- ナノ -

恋人というよりただの夫婦です



 カラオケ。カラオケって、カラオケよね? 防音された個室にモニターが一台。マイクを持って歌って、人によっては踊るアレ。採点機能に加え、機種によって音質やPVが異なり、アニソンやマイナー曲、ボーカロイドまで幅広く楽曲を揃えたアレ。一人でも皆でも楽しめる定番の遊び、よね? え? マジで?

「そんなに驚くことか?」

 あまりの衝撃に固まる私に彼は苦い顔をする。いや、だって。

「あなた歌うの苦手じゃない」
「それはそうなんだが……」

 “昔”からそうだったけど、彼歌ったり踊ったりするのがすっごく苦手なのよね。身体能力は悪くないのに、どうもリズム感がないというか音感がないというか……。音痴っていうより読経? だから人前で歌うことは勿論、口ずさむことだってしなかったのに。それがカラオケ?

「一体どういう風の吹き回し?」
「そこまで言うか?」
「だってそうじゃない。あなたが歌ってる姿なんて殆ど記憶にないわよ?」

 ナルトとかいのとか、それこそテマリさんやカンクロウさんは酔った時とか結構な頻度で歌ってた記憶はあるんだけど、彼お酒に強かったし。マイクを向けられても頑として受け取らなかったんだから不審に思っても仕方なくない?

「まあ、俺が歌うわけではないんだが」
「は? 何言ってんの?」

 カラオケに行って歌わないってどういうことよ。確かに最近ではギターを繋いで練習する人もいるって聞いたことはあるけど、彼は楽器なんてやっていない。
 じゃあ何しに行くの? って話じゃない?
 詳細を求める気持ちで見つめれば、どこか言いにくそうに視線を逸らしてから周囲を見渡す。そうして辺りに人がいないことを確認すると、少し恥ずかしそうに目を伏せながら理由を話し出した。

「その、もうすぐ梅雨に入るだろう」
「え? ええ。そうね」
「梅雨と言えば雨だ。だが雨の日は……あまり、眠れなくてな」

 あ。そういえばそうだった。それこそこの間倒れたばかりじゃない。
 ハッとする私に、彼も苦い顔をする。

「お前が覚えているかどうかは分からないが、“昔”、俺が眠れなかった時、魘された時、歌を、歌ってくれただろう?」

 ああ……。そういえば……。
 ハッキリと何を歌ったかまでは覚えていないけど、確かに彼を抱きしめながら歌っていた記憶はある。子供たちが眠れない時もそうだった。皆が穏やかに眠れますように。って、心を込めて歌っていた覚えがある。

「今はまだ共にいることが出来ないから、諦めるしかないと思っていたんだが……」

 だけど先日、クラスの男子が動画を撮っている姿を見て閃いたそうだ。

「傍にいられないなら“歌声を録音すればいつでも声が聴ける”と思ってな。ダメ、だろうか?」

 まさか。まさかである。
 いや、確かに、確かに“昔”は歌ってたけども! でも“今”の私と“昔”の私とでは歌唱力に差が……! いや、別に今が下手とか昔が上手いとかは分からないというか覚えてないんだけど、でもやっぱり……!

「いや。お前の歌声は今でも綺麗だ。この間の音楽の授業で確信した」

 うっそ?! この間?! 音楽の授業で何かあったっけ? ここ一週間の授業の記憶を必死に掘り起こし――。「あ」と声を上げる。
 そうだ。確かにこの前音楽の授業で合唱をするために男子と女子で声種を分けた。バス・テノール・アルト・ソプラノ。その時に二回ほど歌ったけど、まさか私の声聞き分けたっていうの?! この人! マジで?!

「サクラの声ぐらいすぐ分かる。一番綺麗だから」
「んんッ!」

 ほら! またすぐこういうこと言う!
 思わず唇を噛んでしまうが、彼は相変わらず無自覚らしい。「どうした?」と首を傾けている。「どうした」じゃないわよ、「どうした」じゃ! 往来でキスするより恥ずかしいわ!

