- ナノ -

世界はそれを「愛」と呼ぶんだぜ



 ふ、と意識が浮上し瞼を開ければ、そこはいつも通りの、代り映えしない薄暗い部屋が広がっていた。

「…………今、何時だ……?」

 いつも携帯を置いている枕元を探るが、何故か見当たらない。渋々どこか怠い体を起こして電気をつければ、机の上に鞄が置かれていることに気付く。
 ……可笑しいな。いつもならそこには置かないのに。
 と、そこまで考えて気付く。

「…………記憶がない」

 今自分が立っている場所は間違いなく自分の部屋だ。“昔”ではない。“今”の自分の部屋だ。だがどうやってここまで帰って来たのか、全くと言っていいほど記憶にない。
 というか部活に行った記憶もない。いつもならサクラたちと待ち合わせて帰宅するのだが、その時の記憶が冗談抜きで一ミリたりともないのだ。いや、この場合は一秒たりとも、が正しいか?
 ともかく、今何時かを探るべく鞄を開けて携帯を取り出す。そして起動すれば時刻は二十二時を過ぎていた。

 ……二十二時?!

 ダダダダダッ、と音を立てて階段を駆け下り、リビングに顔を出せばソファーに座ってテレビを見る家族がいた。

「我愛羅! 起きたのか!」
「あら、よかった。いつ起きるのかと心配したわ」
「我愛羅、もう大丈夫なのか?」

 次々と声を掛けてくる家族にどうにか頷けば、CMから視線を逸らした父さんが「事情はテマリたちから聞いたぞ」と告げてくる。
 ……事情?

「何の話で――」

 心当たりがなく、何のことか聞こうと思った瞬間。俺の腹が音を立てて鳴る。
 …………そういえば腹が減ったな。

「あらあら。そうよね。お腹すいたわよね」
「ちょっと待ってな、我愛羅。今用意してやるから」
「つーわけで、お前はこっちに座るじゃん」
「あ、ああ……」

 何故か至れり尽くせりな家族に背を押され、食卓につけばテキパキとテマリと母さんが台所を動き回る。そんな中ソファーではなく対面に座ったカンクロウに、小声で「どういうことだ」と問いかける。

「え? お前覚えてねえの?」
「悪いが何も覚えていない」

 逆にどこまで覚えているのだろうか。と自身の記憶に問いかけたところ、掃除をしていたところまでは何となくだが思い出せた。
 だが掃除時間も雨音が酷くて――というか響くんだ。あそこ。特に窓が近いというわけでも天井が低いというわけでもないのに。もしくは俺が敏感になっていたのかもしれない。とにかく、雨音と頭痛に悩まされていたのは覚えている。
 だがそこまでだ。そこから先のことは全く記憶になかった。

「あー……じゃあ保健室でのやり取りは?」
「保健室?」

 保健室といえば、最近傷が塞がったノコギリの件以来行っていないはずだが……。首を傾ける俺にカンクロウは「おおーいッ!!」と盛大に突っ込んでくる。

「おまっ、お前マジかよ! 春野が可哀想じゃん!」
「待て。何故サクラが出てくる」
「いやお前のせいだから! お前のせいだからな?!」
「だから、俺が何をしたと言うんだ」

 怪訝な顔を向ければ、俺たちの声が聞こえていたのだろう。テマリからも「お前、このバカ! 愚弟! 恥知らず! スケコマシ!」と罵倒が飛んでくる。な、なんなんだ、一体……。

「はあ……。落ち着け、お前たち」
「でも親父……!」
「確かに我愛羅も正気じゃなかったとは思うけど、だからってこんな……!」
「おい待て。誰が正気を失っていたんだ? 俺か? 俺なのか?」
「だからそうだっつってんじゃん!」

