長編U
- ナノ -

円 -11-



 サソリと向き合い、終わらぬ言い合いを続けていた羅砂の元に報告が来たのは夜になってからだった。

「クーデターは反乱軍の勝利に終わり、正規軍は敗退……。これにより風の国と火の国、及び砂隠と木の葉の戦争を終結す、か」

 羅砂は届けられた報告書を疲れた顔で受け取り、目を通す。そしてすぐさまそれを机上に置き、目元を覆った。

「……終わったのか……」
「ようやく、な」

 サソリも羅砂同様椅子に腰かけ、机上に放られた報告書へと目を通す。初めはスラスラと読み通したサソリではあったが、すぐさまとある一文に目を見開き、羅砂に向かって声を上げる。

「おい、旦那! 戦争が終わってよぉござんしたね、なんて言ってる場合じゃねえぞ!」
「誰もそんなことは言っていない。それに問題なんて山積みだ。まったく、何から片付けるべきか……」

 この数日、怒涛のように起こった様々な出来事に天を仰ぐ。我愛羅の反抗。言うことを聞かない部下に子供たち。襲撃された監獄に連れ出された捕虜と人質数名。
 山のように重なった事後処理の書類に眩暈がする。だがそんな羅砂にサソリはすかさず「しっかりしろ!」と喝を入れ、報告書を机に叩きつける。

「おら! この部分よく見てみろ!」
「一体どうしたと言うんだ……」

 溜まった疲れのせいか、投げやりな態度を見せる羅砂にサソリが「いいから見ろ」と書類のとある部分を指差す。それに対し胡乱げな視線を向けたが、羅砂は素直に目を通し――我が目を疑う。

「な、に? 我愛羅が……?」
「クソッ! カンクロウのバカは何やってたんだ! おい、俺ァもう行くぜ! あっちには薬が足りねえはずだ! 施設にあるのを持って行く!」
「おい、サソリ!」

 駆けだしたサソリを反射的に呼んだ羅砂ではあったが、すぐさま視線は報告書へと落とされる。

「我愛羅が負傷するとは……」

 そこには『我愛羅が賊に刺され、現在緊急治療中』と明記されていた。しかし幾ら信じられずとも、我愛羅とて無敵ではない。以前にも怪我を負ったことはある。
 だがわざわざ『緊急治療中』と明記されているのだ。しかも刺されたと言うことは、我愛羅を守る砂の盾が発動しなかったか、それを貫くほどの実力者によって害されたかのどちらかだ。
 場合によっては守鶴も出てくる。そうなれば今動ける忍を総動員しなければ守鶴の暴走は止められないだろう。

 羅砂は思わず組んだ腕に額を押し当てる。

 だがしかし、詳しい情報もなく里を空けることは出来ない。それに我愛羅の傍にはテマリとカンクロウもいるはずだ。今まで一度も口答えしたことのない子供たちが、初めて自分から訴えてきた。
『これ以上見て見ぬ振りは出来ない』『我愛羅を一人に出来ない』と。そう言って羅砂の元から飛び出したのだ。
 それを、砂隠の忍としては褒められないが――血の繋がった家族として、止めることは出来なかった。

「あの子たちが無事であればいいが……」

 誰もいなくなった執務室で切に願いながら、羅砂は人手が減った里を静かに見下ろした。


 ◇ ◇ ◇


 我愛羅が血の海に沈んだ瞬間、サクラは叫ぶようにして名を呼んだ。

「我愛羅くん!」

 だが我愛羅の体はピクリとも動かず、刀身に塗られた毒のことを考えれば狼狽えている場合ではない。
 サクラはぐっと唇を噛みしめると我愛羅の衣服を軽く裂き、患部を診察し始める。

(この毒は……よかった。一度解毒した物に似ているわ。でも、今彼を治療班の所に連れていくことは出来ない……!)