「で、でも、昔歌った曲なんて覚えてないし、」
「同じ曲じゃなくていい。サクラが知っている曲で、歌いたいものでいいんだ。お前が傍にいられることを感じられるなら、どんな曲でも構わない」

 この天然ジゴロめっ!!
 キュゥウン! と痛いぐらいに胸が締め付けられ、思わず呼吸を止めてしまう。

 あー……。でも、悔しいけどめちゃくちゃ嬉しい。だって料理も彼の方が上手だし、整理整頓も掃除も彼の方が効率いいし綺麗にしてくれるから、心のどこかで「負けてるわ……」とか思ってるところがあった。
 別に競っているわけではないし、彼も自慢しているわけじゃない。むしろ「自分が出来ることはする。それが当たり前」と思っている節があるから威張ってもこないし、私が出来なくても怒ったりしない。「出来る方がすればいい」とフォローまでしてくれる優しい人だ。
 でも、そんな人が“私の声”を求めているなんて思わなかったから、嬉しいのと恥ずかしいのとで頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。

「う、上手く歌えないかも……」
「それでもいい。サクラの声を聞けるなら」
「我愛羅くんが知ってる曲がないかも……」
「元より音楽には疎いんだ。だがお前が許してくれるなら、お前が普段どんな曲を聞き、どんなものを好いているのか知るいい機会になる。俺は“今”のお前のことも、沢山知りたい」

 うぐぐっ……! 胸がキュンキュンして苦しい……! しかもいつの間にか彼の手が頬に触れていて、俯くことは許しても離れることは許してくれない。
 いつもはあたたかく感じる彼の手の平をぬるく感じるなんて……。それだけ頬が熱くなっているということだ。恥ずかしい。

「へ、下手でも、“昔”と違っても、笑わない?」
「そんなことしない。するはずがない。神に誓ってもいい」
「んぐぐ……!」

 こんなことで『神に誓う』なんて言う男はおそらく世界でもこの人ぐらいだろう。
 ああもう! これ以上は無理! 絶対引き下がる気がないんだもの、この人。

「分かったわよ! 音外しても笑わないでよね?!」
「勿論だ。むしろいつでもお前の声が聴けるようになるのだから、これ以上の喜びはない」

 もうやだこの人!! 往来なのにめっちゃくちゃ口説いてくる!!!
 自分でもどうにも出来ないぐらいグングンと体温が上昇していくのを感じていると、ふと彼が吐息だけで笑う。

「……これで少しは口説けただろうか」

 確信犯かッ!!!!!
 心底“ツッコム”というよりも“どついてやろうか”という気持ちに駆られたけど、彼が零した『口説く』という言葉にふと引っかかる。珍しいわね。この人が明確に『口説く』なんて言うの。
 そんな疑問が顔に出ていたのだろう。恥ずかしさと探求心とで自然と上目遣いになる私に、彼はキスが出来そうなほど近付けていた顔を離しながら説明してくる。

「以前、お前が言っただろう。“口説いてみろ”と」
「――。え?! あ、嘘! アレまだ覚えてたの?!」
「ああ。流石に人前では恥ずかしかったから断ったが、今は誰もいないからな。俺とて望まれれば努力はする」

 確かにこの前『何で“センセイ”って呼ばれてるの?』って聞いたら『女性を口説く文句が上手いかららしい』って答えが返ってきて、つい悪戯心が湧いてきて『口説いてみてよ』とは言ったけど……! まさか今してくるとは思わないじゃない! 誠実なのは嬉しいけど不意打ち過ぎてビックリしてしまった。
 唖然とする私の頬から手を離し、軽く咳払いする彼の頬もよく見れば赤く染まっている。
 ふぅーん……。慣れた振りして結構頑張ってくれたんだ。そっかー……。

 ――うん。これ、めっちゃくちゃ恥ずかしいわ!!!

