長編U
- ナノ -

互 -04-



 我愛羅との関係を今一度考え直した方がいいのだろうか。そう悩む間にも時間は過ぎていく。初めは胸を躍らせていた終業時間も、迎えてみれば何だか気が重く感じた。

(どうしよう……。確かに今はあの人に甘えてる。でもそれって、本当にしてもいいことなの?)

 躊躇なく人を殺すことが出来る我愛羅が本当の姿なのか、それとも血の匂いを嫌い、穏やかに星を眺めている姿が本当なのか分からない。
 忍なのだから人を殺すことも任務として当然あるが、それでもあそこまで徹底して無表情を貫けるものなのだろうか。
 医療忍者のサクラは毒薬で他者の命を奪ったことはあっても、直接クナイや拳を使って相手を殺したことはない。自身の力があまり暗殺向きではないことと、医療現場にいることの方が多いための結果だった。それにサクラの使用する毒は殆ど血を流すことはない。勿論恐ろしい薬を作ろうと思えば作れるが、そこまでする必要もなかった。
 現にサクラは殺すことよりも治療する方に価値を置いている。金儲けのために劇薬を作る輩と一緒にされるのだけは御免であった。

「……おい、何処へ行く」
「ひえっ?!」

 考え事をしながら歩いていたせいか、正門を過ぎたことに気付かず歩き続けるサクラの背に聞き慣れた声がかかる。慌てて振り返れば、呆れた表情をした我愛羅が立っていた。

「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてて……」
「それは見て分かった」
「うっ」

 謝罪するサクラを容赦なく一蹴した我愛羅ではあるが、内心では昨夜のように落ち込んでいないことに僅かに安堵していた。これでも昨日の今日で出勤したサクラを心配していたのだ。
 だが公私混同せず仕事はきっちりこなせるらしいサクラにそれ以上は追及せず、ただ「帰るぞ」とだけ告げ、背を預けていた塀から離れる。

「あ、あのっ」
「何だ」

 ゆっくりと歩き出した我愛羅は半歩後ろを歩くサクラに視線を流す。だがサクラはすぐには口を開かず、暫し間を置いた後に「ありがとう」と呟いた。

「何がだ」

 我愛羅はまだ衣服を渡していない。なのに何故礼を言われるのかと瞬けば、サクラは吹きすさぶ風に肩を竦めつつ口を開く。

「だって、こんな寒い中迎えに来てくれたから。それに、あの日の夜も……ずっと扉の前にいてくれたでしょ?」
「ああ……」

 結局礼を言えず仕舞いだったことと重ね合わせて頭を下げれば、我愛羅は「気にするな」と告げてから前を向く。
 サクラからしてみれば真似出来ないようなことであっても、我愛羅からしてみればああする以外に方法がなかっただけなのだ。だから礼を言われる筋合いもなく、むしろ謝罪しなければいけないのは自分の方だとすら思っていた。

「俺は何もしていない。ただそこにいただけだ」
「でも、それでも、私は嬉しかったわ」
「……そうか」

 視線を下げるサクラに我愛羅はどう返していいか分からず、結局いつも通りの返事をしてしまう。
 それに新しく話題を持ち出そうにも引き出しが少なく、何より疲れているであろうサクラにこれ以上言葉を投げるのもどうかと思い口を噤む。結果二人の間には沈黙が降り、サクラは気まずそうに視線を泳がせた。

(あの患者さんの足を潰したのは我愛羅くん……なん、だよね……。私の仲間を殺したのも、今まで敵だったのもこの人なのに……私、どうしてこの人に頼ろうとしてるのかな……。強い、から?)

 悩むサクラの足取りは重い。以前の我愛羅ならそれを咎め急かしただろうが、今ではサクラに合わせてゆっくりと歩いている。冷たい風が吹いても、我愛羅はサクラを急かさなかった。

(本当は優しい人、なのよね。人柱力だから、周りに人がいなかったからこうなっただけであって、本当はすごくすごく……優しい人。そう、だと、私は思う)

 風よけの襟巻や外套を持っていないサクラにそれらを貸してくれたり、勝手に泣いて喚いたサクラを怒ることもしなかった。
 それに寒い中、何も言わずサクラの傍にいてくれた男を、ただの残虐非道な男だとは思えなかった。

(そうだ。私、彼のこと何も知らないんだわ。もっとちゃんと、彼のことを理解しないと。上辺だけで判断したって何も見えないもの。彼の考えていることも、彼が本当はどんな人なのかも。だから、ちゃんと向き合わなきゃ)

 サクラにとって我愛羅は仇である。
 憎い敵であり、仇であり、また同じくらい恐怖の対象でもあった。
 だが今はそう思えないでいる。我愛羅の不器用な優しさを、サクラは誰よりも強く感じているからだ。

(捨てなきゃ。私、我愛羅くんに対する固定観念が強く根付いているからちゃんと彼のことが見えないんだわ。もっとちゃんと、真正面から向き合わなくちゃ。じゃないといつまでたっても先に進めないもの。例えこの地に味方がいなくても、それと彼とは関係ないもの。確かに彼はこの里の人間だけど、我愛羅くんは……我愛羅くんなら、きっと――)

 守鶴の言葉が脳裏をよぎる。
 我愛羅が自分に対し心を開いたら、胸の呪印を解くと。
 だが今はそれさえもどうでもいいと思えた。我愛羅は自分を殺さない。昨夜の揺れた瞳を思い出せば、自然とそう思えた。

(甘えてばかりだから自分の嫌な所ばかりが見えるんだわ。だから、もう甘えない。ちゃんと自分の足で立ってみせる。やるわよ、サクラ! 私なら出来る! 絶対に負けないし、諦めないんだから! しゃーんなろー!)