 刀に塗られていた毒は、即効性はないが動かせば一気に全身を巡る厄介な代物だった。しかも一度巡れば神経系にも支障をきたし、例え解毒出来ても後遺症が残る可能性がある。
 まったくもって嫌になる。動けば動くほど、もがけばもがくほど毒の周りが早くなるのだから、意識があるうちに罹ればひとたまりもないだろう。
 何せ自分の体が毒に蝕まれていくのが見て分かるのだ。――死の恐怖が明確に音を立てて追いかけてくる。これ以上に恐ろしいことはそうないだろう。

 だからこそこの場で治療せねばならない。
 性根の悪い毒にサクラは改めて意を決し、不安げに我愛羅を見下ろすテマリたちに声をかける。

「テマリさん、今此処で緊急処置をします。出来る限り患部に砂が入らないよう、何か衝立になるような物を探して持ってきてください」
「あ、ああ! 分かった!」
「カンクロウさんは水をお願いします。救護班の所に行けば貰えるはずです」
「了解!」

 サクラの指示に二人は駆け出し、我愛羅の体を巡る毒の進行を防ぐべく自身のチャクラを流し込んでいく。

(お願い、お願い、我愛羅くん……! こんなところで死なないで! 毒なんかに負けないで!)

 診察したところ、毒は既に片腕を侵食している。先程動かしたせいだろう。
 しかし侵食しているといってもまだ完全ではない。もし完全に細胞が毒に侵されれば指が使えなくなるが、現状我愛羅が気を失っているため毒の回りが遅くなっている。
 だが如何に進行速度を遅くしたところでこの国にどれほどの薬が残っているというのか。そして解毒するために必要な薬品を揃えることが出来るのか。冷や汗が背中を伝う中、サクラの前に大蛇丸も膝を折る。

「必要な薬、あなたなら分かるのね?」
「はい。ただ、どれだけ揃えることが出来るか……」

 救護班がサクラと、そして忌み嫌われている我愛羅を助けてくれるだろうか。戦争が終われば我愛羅を必要とする人間は減る。いっそのこと守鶴共々殺してしまえと声をあげる人も出てくるかもしれない。
 不安に思うサクラを尻目に、大蛇丸はカブトを呼ぶ。

「この子を手伝ってあげて」
「分かりました。サクラさん、必要な薬品を揃えます」
「ありがとうございます!」

 礼を述べるサクラに、大蛇丸は「いいのよ」と軽く手を振り立ち上がる。その目は先程まで暴れていた男へと向けられていた。

「私はアッチの問題を片付けてくるから。カブト。後は任せたわよ」
「はい。大蛇丸様」

 カブトが『大蛇丸』と呼んだことで初めて目の前の人物が誰なのか理解する。しかしハッとして顔を上げたサクラの目に入ったのは、既にその場を離れた大蛇丸の背中だけだった。

「ではサクラさん」
「あ、はい!」

 サクラは必要な薬品を全てカブトに伝える。カブトは懐に仕舞っていたメモ用紙にそれらを素早く書き留めると、戻ってきたテマリ達と入れ替わるようにして薬品集めに走る。

「サクラ、我愛羅は助かるんだろうね?」
「必ず助けます!」

 もうサクラは『我愛羅を殺して自分だけ助かろう』と言う気持ちは無かった。むしろ今は我愛羅を助けることしか考えていない。

 もし、もし本当にこの石が――ラピスラズリが我愛羅に幸福を与えるものならば。そのためにサクラに試練を与えているというのであれば、サクラはそれを乗り越えなければならなかった。

(負けられないのよ! あんな人が作った毒なんかに!)