「はあ……。あなたが“センセイ”って呼ばれてる理由がよく分かったわ……」
「そうか……。あまり、嬉しくはないんだが……」
「いや。うん。これは“センセイ”だわ。間違いなく」

 同年代の中では抜きんでている。確実に。だってクラスの男子どころかお父さん世代でも言えないわよ、こんなこと。
 まあ、それで有頂天になりそうなほど舞い上がってる私も私なんだけどさ。

「…………行こっか」
「ん」

 流石に手を繋ぐのは恥ずかしいというか、ちょっと……体温が上がり過ぎて手汗とか緊張とかでもう色々とキャパオーバーになりかけてるから、ギュッと腕を組めば彼が視線を逸らす。
 だけど逸らした横顔から見える耳も首筋もいつもより染まっていたから、やっぱり胸がキュンキュンして暫くまともに息も出来そうになかった。


 ◇ ◇ ◇


 その後どうにか平常心を取り戻し、足を運んだのは私といのがよく行くカラオケ店だ。でも私一人歌うのにフリータイムは長すぎる。でも三十分じゃ流石に味気ないので、とりあえず一時間で部屋を取った。
 彼はあまり来たことがないのだろう。狭苦しい部屋をキョロキョロと見回している。

「我愛羅くん、カラオケは初めて?」
「いや。中学の時に打ち上げで来たことがある。あの時は大人数だったから部屋もかなり広かったが……」

 ああ。そっか。中学生の打ち上げといえば大体食べ放題かカラオケかボーリングよね。お金掛からないから。そういえば自分もそうだったなぁ〜。なんて思い出しつつ、部屋に来る前に淹れてきたドリンクをテーブルに置く。

「その時は歌ったの?」
「いや。全力で回避した」
「やっぱり歌わなかったんだ」

 口八丁で丸め込んだのか物理的に逃げたのか。どちらにせよ何が何でも歌うことを避けた彼はソファーに腰かけると、モニターに映るCMに目を向ける。
 それはカラオケに関するものが殆どだけど、楽曲のリリース情報やライブ情報もある。目まぐるしく動く映像に、内臓を揺らすほどの大音量。おそらく前に入っていた人が音量を下げて行かなかったのだろう。彼の眉間に皺が寄る。

「少しうるさいな」
「そうね。流石にちょっと大きすぎるわ」

 お年寄りだったのかもしれないし、単にカラオケでは音量を大きくする人だったのかもしれない。でも退室する時に少し下げておくべきだと思うんだけど。
 モニターの下に設置されていたアンプのダイヤルを弄り、音量を下げる。

「このぐらい?」
「ああ」
「じゃああとはマイクの音量ね」

 カバーの掛かったマイクを一本取り出し、スイッチを入れてから「あー」と声を出す。やっぱりこっちも音量が大きい。これも下げて調整すれば準備完了だ。

「でも何から歌おうかしら」
「何でもいいぞ。好きなように歌ってくれ」

 彼は私の歌声を撮る気満々だからか、やけに上機嫌だ。それこそ周囲に花でも咲いていそうなほどに。そんな彼の荷物の中から出て来た物体に、思わず頬が引きつった。

「ちょっと待って。その黒い物体は何?」
「何って……。ICレコーダーだが」
「ICレコーダー?! 何でそんなもの用意してるの?!」

 あまりの用意周到さに軽く引いてしまうが、彼は「いつか頼もうと思っていたからな」としれっと言い返してくる。つまりいつかはこうなっていた、ってことね……。
 確かに『眠れない』っていうのは辛いでしょうけど、でも本当に私の声を聞くだけで改善されるのかしら? “夢”の中ではどうだったか思い出しながらもリモコンを手繰り寄せ、タッチペンを手に取る。

「ではよろしく頼む」
「はーい。畏まりました」

 でも彼は本気みたいだし、私も彼の不眠症が酷くなるのは望まない。ここは腹を括って歌いますか! なんて意気込んだはいいけど、眠れない時に聞くんだからあんまりハイテンションな曲はダメよね?

「んー……じゃあバラード系かぁ」

 別にバラード系嫌いじゃないんだけど、パッと頭に浮かぶ曲は多くない。ぶつくさ呟く私に気付いたのだろう。彼は「何でもいいぞ」と補足してくる。

「アップテンポな曲でも、アニメの曲でも俺は気にしない。サクラが楽しんで歌ってくれたのであればそれでいい」
「そ、そう?」
「ああ。いつも通りのお前でいい」

 心からそう思っているのだろう。こちらを見つめる瞳に嘘はない。うーん……。じゃあいつもいのやヒナタと来る時に歌う曲入れてもいいか。
 ピピッ、とリモコンが本体に情報を送信する音が響く。そうして他にも二曲目、三曲目と立て続けにお気に入りの曲を送信し、立ち上がった。

