互 -08-
我愛羅が戻ってきた時、サクラはテマリと共に夕飯を作っていた。
「あ。お、おかえりなさい……」
「……ああ」
いつもならサクラの出迎えに柔らかな声音を返す我愛羅だが、今日は違う。
暗く淀んだ瞳にふらつく足取り。あちこちについた砂を払う手の動きは緩慢で、まさに『心ここにあらず』という状態だ。
サクラは咄嗟に腕を伸ばしたが、その指先が届く前に我愛羅はそれを断った。
「大丈夫だ。一人でいい」
「でも、」
「いいんだ。……一人に――暫く、一人にしてくれ……」
我愛羅がサクラの言葉を遮ることなど今まで一度としてなかった。何だかんだと言って人の話は最後まで聞く男だ。
だが今はサクラの言葉は勿論、声すら聞きたくないと言わんばかりにそれを遮り、自室に向かって歩き出す。
途端に払いきれなかった砂が一歩踏み出す事に衣服から零れ落ちるが――それは単なる砂のはずなのに――何故か我愛羅の体から滲み出る血痕のように思えてならなかった。
「我愛羅……」
「我愛羅くん……」
戻ってこないサクラを不審に思ってキッチンから出てきたテマリも、未だかつてない空気を纏う弟を見て息を飲む。そうしてただ茫然と、二人して億劫そうに階段を上っていく背中を見送った。
そこでふとテマリは足元に視線を遣り、零れ落ちた砂に触れてから眉間の皺を深くする。
「これ、我愛羅の砂じゃないな」
「え?」
「あの子のチャクラを感じられない。サクラ。悪いけどこの砂、片してくれるか?」
「あ、はい」
立ちあがったテマリに言われ、サクラは箒を取りに行くため駆け出す。が、すぐさま我愛羅が消えた廊下を振り返り、唇を噛んだ。
(……何かあったんだわ。あんな風に傷ついた我愛羅くん、あの長期任務の時以来かもしれない)
取り出した箒で点々と残る砂を片付けながら、辿り着いた我愛羅の自室の前で立ち止まる。
今までは多少覚悟を必要としながらもノックできた扉も、今は遥か彼方の、手の届かない場所にあるかのように見える。
(――我愛羅くん)
心が見えないから何と言えばいいのか分からない。感情を露にしてくれないから、その想いに触れることが出来ない。
向き合いたくとも向き合えない。
俯く我愛羅の表情が読み取れない。
近付く度に遠ざかっていく、寂しい心にサクラの手はまだ届かない。
(どうして、上手くいかないのかなぁ……)
我愛羅は決して泣かない。
サクラのように思いを吐露することも、涙として形に表すこともない。ただじっと胸の奥にすべての感情を押し込め我慢する姿は、今にも溢れそうな満杯のバケツのようにも見えた。
ならばどこにも捨てることが出来ない感情はどうなるのか。これ以上溜めることが出来ないほどに溜まった思いは、悲しみは、どうやって昇華されるというのか。
言葉にもせず、涙にもせず。外に出すことの出来ない感情はきっと今も我愛羅を傷つけているはずなのに。
(私、どうしたらいいのかな)
我愛羅がサクラを気に掛けたように、サクラも我愛羅に向かって手を伸ばしたかった。
情けなくも縋りつこうとした腕に何も言わず、逆にいつの間にか握っていてくれた手を今度は自分が握り返したかった。我愛羅の不器用な優しさは確かに伝わっているのだと、教えてあげたかった。
我愛羅は『自分には何も出来ない』と言った。だがサクラにとっては違う。周りに誰も味方がいない中、唯一自分の手を取ってくれたのは我愛羅だけだ。
針の筵に立とうとしていた自分を遠回しに止めようとしてくれたのも、辛い現実に耐えられず泣いた夜に傍にいてくれたのも、舞い散る砂塵から守るように襟巻を巻いてくれたのも、全て我愛羅だけだった。
――その恩を、今度こそ返したい。
分かりづらくも決してサクラを突き放しはしない、あの不器用な手をもう一度――今度は自分から取りたかった。
「……サクラ」