 ワーワーと暫し騒いだあと、母さんから「とりあえず我愛羅はご飯食べなさいね」と言って本日の夕飯だったらしい、卵とじカツ丼を出された。ほかほかと湯気を立て、いい香りをさせる夕飯に再度腹が鳴る。
 だから有難く手を合わせて口に運べば、苦虫を噛み潰したような顔をするカンクロウの隣にテマリが座り、俺の隣に母さんが、そして上座に父さんが座した。

 …………なんだ? 家族会議か? いつの間にかテレビも消えているし、カツ丼まで出されるとドラマの事情聴取にも見えてくるな。俺が何をしたと言うんだ。

「まずは我愛羅。特に怪我がなくてよかったと素直に言っておこう」
「はあ……?」

 母さんが入れてくれたお茶を啜った後に曖昧に頷けば、何故か不機嫌そうなテマリとカンクロウから事のあらましを聞かされ――。

「あー…………」
「『あー……』じゃねえじゃん!」
「本ッ当にもう! お前って子は!」
「すまん。無意識だ」
「「我愛羅!」」

 保険室での暴走、改め奇怪な言動と行動は生憎と覚えていない。が、“過去”そんなことがあったことは覚えている。あの時もサクラに同じように宥めて貰った身からしてみれば、一ミリも成長していない自分に落ち込みたくなる。
 が、今はそんな話をしている場合ではないのだろう。

「生憎と私は噂の彼女に会うことは出来なかったが、後日改めてお礼がしたいから連れてくるように」
「そうねえ。今度一緒にご飯でも行きましょうか」

 ぽわぽわとお花でも飛んでいそうなほどゆったりとした空気を纏い、微笑む母さんに父さんも頷き返す。テマリとカンクロウも「恩は返さないとな」と頷いているが、恩を返すなら俺がするべきではないのか?

「いや、お前だけじゃダメだろ。私たちだってお前の家族なんだから」
「そうじゃん。家族が世話になったんだから、家族として礼を返さなきゃダメじゃん」
「そうか? 相手はサクラだぞ?」
「甘えてんじゃないよ! あーもう! 本当に相手がサクラじゃなかったらアンタ振られてたよ?!」
「そうか。ならば大丈夫だな。俺はサクラ以外好きになる予定はない」
「うっそだろコイツ! ここで惚気やがった!!」

 ガーっ! と頭を掻きむしる姉兄を見ながら黙々とカツ丼を食べ進めれば、姉兄と同じように額を押さえていた父さんから名前を呼ばれる。

「幾ら相手が優しいからと言って、甘えるばかりではダメだぞ」
「はい。心得ています」
「じゃあさっきの発言は何なんだい?」

 ドン。とテーブルに拳を叩きつけて身を乗り出してくるテマリに、何故そんなに怒っているのだろうか? と首を傾ける。

「サクラの性格を考えてみれば分かることだろう」
「はあ?」
「サクラは優しい女だ」

 勿論“春野サクラ”という女は『優しいだけ』の女ではない。自らの足で立ち上がり、前に進んでいく強さを持っている。そしてその根底にあるものは『愛情』だ。
 彼女の愛は『無償の愛』に近いが、それだけではないことを俺は知っている。無論、それは“昔のサクラ”のものではあるが、今もそう変わらないと思っている。

「今回サクラが行った行為も、発言も、全ては不甲斐ない俺が招いた故の出来事だ。だから、これは俺とサクラの問題であって、お前たちが介入出来ることではない」

 今日の出来事は生憎と記憶になかったが、それでも彼女が何と言って宥めてくれたかは分かる。きっと“あの時”と変わらない、彼女のあたたかく、大きな愛に包まれたことだろう。
 でなければ俺がこんなにも長々と、雨の日に“夢”も見ずに安心して眠れるわけがないのだから。

「だからサクラへの礼は俺がする。皆は何もしなくていい」
「我愛羅、お前……!」
「だが、」

 意気込むテマリに、改めて視線を向ける。かつて俺を“化物”と罵った幼い姉はもういない。ここにいるのは“俺”を心配し、時に叱り飛ばしてくれる“今の姉”だ。それが、寂しいような、面映ゆいような――何とも言えない気持ちになる。
 それでも誤解されないよう、自らの考えを言葉にして伝えるよう努める。