「それじゃあ歌います!」
「よろしく頼む」

 彼の指がICレコーダーの録音スイッチを押すのと、スピーカーから曲が流れて来るのは殆ど同時だった。

 ――その後延々とマイクを離すことなく歌い続けて一時間――。黙って聞き続けた彼はどこかご機嫌な様子でICレコーダーを鞄に仕舞った。

「ありがとう。サクラ」
「別にいいけど……。本当にそんなのでいいの?」

 彼から「好きなように歌ってくれ」と言われたから、バラードもポップスも統一性がなく、順番もバラバラだ。バラードの次にめっちゃくちゃ明るい曲が流れてきたらビックリしないだろうか。
 不安に思いつつもそれなりに歌ってスッキリした気持ちでいたら、珍しく彼も分かりやすく表情を和らげてこちらを見下ろす。

「むしろ最高の気分だな。お前と再会してから日々幸せだとは思っていたが、今日は殊更気分がいい」
「ええ? そんな大袈裟な」

 だって私が一人で延々と歌っているのを黙って聞いてただけなのよ? そりゃあ言い出しっぺは彼だけど、そんなにいいものかしら? 自分ではよく分からず首を傾けるが、彼は頷く。

「お前の歌声を一人占め出来るんだ。これほど贅沢なことはない」

 私は世界一の歌姫でも何でもないんですけど?!
 それなのに、まるで有名アーティストが自分のためだけにライブを開いてくれたかのように喜ぶ彼に顔が熱くなる。もう……。本当に彼ってば私の事が大好きなのね。

 ……自分で言っててアレだけど、恥ずかしくなってきたわ。

「と、とりあえず、出ましょうか」
「ああ」

 ほんの少しだけ残っていたドリンクも飲み干し、マイクを籠に入れて部屋を出る。携帯で時間を確認すればお昼を過ぎていた。通路を歩きつつ籠を持ってくれた彼に「どこかでお昼摂りましょうか」なんて話している時だった。
 廊下の先にあるエレベーターが開き、中から複数人の女性が出て来たのは。

「あれ? サクラ?」
「え?」

 そして聞こえてきた聞き覚えのありすぎる声に慌てて振り向けば、そこにはジャージ姿のいのとテマリさん、他複数名のバドミントン部の子たちが立っていた。

「あんた、今日休んだ理由ってデートのためだったの?!」
「ちがっ、そういうわけじゃないんだけど……」

 微妙に説明しづらいっていうか、あんまり言いたくないなぁ。と詰め寄るいのから視線を逸らしていると、隣も似たような状況に陥っていた。

「我愛羅、お前大丈夫だったんだろうね?! 粗相はしてないか?!」
「俺に対する信頼度が低すぎないか? お前」

 彼に駆け寄ったテマリさんは彼の両肩を掴んで揺さぶっている。その顔はいつもより青い。心配したんだろうなぁ。今世では前世よりも過保護だと聞くし、実際そういう姿は幾度となく目にしている。だからつい苦笑いが浮かぶのだが、彼は「信用されていない」と受け取ったのだろう。不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

「別に問題はない。……と、思う」
「おい。何だその微妙な返事は。サクラのご両親に何をしたんだ」

 ガクガクと再度肩を揺さぶるテマリさんの発言に、こちらに詰め寄っていたいのがすかさず反応する。

「え? サクラのご両親?」
「ああ。今日ご挨拶に行ってきたんだ」

 げっ。と思った私が止める暇もなく、あっけらかんと白状した彼に一瞬でその場が沈黙する。かと思えばすぐさまいのが「マジで?!」とマイクもないのにフロア中に響きそうなほどの大声を出した。

「え?! 挨拶って、付き合うためにわざわざ挨拶したの?!」
「ああ」
「だからテマリ先輩昨日から様子がおかしかったんだ!」
「う、うるさいね! 弟が恋人のご両親に挨拶に行くなんて、普通は緊張するだろうが!!」

 気持ちは分からなくはないんだけど、そんな大声で暴露しないで欲しい。現に私たちとクラスが違う同級生も、私たちのことを知らない先輩たちも、皆こっちを見てキャーキャーと騒いでいる。
 何だろう……。この見世物感。早くどこかに行きたい。