我愛羅の部屋の前で立ち尽くすサクラの後ろから、夕餉の用意を終えたテマリがそっと近づき肩に手を置く。その手先からは気遣う気持ちが窺えたが、結局はサクラもテマリもその扉をノックすることは出来なかった。
「気持ちは分かる。けど、今はそっとしておいてやろう。私たちに出来ることは何もないんだから」
テマリの言葉にサクラは手にしたままの箒を強く握りしめる。そうしてゆっくりと振り返れば、サクラと同じように辛そうな顔をしたテマリが閉め切られた扉を見つめていた。
「……そう、ですよね……」
――出来ることは何もない。
テマリはそう言った。我愛羅も、そう言っていた。
だがそうは思わない。テマリも我愛羅も、やり方が分からないだけなのだ。本当は出来るのに、方法が分からないから躓いているだけなのだ。
ただそれだけのことなのに、二人は気付いていないだけなのに――どうしてこんなにももどかしいのだろうか。
無言になる二人の元に、全てを知る男の声が響き渡る。
「帰ったぞ」
「ぁ、おかえり。父様」
聞こえてきた声は家主でもあり、里長でもある羅砂のものだ。それに反応したテマリが慌てて階段を下りていく。
普段ならば父親が帰れば出てくる男も、今は動く気配すら感じられない。
だからこそサクラは何か声をかけようとし――結局何も言葉が見つからずに口を噤んだ。
物言わぬ扉に背中を向けた途端胸が締め付けられたのは、孤独な我愛羅を一人残す罪悪感からだろうか。それとももっと他の何かだろうか。
分からぬままサクラは暫し逡巡し――結局は諦めて階段に足を下した。
冷たい床は春になっても冷たく、サクラの体から体温を奪っていくようだった。
◇ ◇ ◇
その後、我愛羅が食卓に下りてくることは終ぞなかった。
常ならば風影と共に卓を囲むのだが、我愛羅を呼びに行こうとしたカンクロウすらテマリが制した。いつもならここで二言三言他愛ない口喧嘩が始まるのだが、何も言わない風影に何かを察したのか、カンクロウは何も言わず席に着いた。
――寂しい家族だと思う。
相手を気遣っているように見えて、その実その小さな優しさが仇となって相手を傷つけている。それが自身へと跳ね返り、互いが互いを傷つけあっている。
優しさも気遣いも裏目に出る。そんな不器用な家庭にサクラは胸がいっぱいになっていた。
その後も結局我愛羅は姿を見せぬまま、食事も風呂も終え、皆それぞれ部屋へと戻って行った。サクラも初めは素直にそれに従った。だがどうしても我愛羅のことが気にかかり、眠ることも明日の準備をすることも出来ずに悶々としている。
そうして長いこと悩んだ末、意を決して冷たい廊下へと出る。
「我愛羅くん」
呼びかけはしたものの、案の定返事はなく扉は沈黙を保っている。だが我愛羅が眠っていないことは経験上分かっている。そもそもにおいて我愛羅は守鶴のせいで眠ることが出来ないのだ。例え一瞬落ちていたとしても、サクラの声と気配に気付き目を覚ましているはずだ。
だがそれでも反応がないことを見ると、本人が言うように一人になりたいのだろう。
とはいえここで引き下がるわけにはいかない。
サクラは意を決して再度声を掛ける。
「あのっ、ご飯……持ってきたよ」
いつかのように、サクラの両手には僅かな食事を載せたトレーがある。こちらに攫われた時とは完全に真逆の立場だ。
だがあの時と同じように返事はなく、サクラはもう一度深く深呼吸した後ドアノブに手をかけ――それを回した。
(やっぱり。開いてる)
すんなりと開いた扉の向こう。そこにはあの時と同じようにベッドに寝そべる我愛羅の姿があった。
だがその背はピクリとも動かず、欠けた三日月のように沈黙している。
「ご飯、ここに置いておくね。食べないと、体、もたないよ」
サクラが話しかけても我愛羅は反応しない。まるで死人のようなその背中に、暫し逡巡した後足を向けた。
「……泣いてるの?」