「俺がサクラを連れて来た時は、穿った見方をせず、斜に構えず、真摯な目で彼女を見て欲しい。彼女がどれほど愛情深く優れた人か、俺が言葉にせずともきっと伝わるはずだから」

 勿論贈り物をされて喜ばない人ではない。けれど、かつて会えなかった母に会えた時、サクラは心から喜んでくれた。『二回分の挨拶よ』と言ってくれた。計算された発言ではない。心からの言葉だった。
 だから、家族にも同じだけ真摯な気持ちで彼女と接して欲しかった。俺が世話になったからとかそんな理由ではなく。『春野サクラ』という一人の女性を、一人の人として見て欲しかった。
 それをキチンと家族の目を見て伝えれば、何故か姉兄は勢いよく机に突っ伏した。

「……お前本当に何なんだよ……」
「首を突っ込んだ私たちがバカだったのか……?」

 更に何故か小声で文句を言い始め、父さんは「誰に似たんだ……」と両手で顔を覆って項垂れていた。母さんだけが一人、俺の肩を抱いて「うんうん」と頷いている。
 ……また何かおかしなことを言っただろうか?

「そうと決まれば何を贈るか決めなきゃね、我愛羅」
「お菓子ではダメだろうか」
「あら。それは今朝も渡したんでしょう?」
「でも今度は時間があるから。流石に花束は渡せないし、アクセサリーも好みがあるから」
「そうねえ……。じゃあ少し変わったものにしてみない?」
「変わったもの?」
「そう。きっとサクラちゃんなら喜んでくれると思うの」

 まだ二回ほどしかサクラとは会っていない母だが、それでも彼女に対して好印象を抱いてくれているようだ。そんな母が「我愛羅なら出来るわ」と口にした贈り物の提案に、俺は頷いた。

 ――雨は、既に上がっていた。


 ◇ ◇ ◇


 昨日の雨が嘘のように晴れ渡った翌日。いつものようにいの達と通学路を辿る。
 そんな中思い浮かべるのは、昨夜送られてきた『今日は世話になった』という彼からのメッセージだった。それを受け取った時には随分と体調が回復していたようで、電話を掛けてみればすぐにコールは繋がった。

『もう大丈夫なの?』
『ああ。よく寝たからな。むしろ寝すぎたぐらいだ』

 大丈夫だろうとは思っていたけど、どこか自嘲するような、揶揄するような声音で話し出した彼に自然と頬を緩めた。

『だが、すまない。保健室での事は覚えていなくてな……』
『いいのよ。気にしないで』

 “今”と“昔”の記憶が混ざり合って意識が朦朧としていたのだから無理もない。それに、例え覚えていなくとも私が覚えている。彼が言ってくれたことも、私の『苦しまないで』という言葉に頷いてくれたことも。
 それに、愛情深い彼のことだからいつか改めて言ってくれそうだし。だからその時まで待てばいい。
 だけど一つ気になっていたことがある。それを尋ねていいものなのかどうか。考えあぐねていた。だけど私が質問するより早く、彼は話してくれた。

『実のところ、雨が苦手なんだ』
『雨が?』
『ああ。雨の日は……思い出したくない“夢”をよく見るから』

 やっぱり。“昔”の彼もそうだった。皆の前では何でもない顔をしていたけど、雨が降る日の夜は決まって眠りが浅かった。僅かな物音で目が覚めるなんて可愛いもので、時には保健室の時と同じように魘されたり、飛び起きたりしていた。
 今も変わらないのだろう。大切な人を自らの手で殺めた記憶を、数多の人を手に掛けた記憶を繰り返し見ているのだ。