「で? どうなったのよ」
「さあ、白状しな。我愛羅。ちゃんと認めて貰ったんだろうね?」

 いのとテマリさんに詰め寄られ、私たちは一歩後退る。でもここは建物内だから逃げ場はない。階段もエレベーターもいのたちの後ろだ。完全に退路が断たれている中、彼は嫌そうに息を吐きだして眉間を揉んだ。

「とりあえず、お母君からの了承は得た」
「ん? じゃあお父さんの方はどうなんだ。拒否されたのか?」
「いえ。父はちょっと……。メンタルに問題があって返事が延期になったといいますか……」

 真っ白に燃え尽きた父が瞼の裏にちらつく。いのは私の父を知っているから合点がいったのだろう。「ああ……」と何とも言えない微妙な笑みを口元に浮かべる。

「サクラのお父さん、ショック受けすぎたんだ?」
「そうなのよ。だから返事も何もなくて……」
「ん? どういうことだい?」

 事情が分からないテマリさんが首を傾けたので、サクッと簡潔に父のメンタルの弱さを説明すればこちらも微妙な顔をする。

「あー……。ということは、だ。逆に言うと我愛羅が妙なことを口走った。ってことだろう?」
「俺のせいか?」
「お前以外の誰に原因があるんだ。時々無自覚で特大級の爆弾を投下する癖に、よく言うよ」

 顔を顰めるテマリさんに彼も同じように嫌そうな顔を向ける。が、事実なので否定のしようがない。というか、実際お父さんからしてみれば核爆弾並みの発言だったと思うしね。『結婚を前提に』なんて。
 でも実際問題『高校の間だけの関係です』とか『遊びで付き合ってます』とか答えられた方が腹立つと思うんだけど。腹立つ、っていうか両親としては大問題よね。私も自分の子供がそんな相手と付き合ってたらグーパンどころの話じゃないし。
 そう考えるとやっぱり彼の発言は誠実だと思うんだけどなぁ……。なんて考えている時だった。無自覚爆弾が投下されたのは。

「別に変なことは言っていない。キチンと『結婚を前提にお付き合いさせて頂いている』とご挨拶しただけだ」

 心底疑われているのが嫌なのだろう。ムッとした様子の彼の一言に再度その場が静まり返る。
 …………もうやだ。早く帰りたい。
 だけどそんな私の胃が痛くなるような気持は一ミリ単位も伝わっていない彼に、テマリさんは「おま、おまっ……!」と声を震わせ、いのたち他の女性陣は唖然としたように口を開けてこちらを凝視する。
 い、いたたまれない、この空気!!

「まだ高校生だろうが!!」
「年齢は関係ないだろう。逆に聞くが『高校生だからいつか別れるとは思いますが、今付き合いたいから付き合っています』と言われて納得する親がいるか?」
「そ、それは……!」

 戦慄くテマリさんにすげなく言い返す彼だけど、実際そういう問題なのよね。『一時の快楽、あるいは楽しさを優先して私を選びました』なんて言われたら流石の私でも切れる。彼が相手でも全力で殴る。
 だけど彼はそんなこと言う人でもなければ考える人でもない。彼はいつだって、誰が相手であっても真面目過ぎるくらい真面目に受け止め、考える人なのだ。

「テマリ。俺はサクラも、サクラのご両親も蔑みたくはない。彼女が今ここにいるのはご両親が愛情を持って育ててくれたおかげだ。そんな大事に育ててきた娘を見知らぬ男が傷物にしてご両親が喜ぶとでも?」
「誰もそこまで言ってないだろ?!」
「大して変わらん。高校生だからとか、子供だからとか、そんな理由で他人と付き合うほど俺は不真面目な男ではないぞ」

 あ。これ結構怒ってるわ。
 つい自分の気持ちばかり優先して「どうしよう」とか思ってたけど、よくよく見てみれば彼の怒りゲージがかなり上昇していることに気付く。これだと勢い余ってテマリさんを傷つける発言も出て来るかもしれない。それだけは避けさせないと。
 未だ何か言い募ろうとする彼の肩をすかさず叩き、意識をこちらに向けさせる。