狭いベッドの上、床に両膝をつきながら寝そべる我愛羅の背中にそっと、指先だけで触れてみる。
最初は片手で――けれど次はゆっくりと額を押し当て、少し角度をずらして頬で触れてみる。それでも我愛羅が何も言わないので、今度はそっと背中に触れていた手を腹へと滑らせ、少しだけ体重を預けてみた。
まるでだらしなく我愛羅にもたれかかるような格好になるが、サクラは背中に当てた耳から聞こえてくる鼓動に安堵していた。
「…………いや」
そうして暫くの間黙って心音を聞いていると、ようやくか細い返事が返ってくる。その消え入りそうな、蚊の鳴くような声にサクラは「そう」とだけ返した。
閉じられた窓の向こうには、いつかと同じ満天の星空が広がっている。
だが月は、どこにも見えなかった。
「ねえ。星、綺麗だよ」
「…………」
「今日はね、月が見えないの。だから、いつもより綺麗に見えるのよ」
「…………」
我愛羅は何も言わなかった。ただ繰り返される呼吸と心音だけが我愛羅がここにいる証だった。
見えない三日月はサクラに背を向け、悲しみに打ちひしがれている。
サクラは自身の声を必死に届けようと、幾度となく振り返らぬ背中に言葉を投げ続けた。それこそ、他愛ない自分の昔話も交えて。
「あのね、我愛羅くん。私ね、実は木の葉にいた時は、あまり星って見たことがなかったの」
「…………」
「何でかって言うとね、一緒に星を見てくれる人が傍にいなかったから。だって友達は皆家に帰っちゃうし、家にいてもお母さんがいないと一人ぼっちだし……。お父さんは、もういなかったし……。だから自分が『一人だ』って思いたくなくて、ずっと本ばかり読んで、『一人ぼっち』の現実から逃げていたの」
砂隠よりも人口が多く、夜もどこか賑やかであった木の葉での日々を思い出す。
サクラは母親のいない部屋の中で一人黙々と本を読み、己の世界に、本の世界に入り浸って現実から目を背けていた。
けれど閉め切った窓の向こう。ふと意識を戻せば人の話し声が聞こえてくる。
甲高い女性の声。低く笑う、男性の声。騒がしく何事かを叫び回る子供の声。そうして、それを叱る誰かの声――。
あたたかな家族の灯りが、窓の外から漏れてくる。
サクラがとうの昔に失くした光景が、そこには広がっている。
それを直視することが出来ず、また聞き入れることも出来ず、半ば八つ当たりするかのように乱暴にカーテンを引いて耳を塞いだ。あたたかな光景から目を逸らすように、暗い部屋に閉じこもって妄想の世界へと逃げ込んだ。
――だが今は、あの頃とは違う。
「でもね、今は違うよ。今はもう、あの頃みたい本の世界に逃げたりしない。追われるように字を追ったりしない。私は、私の意思で自分の行きたい場所に行くわ」
目の前の現実から逃げず、キチンと向き合って生きていく。
サクラはそう決めた。そう決心した。だから今ここにいるのだと、曲がりなりにも伝えなければいけない。
「だからね、我愛羅くん。私、我愛羅くんの傍にいたいからここに来たんだよ。もうあなたを一人にしたくないから、一緒にいたいから、ここに来たんだよ」
トクトクと、柔らかな心臓の音が耳朶を打つ。だが相も変わらず拒否することもしなければ受け入れることもしない背中に、サクラは遂に押し迫った。
「……ねえ……。我愛羅くんは今、寂しいの?」
「………………いや」
「じゃあ、悲しいの?」
「………………」
――肯定。
沈黙は肯定だった。涙を流せない我愛羅の、底知れない悲しみがサクラの胸に静かに響き渡る。
「ねえ。どうして――、どうして今、我愛羅くんは悲しいの?」
「…………」
我愛羅はひたすら黙している。
だがサクラは何も言わず、急かすことも、咎めることもせず、ただ待つ。我愛羅が自分の声で、言葉できちんと形にするまで、傍を離れる気などなかった。
おそらく我愛羅もそれが分かっているのだろう。だから敢えて示唆することはしなかった。