『……あなたの傍にいられたらいいのに』

 夜、眠れない時。魘されて飛び起きた時。
 可哀想な程に息を荒げ、震える体を丸めて懺悔する彼の体をかつての“私”は抱きしめた。でもあの時のように傍にいられないから、今は彼が一人魘されていても抱きしめることが出来ない。
 それが悲しく、悔しい。
 彼だって、私が嫌な夢を見た時には抱きしめてくれた。私が眠るまで一緒に起きてくれた。時にはあたたかい飲み物を淹れて、他愛ない話をしながら夜明けまで過ごしたことだってある。

 でも今は出来ない。落ち込む私に、彼の柔らかく綻んだ声が届けられる。

『……俺も、お前が傍にいてくれたらいいのにと、よく思う』
『我愛羅くん……』

 私より嫌な夢を見る機会が多いのだろう。彼の目元を覆う隈を見ればよく分かる。それでも彼は小さく笑って『ありがとう』と呟いた。

『こうしてお前の声を聞くだけでも、気分が落ち着いてくる』
『そう?』
『ああ』

 彼の声が、言葉が、じわりと胸に沁み渡っていく。嬉しくて、どこかくすぐったくて――彼の傍にいられない悔しさも、悲しみも。変わらずそこにあるけれど、あたたかな気持ちが湧いてくる。

『――もし、』
『ん?』
『もし、また“思い出したくない夢”を見たら――』

 その時は、思い出して。あなたには私がいるんだってことを。もう一人じゃないんだってことを、思い出して欲しい。

『愛してるわ。あなた』
『――ああ。俺も愛している。ありがとう、サクラ』

 するりと口から零れ出た愛の言葉は、かつての“私”の気持ちも籠っている。当時も今と同じように告げたけれど、何度も口にしたけれど、それでも、また伝えたくなるから不思議だ。

『……サクラ』
『うん?』
『もし、また“夢”を見たら……その時は、逢いに来てくれ』

 それはきっと現実での話ではないのだろう。傍にいられないことを分かっているから、彼なりの励ましなのかもしれない。本当に優しい人。それでいて、私の心をくすぐるのが上手い人。
 だから私も笑って頷いた。

『いいわ。夢を渡って逢いに行ってあげる。だから、蹲らないで迎えに来てね』
『――ああ。約束しよう』

 そう約束しあってから切った電話は、どこか夢のようだった。
 迎えに来てくれたいのとヒナタが会話する後ろをぼんやりしながら歩いていると、いつもの待ち合わせ場所に三人が立っていた。

「おはよう。三人とも」
「おはようじゃん」
「おはようございます」

 皆で挨拶を返せば、彼がするりと近寄ってくる。

「おはよう。あなた」
「ああ、おはよう。昨日は色々とすまなかったな」
「だからもういいって。気にしいね」

 クスリと笑えば、彼も微苦笑を浮かべる。そんな私たちを置いて、四人はさっさと歩き出していた。というよりテマリさんたちが率先して促している。

「ほら、私たちは先に行くぞ」
「首突っ込んだ方が負けじゃん」
「それはそうなんですけど……」
「もう最近隠さなくなってきたわよね。まあ初めからだけど」

 いのの発言に「食い気味で聞いてきたのはどこの誰よ」と言い返したい気持ちはあったが、黙っておくことにする。
 そしてもう桜も全て散ってしまった、春の終わり。まだ少しだけ風が冷たい中を、前を歩く四人から少し距離を開けて二人で並んで歩く。

「昨日はちゃんと眠れた?」
「流石に寝すぎたからな。逆にあまり眠れなかった」
「あら。大丈夫?」
「ああ。それでも昨日よりはスッキリしている。程よく動いたからな」

 目覚めてから筋トレでもしたのだろうか。昔の彼はそういうことをしていた時もあったから。だけど彼は「話は変わるんだが」と言って別の話を口にする。

「今日、帰りに我が家に寄っては貰えないだろうか」
「え? 別にいいけど……。どうかしたの?」
「渡したいものがあるんだ」
「私に?」
「ああ」

 頷く彼に、私も「いいわよ」と返してから気付く。もしかして、昨日のお礼とか言うんじゃないでしょうね?

