちゅっ、ちゅっ。と涙を拭う様に優しく瞼や目尻、頬に口付けられ思わず笑ってしまう。

「やだ、もう、くすぐったいよ」
「……涙は止まったか?」
「……うん」

 まだ視界はぼんやりと滲んではいるけれど、瞬けば粒となって落ちる程ではない。だから安心させるように笑みを浮かべれば、彼も優しく表情を綻ばせた。

「お前が笑ってくれると安心する。だから、これ以上は泣かないでくれ」
「うん。案外心配性だものね。あなたって」

 今度はしがみつくのではなく、抱きしめるように成長途中の背中に腕を回して体を寄せあう。

「ごめんなさい、あなた。ありがとう」
「こちらこそ」

 優しくも力強く腰を抱かれ、私もギュッと彼の頭を胸に抱き寄せて目を閉じる。
 私は覚えていないし、思い出せないけど、きっと彼にまつわる沢山の記憶をまだ封印したままなのだろう。だけど彼はそれらを思い出していた。知っていた。だから今回みたいにすれ違ってしまった。
 だけどもう二度とすれ違いたくない。彼を困らせたくない。確かに“昔の私”と“今の私”は別人だけど、それでも、彼を想う気持ちに違いはないのだ。

「あー……ゴホン! 君たち、そろそろいいかな?」
「へ?」

 聞こえてきた声に顔を上げれば、シャッと音を立ててカーテンが開かれる。だけど私たちを見下ろしたヤマト先生は、何故か再びカーテンを閉めてしまった。

「不純異性交遊はいけませんよ!!」
「な、なに言って――」

 更に突然投げ入れられた爆弾のような言葉に突っ込みかけ――今の自分たちの状態をふと見下ろしてから悟る。

 ああ……。これは確かに勘違いするわ……。

「ゴホン! えー、そろそろいいかい?」
「はい……」

 いそいそと若干乱れていた制服を正し、彼の隣に座りなおせば再度カーテンが開かれる。そしてどこか気まずそうな、苦い顔でこちらを見下ろすヤマト先生を見上げた。

「えー、まずは我愛羅くん。大きな怪我ではなくて安心しました」
「はい。お騒がせしてすみませんでした」
「あ、ああ、うん。それから春野さん。君もボクの代わりに彼を保健室に連れて来てくれてありがとう」
「いえ……。あの、勝手に教室を出て行ってすみませんでした」

 二人揃って頭を下げれば、保険医からは「学生というよりも社会人みたいだねぇ」と笑われ、ヤマト先生からはため息を零される。

「とにかく、我愛羅くんはこの後実技には参加しなくていいから。それよりも血は止まったかい?」
「ああ、はい。そうみたいです」
「よしよし。では絆創膏を貼ろうかね」

 保険医が改めて近付き、彼の患部に絆創膏を貼る。タオルには血が滲んでいたが、すぐに洗えば落ちるだろう。それぐらい些細な出血だった。
 そう考えると改めて泣き出したことが恥ずかしい。
 思わず俯けば、ヤマト先生から名前を呼ばれる。

「あー、その、だな。こんなこと確認したくはないんだが……君たち、本当に変なことしてないよね?」
「してません!!」

 そりゃあちょっと親密すぎる触れ合いはあったけど、それ以上はないから!!!
 全力で否定すれば、保険医は「いやぁ。天然のジゴロだねぇ。君」と我愛羅くんの肩を叩いていた。そうそう。そうなんです。この人昔からそうで――って違う!!

「わ、私! 教室に戻ります!」

 勢いよく立ち上がって宣言するが、処置を終えた彼も保健室に用はない。そのため「じゃあ俺も」と立ち上がり、ヤマト先生と共に戻ることになった。

「えっと、それでは失礼しました」
「失礼します」
「いえいえ。またいつでもいらっしゃいね」

 ヒラヒラと手を振る保険医に揃って頭を下げ、技術室に戻れば怪我をした我愛羅くんは当然心配された。が、何故か私にまで注目が集まったのは謎だ。

「いやー、あの時のアンタ格好よかったよ。先生無視してダッシュで出て行った瞬間なんてサイコーだったわ」
「格好良かったですよ、春野さん!」
「あ、あはは。どうも……」

 もはや苦笑いしか出ないけど、どうやらこのおかげでクラスはある意味打ち解けられたみたいだ。落ちた血痕やら何やらは周囲の人たちが綺麗にしてくれたらしく、彼は律義にお礼を言っては「いいから安静にしてろ」と心配されていた。
 それが何だか微笑ましくて――同時に彼が一人のクラスメイトとして心配されているのが嬉しくて、思わず彼と目が合った瞬間に微笑みあってしまった。

 が、この姿を見ていた人たちに『一Aの公認夫婦』と呼ばれるようになったのは非常に解せなかった。




そりゃ対面座位みたいな格好してりゃ不純異性交遊だと疑われるよ。っていう話。