ただじっと、そこから動かず、我愛羅の体温を感じていた。
刻一刻と時が過ぎるのを肌で感じながら、我愛羅が歩み寄ってくれるのを待っていた。
「…………かった……」
どれほどの時間そうしていたのか。
ようやく聞こえてきた声にサクラが身じろげば、我愛羅はすすり泣くような声で、かつてない程に震えた声で「出来なかった」と呟いた。
閉じていた瞼を開けた先にいたのは、胎児のように背中を丸めて蹲る――一人の“少年”だった。
「……なにが出来なかったの?」
「――何も。……なにも、出来なかった」
ゆっくりと乗り上げたベッドの先――。耐え続けていた男の内側に波紋が広がる。今にも零れそうな感情たちが、戦慄く唇から零れ出す。
「我愛羅くんは、何がしたかったの?」
「変わりたかった。…………変えたかったんだ、自分を」
――だけど、出来なかった。
強張る体が、動いた両腕が自分を守るように交差する。胎児のように丸めた背中が、抱え込まれた膝が、サクラから逃げるようにして小さくなっていく。
「どうして、変わりたかったの?」
「何も出来ない自分が嫌だったから……。だから、変わりたかった……」
丸くなった胎児は、ただの子供だった。
兵器でも忍でもない。ただ一人の――愛を知らない、孤独な少年だった。
だからこそサクラは手を伸ばす。ようやく触れることが出来るほどに近付いた男の背に、手を当てる。
「俺は何も出来ない。誰かを助けるなんて無理だったんだ……。戦争を止めるなんて、人を殺してばかりいる俺が誰かを助けるだなんて、そんなの初めから無理だったんだ……!」
「どうして、そう思うの?」
「俺には無理だ……。人を傷つけることしかできない……。殺して、奪って、また殺して……ッ!」
そこまで話すと、我愛羅はギリッ、と音を立てて歯を食いしばる。だが次の瞬間には、普段聞くことのない、血を吐くような激情が全身から迸った。
「もう嫌だ! 俺はいつまで人を殺せばいい! この手も、この体も、服にも、砂にも、血の匂いがこびりついて離れないんだ……! あと何度繰り返せばいい……? あと何度繰り返せば、俺は血を浴びずに済む? いつまで続ければ解放される? もう嫌だ! もう誰も殺したくなんかないのに! 俺は“殺戮兵器”なんかじゃない! 一人の“人間”だ!!」
叫ぶ我愛羅の声に窓が震える。
閉じた窓の外、満天の星空が涙のように光っては夜空を彩っていく。
だがこの四角い部屋の中には星の光は届かない。ただ我愛羅の震える喉が、血を吐くような思いが、空気を震わせ消えていく。
それでもサクラはヒシヒシと伝わってくる想いに瞼を伏せ、その背に、想いに、触れていく。
「……辛いのね」
「もう、イヤだ……。いやなんだ……。もう誰も殺したくない、誰も傷つけたくない……。もう……独りに――なりたく、ない」
溜め続けてきた想いがついに溢れだす。
深い深い心の奥底から、押さえ続けてきた感情が、願いが、湯水のように溢れだす。
「独りはいやだ……もう…………いやなんだ……」
「うん……。独りは、寂しいもんね」
震えて蹲る少年に、ただ手を伸ばす。
指先で触れた体は硬く緊張し、そっと撫でた瞬間怯えたように全身を跳ねさせる。そんな寂しい少年の体を、サクラはゆっくりと抱きしめていく。
「痛いもんね。他人を傷つけるのも、自分を傷つけるのも、どっちも同じくらい痛くて、辛いもんね」
「……うっ、く……!」
二人分の体重を乗せたベッドがギシリ、と鈍い音を立てて軋む。
それでもサクラは気にせず我愛羅の体に両腕を回し、無防備に曝け出された心に、体に、一つずつ触れていく。
「誰も傷つけたくないから、誰にも傷つけられたくないから、あなたは一人でいようとするのね。でも、それはとても寂しくて、辛いこと。分かっていても、独りになるしかなかったのね」