「昨日の件に関してなら気にしなくていいわよ?」
「ああ。大丈夫だ。家族が騒いでいたが、全力で止めた」

 義理堅いテマリさんやカンクロウさんが何か言ったんだろうけど、上手い事丸め込んだのだろう。今度はこちらが微苦笑を浮かべると、彼も笑みを浮かべた。

「父さんがお前に会いたがっていた」
「そうなの?」
「ああ。昨日はテマリたちに俺を任せて部活へ行ったんだろう?」
「ええ。もしかして残ってた方がよかった?」

 あの後同じクラスの部活生たちからは「我愛羅くん大丈夫だった?」と随分と心配されていたけど、私が「大丈夫よ。明日はいつも通り登校してくると思うわ」と言えばほっとした顔をしていた。
 何だかんだ言ってクラスの人たちに好かれているのよねぇ、この人。休憩時間も周囲の男子とよく話しているし、体育の時も必ず誰かが傍にいる。ただ時々「センセイ」って呼ばれてるのが気になるけど。アレ何なのかしら? 聞いてみようかな。

「ねえ、話は変わるんだけど」
「うん?」
「あなた時々“センセイ”って呼ばれてるわよね? アレ何?」

 遊び盛りの男の子だから変なあだ名をつけるのはよくあることなんだろうけど、それにしてもちょっと変わり種過ぎるというか何と言うか。
 教師を呼んでいるのか彼を呼んでいるのか区別がつかないじゃない。そう思うのだが、彼は私の質問に対し「ああ、それか」と呆れたような顔で視線を上げた。

「あいつら曰く、女性に対する扱いが十代らしからぬことをリスペクトして“センセイ”らしい」
「……何それ」
「俺もよく分からん」

 肩を竦める彼だけど、まぁ言いたいことは分からなくもない。確かに彼は十代らしからぬ言葉のセンスと行動の数々で変に目立っているけど、別に特別女性の扱いが上手いわけではないのだ。

「第一俺はサクラ以外にそんなことをした覚えはないんだがな」

 そう。あくまで彼がアレコレ尽くしてくれるのは主に私であって、意外とテマリさんとかに対しては雑というか、大雑把と言うか。家族だから、っていうのもあるとは思うんだけど、言うほど紳士ではない。
 普通に同級生を揶揄う時もあれば、人として当たり前の優しさを見せる時もある。でも素直になれない同年代の男子に比べ、自然とそういう気遣いが出来るだけでリスペクトの対象になるのだろう。

「あなたがしていることって割と普通の気遣いなのにね」
「ああ。誰だって気付けば手伝うだろう。両手が塞がっていたらドアを開けられない。だから開けてやる。車が来て危なければ教えてやる。どれも当然のことだ。何故一々反応されるのか、心底理解出来ない」

 彼の見せる優しさは特別なものじゃない。重たいものを持っている子がいれば手伝い、背の低い子が困っていれば代わりに物を取ってあげる。それだけだ。そこに特別な下心も贔屓もない。
 だけどそれを『普通に』やるのが難しいのだと、彼は気付かないのだろう。この年頃の男の子って女の子に話しかけるだけでも勇気がいるみたいだし。
 だから何気にモテる条件だったりするのよね。気遣いが出来る人って。
 でも誰にも彼をあげたくないから黙っておくことにする。