 心の中で自分に喝を入れ、ぐっと背を正したサクラに我愛羅は僅かに目を見張る。だがこれと言って口を開くことはなく、ようやく隣に並んだサクラに何も言わず歩幅を合わせた。
 たったそれだけの事なのに、サクラの背を押すには十分だった。それに何より、我愛羅の匂いがする外套があったからこそ一歩を踏み出すことが出来た。

「我愛羅くん!」
「ッ、何だ」

 突然張り上げられた声に我愛羅の肩が僅かに跳ねる。が、サクラは気にせず視線を向ける。その瞳は今までとは違い、一等星のように強く瞬いていた。

「昨日は本当にごめんなさい。勝手なことばかり言って」
「いや……」

 サクラの突然変異に我愛羅はついていけていなかったが、それでも自然と口は動いた。これもサクラと過ごした時間の賜物かと頭の片隅で思っていれば、当の本人であるサクラは視線を上げ、暗くなった空を見上げる。

「私ね、今まであなたに甘えてた」
「…………」

 突然語られだす思いに我愛羅は僅かに困惑する。それでも静かに耳を傾けた。今は無駄な言葉など必要ないと思ったからだ。まぁ、文字通り『返す言葉がなかった』とも言うが。

「誰もいないと思っていたの。知り合いも、友達も、先生も、頼れる人も、仲間と呼べる人だって。だから私のことを本当に分かってくれる人なんて、ここにはいないと思ってた」

 サクラの思いは我愛羅にも理解出来た。
 我愛羅自身思い当たる節がある。誰も自分のことを理解してくれない。話を聞いてくれない。それがいかに辛くて寂しいか、我愛羅はよく知っている。

「でも、我愛羅くんが見てくれた」
「俺が?」

 サクラの口から出た自身の名に目を瞬かせれば、サクラは「うん」と頷き頬を緩める。それは我愛羅が初めて見た、サクラの心からの笑みだった。

「私、嬉しかった。私のことをちゃんと見てくれている人がいることが。気にかけてくれる人が傍にいるのが、こんなにも嬉しくて、有難いことだなんて知らなかった」
「…………」

 甘えてばかりの自分が嫌だった。だが何も話さず、何も言わず、それなのに自分を理解して助けてくれだなんて、そんな虫のいい話通るわけがない。誰がどう考えても無理だ。そのことに今更だがようやく気付くことが出来た。
 だからこそこうして、我愛羅に向かって素直に心中を吐露することが出来る。

「正直言うとね、今でも木の葉に帰りたいとは思うよ。でも、出来ないからって不貞腐れるのはダメだな、って思ったの」

 拗ねてばかりいては何も始まらない。膝を抱えても、不貞腐れても、自分から動きださねば周りも、他の何もかもが変わらない。
 それをサクラはこの地で嫌というほどに体験した。だからこそ、初めは純粋な思いからではなくとも、動いたからこそ我愛羅と向き合おうとすることが出来たのだと思う。
 良くも悪くも、サクラはもう自分にも我愛羅にも想いを偽ることをしたくはなかった。

「私、自分に何が出来るのかまだ分からない。我愛羅くんのことも、この里のことも、私、何一つ知らないってことに気が付いたから」
「……そうか」

 サクラの声が凛とした涼やかな空気の中に木霊する。今までのすすり泣くような、鈴を細かく揺らしたような不安定な声音ではない。奏者が明確な意図をもって鳴らす楽器のような、力強い声だった。

「だからね、私もっとあなたのことが知りたい」
「?!」

 我愛羅はてっきり自分がお払い箱になるものだと思っていた。もう自分一人で歩くから、不甲斐ないあなたなど必要ないと言われるのかと思っていた。
 だがそんな考えとは裏腹に、むしろ正反対の言葉がもたらされ耳を疑う。自分にとって都合のいい言葉に変換しているのではないかと、そんな気さえする。
 だがサクラは相変わらず煌めく瞳で我愛羅を見つめていた。一等星の如く輝く、あのラピスラズリよりももっと明確に、鮮烈に目を引く――眩しいほどに魅力的な瞳に我愛羅を映し込んでいた。