「だって……俺の手は、俺と言う存在は、いつも誰かを傷つける。だから、だから初めから期待しない方がいいんだ。手を、伸ばさない方がいいんだ」
――俺が関わったら、その人は不幸になってしまうから。
そんな寂しいことを言う男に、ようやくサクラは「これがこの人の本心なのだ」と気付く。そして同時に、何故サクラを避けてきたのかを理解する。
おそらく我愛羅は近付くサクラを傷つけないように、もしサクラに裏切られても自分が傷つかないように、離れることで互いを“守っているつもり”だったのだ。
そして我愛羅はサクラと同じように『変わろう』としていた。背反する気持ちを抱きながら、それに葛藤しながら。それでも変わるために努力し続けてきたのだ。
だが我愛羅は人を傷つけることしか学んでこなかった。教えられてこなかった。
誰かに優しくされることも、優しくすることもなかった。だからどうすればいいのか分からず、結局冷たい言葉で突き放すしかなかった。
そうすることでしか相手も自分も守れなかったのだ。
それが互いの心を傷つけていると知りながらも、今更止めることなど出来なかった。
「でもね、我愛羅くん。人は傷つけあうことで初めて分かりあうことが出来るのよ」
「………………」
「ぶつかって、喧嘩して、時には殴り合って――。そうしてお互いの気持ちをぶつけあって、初めて相手が本当に何を考えているのかが分かるの。そうしないと、分かりあえない時があるの」
「……だが、だが、俺の手は――」
ギュッと自身を守るように回された腕が、指先が、白く染まるほどに袖を握りしめる。殻に籠るように自身を守ろうとする。
だからサクラはその手に指を馳せると――一本一本、労わるようにその指を引きはがし、自身の両手で包む様にして握り込んだ。
「――我愛羅くんの手は、優しい手だよ」
「ッ、」
丸くなっていた少年の背が跳ねるようにして僅かに伸びる。そうして驚いたように振り返ったその瞳は――満月のように丸く、まっすぐとサクラを映し込んでいた。
「今まで一人にしてごめんね。それから、ありがとう。ずっと私を守ろうとしてくれて。助けようとしてくれて。いつだって、傍にいてくれて――本当に、嬉しかったよ」
濡れた翡翠の瞳が、星の光を反射させるように瞬く。
何度も、何度も、何度でも――。まるで目の前の光景が嘘ではないのかと疑うかのように、何度も瞬いては自身の指を包む熱に唇を戦慄かせる。
――信じてもいいのかと、無言で問いかけてくる。
だからこそサクラは包んだ指先に力を籠め、我愛羅が自分自身を受け入れられるようになるまで言葉を重ねるつもりだった。
「大丈夫だよ。確かに我愛羅くんは沢山の人を傷つけてきたし、殺してきた。それは私も分かってる。でも、でもね? 人ってそれだけじゃないと思うの。我愛羅くんが今こうして悩んで、傷ついている姿を、私は誰よりも知っているわ。この手だって……ほんの少し不器用だけど――優しくて、あったかい手だってこと、私は知っているわ」
微笑むサクラの言葉に、それでも我愛羅は苦しむ様に表情を歪める。そうして再度何かを噛み殺すように強く目を閉じると――次の瞬間にはその手を振りほどこうとする。
「違う。そんなことはない」
「いいえ。それこそ我愛羅くんの思い込みよ。私にとってあなたの手は、決して傷つけるだけの手なんかじゃないわ」
「違う! そうじゃない! ……ちがうんだ……。俺の手は、お前が言うような手じゃない。俺の手は、おれの……手は……」
しかししっかりと握りこまれた手を完全に振りほどくことが出来ず、我愛羅は再び俯くようにして視線を下げてしまう。
それでもサクラはその手を離すことなく、己の熱を移すかのように強く握り込んだ。
「……そうね。どんなにここで言い募っても、私は今まで我愛羅くんがどんな風に生きて来たのか、何をしてきたのか。何も知らないわ。それに目の前で仲間も殺されている。それを忘れたことはないわ」