 例え自分が助けられなかった少女の兄だとしても、その気持ちが理解出来たとしても。今のサクラにとって大切なのは――既に死した少女達ではない。今この場で生きている我愛羅なのだ。

(――ごめんね)

 少女には謝罪の気持ちしか浮かんでこない。だがどれほど悔やもうと、謝罪しようと、少女が生き返るわけではない。
 少女達を殺した罪を償うのは我愛羅かもしれない。だがそのすべてを我愛羅に押し付け、自分だけ身軽に生きようとは微塵も思わない。
 テマリも、カンクロウも、そしてサクラも。同じだけ背負わなければならないのだ。あの時散り逝く命を見送った自分達にしか、その罪は償えないのだから。

「絶対に助けるからね、我愛羅くん……!」

 死んで償うのは『償い』ではない。ただの『逃げだ』と今なら分かる。だから生きねばならない。これからの時代を、これからの未来を。

 瞼を閉ざす我愛羅から守鶴が出てくる様子はない。
 テマリたちは我愛羅の死と守鶴の出現に不安を抱きながらも、ただただ我愛羅の無事を祈るのみだった。


 ◇ ◇ ◇


 報告書を見て飛んできたサソリが現場に駆けつけた頃には、既にサクラは治療を終えていた。

「小娘!」
「サソリさん……」

 青い顔を向けてくるサクラに、一瞬「まさか」と肝が冷える。だが周囲に転がるテマリとカンクロウの寝顔を見て肩の力を抜いた。

「坊ちゃん、大丈夫なんだな?」
「はい。解毒は成功しました。あとは我愛羅くんが目覚めるのを待つだけです」

 サソリが駆け込んだのは、あの女医がいる診療所だった。だが現在女医の姿はなく、疲れ果てたサクラたちがいるだけである。
 至る所に戦争の爪痕が残るくたびれた診療所に十分な薬があったとは思えないが、ともかく今はサクラも睡眠を取るべきだと近くの椅子を引っ張ってくる。

「あとは俺が見てやる。お前はもう寝ろ」

 日頃からよくない顔色もすでに限界まで来ている。だからこそ少しでも休ませようとしたが、サクラは首を横に振ってそれを拒否した。

「今はまだ……このままにさせてください」
「……そーかよ」

 眠る我愛羅の手をギュッと握りしめ、開かぬ眼を見つめるサクラの視線は弱々しい。解毒が成功したとはいえ、危ない状態なのだろう。あるいは不安で眠っていられないのか。
 サクラの後ろで転がるテマリとカンクロウはすっかり寝こけているが、体中の汚れから察するに戦の疲れが出たのだろう。どれだけ優秀であろうと二人はまだ十代だ。無理もない。
 そう考えていたところで、扉が二度ノックされる。そうしてゆっくりと開いた。

「サクラさ――おや? 来てたんですか」
「おう。さっきな」

 現れたのはカブトであった。その手には小さな桶と布切れがある。まともな手拭いやタオルが見つからなかったのだろう。
 カブトはそれを台に置き、水に浸した布を絞ると我愛羅の額に乗せた。

「心配なのは分かりますが、あなたが倒れては元も子もありませんよ」
「はい……。分かっています」

 頷くサクラを一瞥し、カブトはサソリを視線で促す。どうやら話したいことがあるらしい。サソリは顎を引くことでそれに応え、サクラの肩に手を置き、声を掛ける。

「少し出てくる。ちゃんと坊ちゃん見てろよ」
「はい」

 頷くサクラの肩を二度叩き、サソリはカブトと共に一旦部屋を出る。
 恐らく一連の流れを説明するのだろう。本来ならば部下であるサクラが行わなければならない業務ではあるが、そんな余力はない。むしろ我愛羅の目が再び開くことを願うばかりで、それ以外のことは何一つ考えられなかった。

(我愛羅くん……)

 サクラには何故守鶴が出てこないのか、羅砂はどうしているのか、木の葉はどうなっているのか。
 それらを疑問に思う余裕はなかった。ただ目の前にいる我愛羅の事だけが気がかりで、生死を彷徨う姿に休んでなどいられなかった。