「私、今度こそ本当の意味で我愛羅くんのことが知りたい。何を思っているのか、どうしたいのか。私ばかりがあなたに頼るのは、もう辞めたいから」
「……そ、う……か」

 宝石のように輝きだしたサクラに対し、我愛羅はというと――。悲しきかな。サクラとは正反対の感情に支配されていた。

(そうか……。サクラはもう、一人で歩こうとしている。ならば俺の力は、もう必要ないのだろうな……)

 こんな時どんな言葉を返せばいいのか分からない。
 一等星の如く輝くサクラの瞳を見返すことが出来ない。自分とは違い、再び光の中に向かって歩こうとするサクラを、我愛羅はどう応援し、補佐すればいいのか分からなくなっていた。

 だが戦争を止めること、そして彼女を砂隠から解放すること。その二つだけは諦めてはならない。それだけは確かだ。だからこそ改めて決心する我愛羅の隣で、何も知らないサクラは再び我愛羅を煽ぎ見て笑みを深める。

「私、もうあなたに寄りかかるのは辞めるわ。あなたの背中に縋るのも、あなたの腕にしがみ付くのも、もう辞める」
「……そうか……」

 サクラが離れていく。自分の傍から、自分の元から。
 唯一自分を必要としてくれた人が離れていくのがこんなにも寂しいものなのかと、懐かしい痛みに胸が疼く。

 だがサクラはそんな、独りで沈み込んでいく我愛羅の手を強く握った。
 夜の大気に冷えた冷たい指先だったが、その奥に感じる体温に我愛羅は目を見開き息を呑む。

「だから、今度からはもっと堂々と、あなたの隣を歩きたい。こうして話をしながら、これからも一緒に歩いていきたいの」
「――サ、クラ、」

 冷えた大気に頬や鼻先を赤く染めながら、それでも翡翠の瞳は強く輝く。我愛羅の手を握ってくる手は小さいのに、初めてその手を力強く感じた。
 突然の触れ合いに驚く我愛羅の心中には気付くことなく、サクラは別の所で笑みを零す。

「あはっ、今我愛羅くん、私の名前呼んだ!」
「えっ。あっ、」

 ずっと“女”と呼び続けていた我愛羅が初めて自身の名を呼んだと言って破顔するサクラが、我愛羅には眩しかった。
 心中でしか呼ぶことが出来なかった名前が思わず口をついて出たことを謝罪するよりも早く、サクラは我愛羅に向かって笑みを向ける。
 ――それが何よりも、我愛羅の心を揺さぶった。

「ねぇ。今度から“女”じゃなくて、今みたいに名前で呼んでよ。いいでしょ?」
「あ、ああ」

 てっきり「嫌だ」と拒絶されるものだと思っていた。名前なんて呼んで欲しくないと、そう言われると思い込んでいた。
 何せ自分はサクラの仲間を殺している。サクラの目の前で、止める彼女を無視して虐殺の限りを尽くした。それをサクラが忘れているとは思えない。
 だからこそ我愛羅は混乱したが、サクラの声に嘘が混ざっているようには思えなかった。

(信じて、いいのだろうか。本当に? 俺が、サクラを?)

 今までとはまるで立場が変わったように明るくなったサクラについていけず、我愛羅は俄かに困惑する。
 だがすぐさま頭を振ると、その暗い想いを打ち消した。

(臆病になってどうする。サクラがもう泣かずに済むならそれでいいではないか。俺が出来ることなどもう何もない。戦争を止め、彼女を木の葉に帰す。それさえできれば俺はどうなってもいいのだから)

 里を裏切り、国を敗北に陥れれば極刑は免れないだろう。なまじ免れたとしても一生を牢獄で過ごす羽目になる。
 だがサクラが無事であるならば、サクラがまた木の葉で以前のような生活が出来るのであれば、それ以上の幸福はなかった。

 自分の人生など、もはやどうでもよかった。

「……分かった。共に歩こう、サクラ」
「うん。ありがとう、我愛羅くん」

 笑みを向けてくるサクラに軽く視線を投げ、それから揃って歩き出す。
 二人の間に会話はなかったが、気まずいと思うことはなかった。

 ――だが気付けば、取られた手はいつの間にか解かれていた。

 それでも二人は家に着くと向かい合って食事を摂った。そこでは今までよりも多くの会話が二人の間で飛び交ったが、我愛羅はどこか虚しかった。

 そうして夜が更け、月が昇った。星が瞬く夜。けれど我愛羅は結局サクラに衣服を渡すことが出来ず仕舞だった。
 面と向かって名前を呼ぶことも、並んで歩くことも出来たのに、それを渡すことは出来なかったのだ。

 老婆から入れ知恵をされたせいではない。ただ単にあの扉を超える一歩が踏み出せないだけなのだ。
 何万もの距離が離れているかのように感じた一歩は、未だ我愛羅には遠い。
 ひっそりと抱えた衣服の重みがずしりと、今度は逆の意味で圧し掛かった。

(……結局俺は臆病者、だな)

 我愛羅がサクラにと買った外套と襟巻は、誰にも知られることのないままクローゼットの奥深くへと仕舞われることになった。
 そしてその日、サクラが星を見に来ることはなかった。