「――ッ!」
ビクリ、と俯いた我愛羅の細い肩が跳ねる。もはや我愛羅にとってサクラはただの捕虜ではない。母とは違う。家族とも違う。それでもある種『心の拠り所』とも呼べる少女の言葉に、血の気が引いていく。
だがサクラはそんな我愛羅に喝を入れるようにその名を呼ぶ。
「でも、今は違うでしょ? 私を守ろうとしてくれたでしょ? 誰かのために――自分のために、私のために、この手で変わろうとしたんでしょう?」
「そ、れは――」
「だったら、あなたの手は傷つけるためだけの手なんかじゃないわ」
サクラとて同じだ。幾ら我愛羅より少ないとはいえ、他人の命を奪ったことはある。
それこそ先の戦がそうだ。サソリと共同開発した毒薬で一体何人の人が死んだのか。それを思うと人の事をとやかく言える資格などどこにもない。
「だが、俺にはお前のような力はない……。誰かを助けるための手じゃない。……奪うための、殺すためだけにある手だ。……そうなるよう育てられ、生まれてきた手だ……」
消え入りそうな声で、今までひた隠してきた思いを形にする。そんな迷子の子供のような姿に、サクラはただ首を振る。
フルフルと頭の動きに合わせて静かに揺れた毛先は、いつの間にか鎖骨の下まで伸びていた。気付けば砂隠で過ごした日々は、木の葉にいた頃よりもずっとサクラを成長させていた。
「違うよ、我愛羅くん。あなたの手も私の手も同じよ。同じなの。奪うことも、助けることも出来るのよ」
「……俺には無理だ……そんなこと、出来ない……」
サクラの目の前で、手の中で、徐々に意気消沈していく。折角昇った月が落ちそうになる。
だがそんなことはさせない。
サクラは一度その手をしっかりと握りしめると、次の瞬間には離し、項垂れる我愛羅の肩に手を置き力強く後ろに引いた。
「そんなことないわ! あなたの手は私にちゃんと届いたもの! 縋って甘えるばかりだった私に、我儘ばかり言って何も見えていなかった、見ようとしていなかった私の手を、あなたはちゃんと握ってくれたわ!」
「……サ、クラ……」
後ろに引かれた反動で顔を上げた我愛羅の瞳に、再びサクラが映る。
同じ翡翠の瞳が、生まれて初めて、本当の意味で重なり合った瞬間だった。
「私はずっと自分の事ばかりだった。自分が可哀想で可哀想で仕方がなかった……。我儘で、自分しか見ていなくて……でも、孤独だった私をあなたはちゃんと見てくれたわ。助けてくれた。手を伸ばしてくれた。傍にいてくれた。それがどれだけ嬉しかったか――……分かる?」
「……いや……」
瞬く我愛羅はじっとサクラを見つめる。
俯いていた翡翠の瞳に星が広がる。世界が、光を取り戻していく。
「私、あなたの手が好きよ」
「――――ッ」
「手だけじゃないわ。あなたの不器用な所も、本当は優しい心も。その瞳も、赤い髪も、あなたの匂いだって、全部大好きよ」
「…………」
目を見開く我愛羅にサクラはゆっくりと肩の力を抜き、我愛羅の肩から手を離す。そうして呆然と、放り出された手を再度取ると、そっと自身の頬に押し当てた。
サクラの少し日に焼けた頬に、力のない、渇いた指先が触れる。その瞬間戦慄くように指先が震えたが、サクラは気にせず頬を寄せ、目を閉じた。
「――あったかい手。ほら、触って? 大丈夫よ。あなたの手で私が傷つくことなんてないわ」
「だ、だが……」
不安を漂わせる我愛羅に、サクラはただ「大丈夫」と繰り返す。そうして寝台についていたもう一方の手に腕を伸ばし、そっと手の甲を撫でた。
「ッ!」
「大丈夫よ。ほら。ね? あなたが触っても私、ちゃんと生きているわ」
ゆっくりと持ち上げた手を、先に触れさせていた方とは逆の頬に押し当てる。そうして頬全体で渇いた手の平を感じながら、サクラは微笑んだ。
「大丈夫よ。だから、触って?」
「…………」