 だけど話はそれだけに留まらなかった。

「あとは『女の口説き方が上手い』とかなんとか言われたな」
「ちょっと待って。女を何ですって?」

 口説く? 今口説くって言った? 私以外の誰にそんなこと言ったのよ。
 若干疑いと恨みを込めて見上げれば、途端に「誤解するな」と苦い顔で言い返される。

「お前に言った言葉の数々が衝撃的だったらしい。それで言われただけだ」
「ああ……。そういうこと」

 ならばよし。許そう。
 頷く私に、彼も「やれやれ」と言わんばかりに肩を竦める。でも、そうねぇ……。確かに結構ロマンチストというか、情熱的なところがあるのよね。無自覚なことが多いけど。
 昨日の『夢で逢いに来てくれ』なんて言葉も『甘え上手だな』と思ったもの。“昔”出会った頃は全然そうじゃなかったのに、やっぱり歳を重ねた記憶がある分だけ恥ずかしさがないのかしら。

「ねえ。私のこと口説いてくれる?」
「は? 今、ここでか?」
「うん。あなたが何て言ってくれるのか気になるわ」

 猫のように目を丸くする彼に笑いかければ、途端に渋い表情が返ってくる。

「やめてくれ。流石に照れる」
「あら、意外。あなたでも照れることってあるのね」
「俺を何だと思ってるんだ……」

 ガックリと肩を落とす彼に笑っていれば学校に着いてしまう。先に昇降口を潜っていた四人に改めて手を振り教室へと入れば、途端に「大丈夫だったか?」と彼を心配する声があちこちから飛んでくる。
 それに対し律義に「ああ」とか「迷惑をかけたな」と返す彼は、やっぱりいい男だなぁ。と思う。

「旦那、元気そうでよかったな」
「ええ。本当に」
「否定しねえのかよ……」

 自分から言っておきながらげんなりとするチョコレート好きの彼女にとびっきりの笑顔を向ければ、途端に「やだこいつら……」と返されてしまった。残念。彼女とは仲良くなれると思ったのになぁ。なんて笑う私に、彼女は不貞腐れたようにジュースのストローを噛んだ。


 ◇ ◇ ◇


 その後彼は保険医にもお礼を言いに行き、彼にペンキをかけた上級生は改めて謝罪しに来た。どうやら彼が卒倒したのがよほどショックだったらしい。「絶対にもう掃除中には遊ばない」と頭を下げていた。
 あとは殴り込みに行ったテマリさんの迫力も相当なものだったらしく、彼に「お前の姉ちゃんマジですげえな……」とも言っていた。相当絞られたんだろうなぁ……。

 とはいえ倒れた翌日だ。彼は元気だったけど周囲が気を遣い、いつもより彼の周囲は静かだった。あと私といても揶揄う声は殆ど聞こえてこず、穏やかな時間を過ごすことが出来た。
 たまにはいいわね、こんな日も。でもあの騒がしさに慣れていたからそれがないのも少しだけ寂しい。何だかんだ言って楽しいのよ。彼が言い返す言葉を聞くの。選ぶ言葉にセンスがあるっていうか、記憶がある分だけ上手いから大喜利みたいで時々笑ってしまうのよね。

 そんな少しだけ控えめな一日を過ごした夕方。部活を終えて二人で帰路を辿る。いつもはテマリさんやいのもいるんだけど、今日は他の子と一緒に寄り道をしてから帰ると言っていた。
 まぁこれが初めてじゃないから別に気にならないんだけど。今日は彼の家に寄る予定があったし。あと一回いのや他のクラスの子たちと帰った時に根掘り葉掘り彼とのことを聞かれてうんざり、じゃなかった。疲れちゃったのよねぇ。だから彼とゆっくり歩いて帰るこの時間が好きだったりする。