「我愛羅くん。私ね、」

 眠る我愛羅の顔色は悪い。まるで死人のようだ。そんな死人まがいの、けれど今はまだ生きている我愛羅の頬に手を当て、震える唇を開いて話し出す。

「あなたに生きて欲しいって、そう思ってるんだよ」

 初めはそんなこと微塵も思わなかった。ただ木の葉に帰りたかった。母や皆に会いたくて、目の前で死んでしまった少女達に謝りたくて、そればかり考えて過ごしていた。砂隠で『生きよう』とも、そこで暮らす人々のことを『知ろう』ともしなかった。
 だからチヨに叱られた時、サクラは初めて『自身の甘さ』『弱さ』を知った。そこに腕力や血統などは関係しない。唯一自分が“誇り”としていたはずの『医療行為』ですら中途半端になっていたのだと、言われて初めて気付いたのだ。
 ……指摘されるまで、気付くことすら出来なかった。それが、今ではすごく恥ずかしい。

 そうして自己嫌悪にも似た思いを抱く中、遂に我愛羅の孤独を知り、心に触れた。共に星を見上げ、涙を流した。
 我愛羅も人の心を持っている。他者を傷つけることに胸を痛める、孤独に苦しむ“普通”の子供だった。サクラと何も変わらない、むしろサクラにとっては『もう一人の自分』ですらあった。
 そんな我愛羅を、もう裏切ろうとは思わない。むしろ今では『生きて欲しい』と願っている。生きて、『もう一度名前を呼んで欲しい』と、そう願っている。

「我愛羅くん。お願い。目を覚まして……」

 握り締めた手はサクラの熱が移り、生温い。その手を己の額に押し当て、ただ我愛羅の目覚めを祈り続ける。

 ――しかし我愛羅はその晩目覚めることはなく、いつの間にか眠っていたサクラが目を覚ましても、その瞼が開くことはなかった。

「起きたかよ」

 目覚めたサクラのすぐ傍で聞こえてきた声に視線を向ければ、そこには椅子に座ったサソリが一枚の書類を眺めていた。

「……サソリさん……」
「坊ちゃんならまだ目覚めてねえよ。テマリたちもな」

 サクラの後ろでは未だにテマリとカンクロウが倒れている。ベッドも寝具も足りなかったため、そのまま床の上で寝たのだ。
 別室には木の葉丸たちもいるはずだが、声がしないということはまだ眠っているのだろう。以前『寝てると腹がすかなくていいんだぞ、コレ』と言われたことを思い出す。戦争が終わればお腹いっぱいご飯を食べられる日も来るだろう。それが待ち遠しい。

 この場にはいないが、女医も昨夜大名に飲ませる水を汲みに行く姿を見ただけで会っていない。サクラは目を擦りつつ起き上がり、ずっと握っていた我愛羅の手を見下ろす。

「我愛羅くん、起きないの? もう朝だよ」

 話しかけても当然のことながら返事はない。不安に思い耳を心臓の上に当てれば、そこは確かにトクトクと音を立てて生命を刻んでいた。

「……そんなに心配かよ」

 我愛羅の胸の上に顔を乗せたまま動かぬサクラに、見かねたサソリが呆れたように問いかける。
 彼からしてみれば『心臓が動いてんだから問題ねえ。今は寝かせとけ。そのうち起きる』という気持ちが強いのだろうが、サクラは「当然じゃない」と言わんばかりに頷いた。

「お前、坊ちゃんのことどう思ってんだ?」

 どういう意味で問いかけているのか。聞く人によっては黄色い悲鳴を上げたり、邪推する者も出て来るだろう。だがサソリの視線は手元の書類から動いておらず、サクラもまた、サソリを見てはいなかった。

「……大切な人」
「ふぅん? それだけか?」
「うん……」

 頷くサクラの耳に聞こえるのは心臓の音と、静かすぎる寝息だけだ。それらが今、我愛羅が生きていると実感できる全てである。その小さな音を、サクラは必死に拾い上げていた。