困惑していた我愛羅の震える指先が、サクラの閉じた瞼の下。睫毛の影にそっと触れてくる。
その手つきはまさに『恐る恐る』と言った、今にも割れてしまいそうな壊れ物を触るかのようで、思わず笑ってしまう。
「フフッ。大丈夫よ。私、そんな簡単に壊れたりしないわ。だからほら、もっと強い力で触って。絶対に大丈夫だから」
「うぁっ、」
そう言って笑うや否や、我愛羅の手首を掴み、自らその手に頬を押し付ける。
指先だけでなく、指の腹や関節、手の平の内側の柔らかい所すべてにサクラの柔らかな頬が当てられる。
初めて触れた吸い付くような柔肌に、指先で触れて初めて産毛があることに気付く。
手の平の内側。緊張で熱くなるそこに、サクラの頬の内側から発せられる熱が伝わってくる。
――生きている。
この手で触れても傷つかず、サクラはちゃんと生きている。
「……サ、クラ……」
「うん」
我愛羅の瞳から、胸の奥に溜め続けていた思いが溢れ出す。
星の光が降り注ぐように、乾いた頬の上を走り出す。
それはいつかの雨のように、降り注ぐ満点の星空の光のように、溢れる思いが軌跡となって零れていく。
「俺は、おれ、は……!」
「うん。なあに?」
我愛羅の手がサクラの頬を撫でる。紡ぐ声が、子供のように震えだす。
だからサクラがそっと腕を伸ばせば、我愛羅の腕が迷子のように背中へと縋りついてくる。
「――ッ! サクラ……!」
「うん。大丈夫、大丈夫だよ。私はここにいるよ。ずっとここに、一緒にいるよ」
今まで我慢してきたものを全て吐きだすかのように、我愛羅はサクラに縋りついた。何度も何度も、つっかえながらも呼ばれる名前に反応しながらふと思う。
もうこの名を、数多の人たちから幾千と呼ばれたはずなのに――この時初めてサクラは自分の名前に意味があるように感じた。
ただ呼ばれているだけなのに、だ。
――それなのに、初めて己の名前に深く感謝した。
この人が気兼ねなく呼べる名前でよかったと、心の底からそう思った。
「大丈夫だよ。我愛羅くん。我愛羅くんはもう独りじゃないよ。私がいるよ。ずっと一緒にいるから――。だから、もう独りだなんて言わないで」
傷だらけだった。
我愛羅も、サクラも。互いが互いを傷つけあい、時に馴れ合い支え合いながら、それでもどこかで互いを傷つけていた。
『他人を傷つけることしか出来ない』と、心を閉ざしてきた我愛羅。『誰も信じられない』と、自分だけを守ろうとしていたサクラ。
二人は初めて互いに向けて本当の意味で手を伸ばし、その体を抱きあった。
大きいはずなのに小さな手は、赤子のように強くサクラの体を抱きしめる。
そしてサクラもまた、自身の全てで包み込むようにして我愛羅を抱きしめ続けた。
「サクラ……。――ありがとう」
途切れ途切れに聞こえてくる声の合間、聞こえてきた初めての言葉にサクラは頬を緩め、小さく首を振る。
互いに触れ合った頬は冷たく濡れていたが、混ざり合えばあたたかく、優しい匂いがした。
不器用な二人はどこまでも不器用で、互いを傷つけあいながら、それでも少しずつ向き合った。
傷つけるかもしれない。傷つくかもしれない。孤立するかもしれない。寂しい思いをするかもしれない。でも、離したくない。離れたくない。
背反する思いに、不器用で素直になれないが故に傷つけあっていた二人は、傷を埋めあうかのように背を抱き合い、心で触れ合った。
月のない天上には星が瞬き、いつまでも孤独であったはずの二人を優しく照らしていた。
欠けた月が丸くなり、元の形へと戻っていく。
徐々に落ち着いていく我愛羅の腕の中で、サクラはその背を優しく撫でながら無意識に子守歌を口ずさんでいた。
昔母から教わった、母体にいた時からずっと聞いていた曲だった。
我愛羅は何も言わずじっとその歌に耳を傾け、時折鼻を啜ってはサクラのぬくもりに目を閉じた。
――その頬は、彗星のように美しく煌めいていた。
第八章【互】了