「今日は寄って貰ってすまない。上がってくれ」
「別にここで待ってもいいけど」
「流石にそれは出来ん。母さんも会いたがっているしな」

 そう言われたら上がらないわけにもいかない。素直に「お邪魔します」と告げれば、途端にリビングからお母さまが顔を出してくる。

「いらっしゃい、サクラちゃん! 昨日はありがとうね」
「いえ。私は何もしてませんから」
「そんなことないわよ。さあ、上がって」

 あたたかな笑顔で迎え入れられ、彼の後に続いてリビングへとお邪魔する。そこには既にカンクロウさんが帰宅しており、私たちを見ると「おかえりー」と片手を上げた。

「サクラ。少し待っていてくれ」
「ええ。いいわよ」
「サクラちゃん、よかったら晩御飯一緒に食べない?」
「ええ?! 流石にそれは……!」

 両親にも報告しなきゃいけないし、そもそもこんな、部活終わりの汗臭い体で彼のご両親に会うとかないないない!! もっと綺麗な格好じゃないと挨拶なんて出来ないわ!
 そんな私を助けるかのように、キッチンで手を洗っていた彼が「いきなりすぎ」と苦い顔を向ける。

「こういうのはキチンと向こうのご両親に許可を取ってからじゃないと、サクラも困る」
「ああ、それもそうねぇ。じゃあサクラちゃん、今度一緒にご飯食べに行きましょうね」
「は、はい! 喜んで!」

 セーーーフッ!! 幾ら制汗剤で汗の匂いを誤魔化しているとはいえ、気になるものは気になる。
 だから改めて彼に「ありがとう!」と目で訴えれば、彼は「流石にな」と言わんばかりに肩を竦めた。そうして冷蔵庫へと近付き、白い箱を取り出してくる。

「お前に渡そうと思っていたのはコレだ」
「なあに? それ」

 彼らが普段食事を摂っているのだろう。食卓机に置かれた白い箱を見遣れば、彼が「開けて確認してくれ」と口にする。
 ちらりと彼以外も伺えば、お母さまはどこかワクワクとしたご様子で、カンクロウさんはテレビに視線を向けたままだった。一体何だろうか。分からないが大きさはそこまでではない。精々小さめのホールケーキが入るぐらいだ。
 それでもおずおずと蓋を開ければ、そこにはピンクを基調とした――バラやガーベラなどの可愛らしい花が敷き詰められていた。

「うわっ、可愛い……! もしかしてフラワーボックス?」

 花を使った贈り物として近年人気のタイプだ。普通の花束とはまた違った可愛らしさがあり、改めて花瓶に活ける必要もないから綺麗に保管・鑑賞が出来る。
 だからそれだと思ったのだが、彼はどこか誇らしげな顔で「少し違うな」と答える。

「正解は“フラワーケーキ”だ」
「へえ〜。ケーキなんだぁ。……ケーキ?!」

 え、嘘?! 全部本物に見えるんだけど! え? 待って? これ、このケーキに乗っているお花造花じゃないの? 食べられるの? 本当に?

「マジで?」
「ああ。よければご家族と一緒に食べてくれ」
「え? まさかなんだけど、これ手作りとか言わないよね?」

 こんな凄いもの手作りだったらどうしようかと思ったのに、お母さまがとてもいい笑顔で「一から十まで全部我愛羅の手作りよ!」とお答えくださった。
 う、嘘でしょーーーーー?!?!

「あなたパティシエにでもなるつもり?!」
「お前が喜んでくれるならそれもいいな」
「私を基準に自分の人生決めるんじゃないの!」
「どうせお前と一緒になるんだ。お前の希望を今のうちに聞いておくのも悪くはないだろう」

 ああもう! 本当こういうとこ! 本当こういうとこだから! 天然なのか分かってて言ってるのか判断付き辛いのが本当に腹立たしい。

「あのねえ、じゃあ私が『我愛羅くんのケーキが食べたいから将来パティシエになって』とか言ったらなるわけ?」
「別に構わんが。菓子も料理も作るのは嫌いではないからな」
「んんん〜〜〜……! あなた絶対来年から始まる進路相談で先生の胃を痛めるタイプだわ……」
「そうか?」

 首を傾ける彼に職について云々言う日が来るとは……。元里長として色々知ってるでしょうに、何をとぼけたことを言っているのかしら。心配と言うか不安になるわ。

「……でもパティシエって拘束時間が長いし、クリスマスとかの行事前は死ぬほど忙しいって聞くから『なし』ね」
「ああ……。考えてみればそうだな。クリスマスプレゼントも買いに行けないほど忙しいのは俺も御免だ」
「でしょう?」