「大丈夫よ。お父さんもお母さんも、我愛羅くんが真面目で誠実な人だってことは理解してくれたはずだから」
「だが、」
「大丈夫。例え反対されても私とお母さんが言い負かすし、いざとなったらあなたも来てくれるでしょ?」
「当然だ」
「じゃあ今はそれでいいの。だからあんまり怒らないで? ね?」

 グニグニと彼の眉間に深く刻まれた皺を伸ばすように人差し指を当てれば、彼は目を丸くした後肩の力を抜くようにして息を吐きだす。

「……すまん。少し、頭に血が上り過ぎていたようだ」
「大丈夫よ。取り返しがつかない発言はしてなかったもの」
「……お前には、助けられてばかりだな」
「あら。夫を支えるのは妻の役目よ? 知ってるでしょ?」

 普段は書類仕事ばかりしてたけど、いざと言う時は率先して指揮をとり、前線に赴いていた。確かに前衛っていうよりは後衛やサポーター向きな能力ではあったけど、いつだって彼は『守る』ために動き続けた。忘れたわけじゃない。
 でもそれは“昔”の彼。“今”の彼は“昔”の彼じゃない。クローンでも過去からやってきたわけでもないのだ。そんな彼の足りない部分を補える力が私にあるのなら、幾らでも力になる。それぐらいの気持ちは既に抱いているし、放っておくことなんて絶対にしない。
 だって私は彼を“守る”って決めたもの。

「初めからうまくいかなくてもいいのよ。何度だってチャレンジすれば。だってあなたには私がついてるんだから」

 逆に言えば、私にはあなたがいる。
 その気持ちが伝わったのだろう。彼は一瞬虚を突かれたような顔をしたけれど、すぐに口元に柔らかな笑みを曳いた。

「そうだったな」
「そうよ。忘れないでよね」
「すまん。うっかりしていた」

 反省したのだろう。先程とは違い、穏やかな空気に戻った彼に笑みを返す。
 そんな私たちの元に、盛大な溜息を吐く声が二人分聞こえてきた。

「あー、もう。行きましょう、テマリ先輩。馬に蹴られるのはごめんです」
「そうだな。我愛羅、今回は私が悪かった。遅くなる前に帰って来いよ」
「ああ。お前もな」

 ぽん。と彼の肩を叩いて行くテマリさんの背中を押しながら、いのが「じゃあね」と片手を振ってくる。それに手を振り返せば、他の部活メンバーたちも好奇心やら照れやら何やらでキラキラした目を向けて来たけど、大人しく去って行った。

「……明後日、噂になるかなぁ〜」
「今更だろう」
「だよねぇ〜」

 今まで散々噂されてきたけど、最近は落ち着いていた。周りからの視線にも慣れているし、噂程度で私たちの関係が揺らぐことはない。けど面倒ではあるのよね。
 まあいちいち反応してしまう私と違い、彼はあっさりとした態度でスルーするんだろうなぁ。今みたいに。

「ま、しょうがないか。それよりお腹減っちゃった。そろそろお昼食べに行きましょうよ」
「そうだな。今日は俺が驕ろう」
「ええ? 別にいいのに」
「いや。お前が止めてくれなければテマリに酷いことを言っていたかもしれない。詫びと礼だと思って受け取ってくれ」
「相変わらず律義ねぇ」

 でもそういうところも嫌いではないから、今回はありがたくご馳走になることにする。

「じゃあお店は我愛羅くんが決めていいわよ。私は激辛料理以外平気だから」
「そうか。そういえば以前クラスの奴らがどこかの店が美味かったと話していたな」

 いのたちが乗ってきたエレベーターに私たちも乗り込み、カラオケを出てから少し歩いてお店を探す。そうしてふと見つけた創作料理店に決め、様々な創意工夫がされたランチを平らげた。
 料理好きの彼はメニューを眺めている時から興味深そうだったけど、実際料理が運ばれた時も食べている時も「成程」と感心しきりだったから、そのうち自分で再現するかもしれない。その時はご馳走してね。と笑みを向ければ、彼も楽しそうに笑って頷いてくれた。

 当然この日の事は後々噂になるんだけど、元々有名だったせいかそこまで大きく話が膨らむことはなかった。むしろ彼は周りからより一層『尊敬の眼差し』を向けられることになり、私も『我愛羅くんの嫁(親公認)』と改めて認識されるだけだった。