「はー……。ったく、世話のかかるガキ共だぜ」

 サソリの呟きは当然ながら聞こえていた。だがサクラはそれを無視し、我愛羅の手を握りなおす。

「我愛羅くん、起きて。ねえ、起きてよ……」

 祈りのような言葉は静かに消えて行く。
 だが眠る我愛羅の瞼は一向に開く気配がない。どうすれば目覚めるのだろうか。
 サクラはそっと我愛羅の胸に手を当て、チャクラを集中させる。

「我愛羅くん。起きて。一緒に帰ろう?」

 祈るように呟きながら、サクラはグッと意識を集中させた。


 ◇ ◇ ◇


(……あたたかい……)

 深い深い闇の中。目を覚ました我愛羅は、ぼうっとした眼差しで周囲を見回す。
 今までの深層意識とも違う。何もない、守鶴さえいない暗い闇の中。いっそ『深淵』とも呼べそうなほど光も見えないその場所に、ただ揺蕩っていた。
 いや。正確に言えば寝そべっているのか立っているのかすら分からない。右も左も、上も下もない暗闇に重力は感じられず、我愛羅はただ手を伸ばす。

(ここはどこだ? 守鶴は? 深層意識ではないのだろうか……? では、ここは一体……?)

 一筋の光も差さない闇の中。己の手の平さえまともに見ることは出来ない。いっそ肩から先を失っているのではないか、と疑ってしまうほどに、周囲は黒く染まっている。

(サクラは、皆は無事なのだろうか。また誰かに迷惑をかけていないといいのだが……)

 ようやく一歩を踏み出すことが出来た。姉兄との関係も、自分の生き方も、これからだと言うのに。もしや自分は死んだのだろうか。
 確かに己の死で戦争が終わればそれでいいとは言ったが、実際死ぬ気などなかった。しかしどう考えても今の状況は普通ではない。やはり自分は死んだのだろう。ここが死後の世界だというのなら、何ともいい趣味をしているものだ。孤独を厭う我愛羅をこんな暗闇に放置するなど。地獄の閻魔王の名は伊達ではないということだ。

 だが不思議と気持ちは凪いでいる。正直『情けない最期ではあったな』と背後から刺された自身について思う事がないわけではないが、もう戦争は終わったはずだ。
 直接この目で見ることは叶わないが、サクラ達を木の葉に帰すことも出来る。姉兄や守鶴とも和解することが出来た。我愛羅にしてみれば『これ以上にないほど満足のいく終わり方だった』とも言える。

 だがそれでも、心残りがないわけではない。
 脳裏に浮かんだ一人の人物に、我愛羅は切ない気持ちになる。

(出来ることなら父様に、母様や夜叉丸のことを聞いておきたかったな……。せめて墓前で話してくれたらいいのだが……。いや、そもそも墓を用意してもらえるのか? それすらも微妙だな。うぅむ……)

 姉兄とは和解出来たが、父親と話をしたのは牢に入る前のアレが最後となってしまった。ようやく父親と向き合う覚悟が出来たというのに、結局理解出来ぬまま死んでしまうとは。やはり情けない話である。

(母様。夜叉丸。俺も、二人と同じ場所に逝けるだろうか)

 沢山の人を殺めてきた。沢山の人を傷つけてきた。そんな自分が果たして二人と同じ場所に逝けるのか。
 悩む我愛羅は数度瞬くが、結局『目を開けても閉じても同じか』と暗闇を見つめ、ため息を零す。そうして瞼を下した瞬間、己の胸の奥があたたかな何かで溢れている気がして無意識に目を開けた。

(何だろう、コレは。……あたたかい)

 我愛羅の胸の内から湧き上がる不思議なあたたかさ。思わずそこに手を当て、じっと感じ入る。
 何だか無性に泣きたくなるような、抱きしめたくなるような――。不思議な気持ちだ。
 そんな我愛羅の耳に、突如聞き慣れぬ声がかかってくる。

『――もういいの?』

 初めて聞いた声だった。しかし我愛羅は咄嗟にそれが“母の声”だと、何故かそう、思った。

「…………もう」

 いいのだろうか。本当に?