 かつてもそうだった。子供達のクリスマスプレゼントを用意するのにどれだけ苦労したか。覚えているのだろう。苦い顔をする彼も頷く。

「では時折作る程度にしておくか」
「勿体ないけどね。あなた料理上手だもの」
「お前に食わせるんだから勿体なくはないだろう」
「皆に自慢したい欲が……」
「やめろ。また揶揄われるぞ」

 はあ。と息を吐く彼だけど、多分実際に私が周りに自慢しても止めはしないんだろうなぁ。苦い顔はするだろうけど。最終的には「好きにしろ」って言いそう。
 そんな私たちにお母さまはニコニコと笑って「仲良しねえ」と話しかけてくる。…………そうだった。ここ、彼の家だったわ。

「す、すみません……」
「いいのよ。我愛羅とうまくやってるみたいで私も嬉しいわ。それにね、私も我愛羅の作るお菓子を自慢したい気持ち、すっごくよく分かるわ!」
「ですよね! 彼本当にすごいですよね!」

 思わず意気込んでしまったが、お母さまは私の手を取って頷いてくれる。

「そうなのよ! この前もね、始めて『アイシングクッキー』に挑戦してみたんだけど、すっごく可愛く作ってくれて……!」
「本当ですか?! すっごく見たいです!」
「やめろ。母さんも盛り上がらないでくれ」

 苦い顔をして止めに来る彼だけど、お母さまは「テマリが受験生の時にはタルトケーキを作ってあげてたのよ。優しい子なの」と息子の自慢をしたくて堪らないらしい。
 だけど私も彼の料理スキルに関しては本当に、心の底から『すごい』と思っているので、お母さまのお話はとても楽しかった。

「母さん! サクラ! いい加減にしろ! あと時計を見ろ、時計を」
「あらやだ。もうこんな時間」
「あはは……。ごめんね、我愛羅くん」

 すっかり熱が入ってしまったが、改めて可愛らしいフラワーケーキを受け取ることにする。

「えへへ。ありがとう、あなた。嬉しいわ」
「…………まあ、昨日の礼だから、俺がお礼を言われる謂れはないんだがな」

 照れたのだろう。ちょっと視線を逸らしつつ拗ねたような顔で言い返してくるのが可愛らしい。本当ならここでキスの一つでもしてあげたかったが、流石にお母さまの前だ。自重して大人しく帰ることにする。

「それじゃあ、お邪魔しました」
「またね、サクラちゃん」
「また明日じゃん」
「はい。また明日」

 お母さまとカンクロウさんに見送られ、少し離れた我が家に向かって彼が送り届けてくれる。その時に改めて「今日は楽しかったわ」と告げれば何故か苦い顔をされた。

「俺からしてみれば恥ずかしい時間だったがな」
「あははっ。いいじゃない。たまには」
「よくない」

 未だ拗ねた顔をする彼だけど、私の代わりにケーキを運んでくれているのでこれ以上揶揄うのはやめておく。別に酷いことする人じゃないけど、昨日の今日だし。優しくしてあげないとね。

「今日は本当にありがとう。また明日ね」
「ああ。また明日」

 彼からケーキを受け取る時に、彼が油断しているのをいいことに少しだけ背伸びをしてキスをする。

「ッ!」
「じゃあね。おやすみ」

 驚く彼の手からケーキの箱を受け取り、笑みを向けてからドアノブを回す。そうして扉が閉まる前にもう一度手を振れば、彼は「やられた」と言わんばかりに片手で顔を覆いながら手を振ってくれた。
 フフッ。可愛い人。

 だけどそんな私たちを遠くから見ていた人がいるとは思わず、私は上機嫌のまま母さんに貰ったフラワーケーキを自慢するのだった。