『――もう、いいの?』

 再度問われ、我愛羅は己の心臓の上をギュッと抑える。そこからはずっと何かを訴えかけてくるようなぬくもりが感じられる。
 だからこそ我愛羅は考える。本当にこのまま『死んでもいい』のか、と。

『我愛羅くんの手は、優しい手だよ』
『兄ちゃんのことはちょっとだけ信じてやってもいいぞ、コレ』
『しょうがねえから認めてやるよ。てめェの勝ちだ。我愛羅』
『私たちこそ、今までごめんな』
『俺たちも、悪かったじゃん』

 脳裏に蘇ったのはサクラを始めとした『我愛羅を認めてくれた者たち』の声だ。木の葉丸に守鶴。テマリとカンクロウ。他にも大蛇丸や自来也、サソリやミナトの顔も次々と浮かんでくる。

(ああ……。未練がましいな。だが、そうだ。願わくば、俺はまだ“生きていたい”。生きていたいんだ。この世界で、皆と、一緒に)

 サクラと木の葉丸を木の葉に帰す。そして傾きつつあった里を復興し、家族で共に生きたい。“兵器”としてではなく、忍として、一人の人間として、我愛羅は生きたいのだ。
 そして何より――。

『大丈夫、大丈夫だよ。私はここにいるよ。ずっとここに、一緒にいるよ』 

 ――我愛羅くん。

「サクラ」

 何もない世界のはずなのに、視界の端で薄紅が風に揺られるようにして靡く。砂漠では決して咲かぬ花の名を持つ少女。いつも悲し気に揺れて、いつ散っても可笑しくないほど憔悴していた。
 それでも彼女は生きた。生きていた。悲しくても、辛くても。我愛羅に怯えながらも、その両足で大地を踏みしめ、傷ついた者のために誇りさえ捨てて見せた。

 花のように儚く、星のように眩い。
 伸ばした手はずっと届かないと思っていた。だが彼女は、自ら近付いてくれた。血に塗れたこの手を取って、自分から触れてくれた。抱きしめてくれた。

 いつしか彼女は、我愛羅の中で最も大切な人になった。

「……ごめんなさい。母様。夜叉丸。俺は、まだ、そっちには逝けない」

 我愛羅は、出来ることならまだ『見ていたい』のだ。いつしか大輪の花を咲かせるであろう彼女を、例え今までのように共に過ごせなくなったとしても、見ていたいのだ。
 彼女の故郷で、砂隠から遠いあの場所で。彼女が心から笑えるようになるのであれば、これ以上喜ばしいことはない。

 サクラには笑っていて欲しい。もう星屑のような涙を流さないで欲しい。
 情けなくて伸ばせなかったこの指では、きっと彼女の涙を拭ってやることは出来ないから――。だから、彼女が最も安心出来る場所で、最も信頼できる人たちに囲まれながら、これからは生きて欲しい。

『そう。それが、我愛羅の答えなのね』
(――うん)

 頭に響く優しい声は、まるで微笑みながら語りかけているように聞こえる。そんな柔らかな声に背を押されるように、我愛羅は“母”を呼んでいた。

「母様」

 いつも写真の中でしか会えなかった人。いつも家族の会話の中でしか人となりを知ることが出来なかった人。自分たち姉弟にとって、たった一人の、母親。
 万感の思いで母を呼んだ我愛羅の前に現れたのは――写真の中でしか見たことがない、笑顔を浮かべた“母”その人だった。

『行ってらっしゃい』

 そう言って伸ばされた手が、トン。と我愛羅の胸を押す。途端に周囲の景色が蠢きだし、暗闇が崩れていく。

「ッ! 待って! 母様! 俺は、俺は――!」

 状況についていけず、必死に手を伸ばす我愛羅に向けて加瑠羅はただ微笑む。だがその姿が肉眼で見えなくなる瞬間――。暗闇を形成していた最後の一片が消え去るその瞬間、加瑠羅は弧を描いていた唇を開いた。


『――愛しているわ。我愛羅』


 それは我愛羅がずっと聞きたくて仕方なかった――最初で最後の、母からの愛の言葉だった。


 ◇ ◇ ◇


 我愛羅の胸に手を当て、チャクラを流していたサクラの頭が突如跳ね上がる。
 一体何事かとクーデターの内容を纏めた報告書を眺めていたサソリが視線を投げれば、サクラの声とは違う、低く呻く声が聞こえてきた。

「うッ……」
「我愛羅?!」

 腰を浮かすサソリの声で目が覚めたのか、テマリとカンクロウも唸りながら身を起こす。そしてサクラは我愛羅の頬に手を当て、眉間に皺を寄せる男の顔を見下ろしながら声を掛ける。

「我愛羅くん、我愛羅くん! 聞こえる? 私よ、サクラよ! 我愛羅くん!」

 必死に我愛羅の名を呼ぶサクラの元に、覚醒したテマリとカンクロウが身を乗り出して近付いてくる。

「我愛羅! 起きたのか?!」
「おい、我愛羅! しっかりするじゃん!」
「起きろ、坊ちゃん!」

 わーわーと己を呼ぶ声に、どうやら本当に意識を取り戻したらしい。唸りつつも我愛羅はゆっくりと瞼を開け、数度瞬く。そうして揺れる視覚が捕えたのは――己を覗き込む、酷い顔色をしたサクラたちだった。

「我愛羅くん……! よかった……!」

 我愛羅の目が完全に開き、視界が己を定めたことを見て取ったのだろう。サクラの瞳から大粒の涙が雨のように――あるいは流星のように流れ出す。
 しかし何故サクラが泣いているのか瞬時に理解出来ず、一体どういうことかと視線を周囲に彷徨わせる。だがそこにいるテマリもカンクロウ、そして何故かいるサソリも、泣いたり笑ったりと忙しない。

「よかった……! よかったな、我愛羅……!」
「あ〜……。一時はどうなるかと思ったじゃん……」
「よっく言うぜ。小娘が寝ずに看病してた後ろでグースカ寝てたくせによ」
「うっさい!」
「うるせーじゃん! 俺たちだってギリギリまで起きてたっつーの!」
「胸張って言うんじゃねえよ、バーカ」

 ああ、なんだ……。そうか。俺は、まだ――

「…………生きてる」

 呟く我愛羅の声が聞こえていたのだろう。カンクロウはすかさず「当たり前じゃん」と鼻を啜りつつも笑い、テマリも「簡単に死なせてたまるか」と震える唇を歪めて無理やり笑みを浮かべる。
 そんな二人とは対照的に、サソリは「ま、よかったんじゃねえの」と吐き捨てるように呟くが、皆と一緒になってこちらを覗き込んでいたからそれなりに心配はしてくれたのだろう。

 そして再びサクラへと視線を戻せば、未だに涙を流す翡翠がゆっくりと細められ――嫋やかに微笑んだ。

「――おかえりなさい。我愛羅くん」

 鉛のように重かったはずの手の平を、やわらかな頬に向けてそっと伸ばす。

 以前の、互いの事を何も知らないままの頃であれば、サクラはその手に怯え身を引いただろう。対する我愛羅も、傷つける以外の目的で他人にこの手を伸ばしたことは殆どない。

 だが今は、全く違う意図をもってその手を伸ばす。
 驚くほど指先の感覚が鈍くなっていることに最初は気付かなかったが、寄せられた白い頬に手の平全体で触れ、軽く撫でてからあることに気が付き目を細める。

「……サクラ」
「なに?」

 声も思ったより出てこない。風が抜けるような音しか出ない自身の口元に耳を近づけるサクラに、我愛羅はそっと口角を上げ、呟いた。


「――ただいま」


 サクラの頬に触れる指先が伝えてくる。彼女の流す涙はこんなにも暖かいのだと――我愛羅はこの時初めて知ったのだった。