長編U
- ナノ -

互 -02-



 我愛羅が木の葉丸との面会を終え、戻ってきた頃にサクラは家を出ようとしていた。

「あっ」
「…………」

 部屋の扉を開けた瞬間、階段を上り終えたばかりの我愛羅と遭遇し言葉に迷う。だが我愛羅は何も言わず自室の扉を開け、中に入って行った。

(……何も、言われなかったな……)

 昨日の今日だ。
 殺そうとして結局出来ず、甘えて縋って泣くだけの自分に愛想を尽かしてもおかしくはない。幾ら同じ孤独を知る間柄であったとしても、結局我愛羅も他里の人間なのだ。
 そう考えて僅かに肩を落としたところで、閉まった筈の扉が再度開いた。

「女、今日は冷える。使い古しだが着て行け」
「え、」

 何も言わず部屋に戻った筈の我愛羅が、緋色の外套を手に戻ってきた。それは風よけの襟巻とは違い、我愛羅の装束と似た色がサクラを包み込む。

「何で……」

 てっきり愛想を尽かされたと思っていたサクラが呆然と呟けば、我愛羅は「何がだ」と問いかける。
 その間も男の手は甲斐甲斐しく動き、コートの前を留めていく。呆然とするサクラはその手を跳ね除けることも、掴んで止めさせることも出来なかった。

「だって私、昨日、あなたのこと――」

 背中にクナイを突き立てた。全部嫌だと吐きだして、皆嫌いだと泣き喚いて、誰も助けてくれないから助けてくれと縋った自分に我愛羅が応えるとは思えなかった。
 所詮我愛羅は砂隠の人間。幾ら同じ孤独に身を置く人間であっても根本が違う。だから自分の想いなど届くはずがないと心のどこかで諦めていた。
 だが我愛羅は今もこうしてサクラを気遣っている。それに対しどんな態度で接すればいいのか、サクラは分からなくなっていた。

「昨日のことは昨日のことだ。仕事があるんだろう。遅刻しないよう早く行け」
「……うん、ありがとう」

 ずっと小柄だと思っていたのに、緋色のコートは少しだけ大きかった。
 背丈は変わらずとも我愛羅は確かに男なのだ。そんな当たり前のことを、こんな些細なことで実感する。彼の優しさを、改めて思い知ることになる。

「……それで? 何時に終わるんだ」
「え?」

 思わず泣きそうになり俯くサクラに、我愛羅は僅かに迷ってから口を開く。
 その無愛想な口から出てきた言葉に驚きつつも、咄嗟に終業予定時間を伝えれば我愛羅はそうかと頷いた。

「あの……」

 何故そんなことを聞くのだろうかと上目で見上げれば、我愛羅は数度瞬いてから顔を逸らし、出てきたばかりの扉に手をかけた。

「……迎えに行く」
「え」

 不器用な我愛羅が見せたストレートな優しさに目を開く。だが驚いている暇もなく我愛羅は扉を開け、再び自室に戻ろうとしていた。

「ぁ……ま、待ってる! 私、待ってるから!」
「……待つのは俺だろう」

 サクラが咄嗟に返した言葉に思わず突っ込みを入れる我愛羅であったが、すぐさま「いいからもう行け」と手を振り、今度こそ自室に戻った。

(私のこと、見捨てないでいてくれた……)

 閉じた扉の前でサクラは瞬き、滲みそうになる涙をグッと堪えてから唇を噛みしめる。そうして一度深く深呼吸し、震える心を落ち着けると、乾いた唇を開いた。

「いってきます」

 扉の向こうから返事はなかったが、サクラは気にせず階段を駆け下り外に飛びだす。

 我愛羅の言う通り外は寒く、風が冷たく吹いたが気にならなかった。
 緋色のコートからは昨夜布団の中からした匂いと同じ匂いがする。自分とは違う匂い。父とも母とも違う、他人の匂い。それなのに、サクラの心は不思議と落ち着いた。
 誰にも感じたことのない――家族に感じるものとはまた違った、安堵にも似たあたたかな感情がふつふつと湧きあがってくる。

(私のこと見てくれた。私のこと気にしてくれた。迎えに来てくれるって言った。私のこと、ちゃんと――)

 浮かぶ涙が風に当たって冷えていく。だがサクラは気にすることなく病院に向かって駆けて行く。頬を切る冷たい風にも、舞い散る砂塵にも負けず大地を踏みしめる。

(我愛羅くん)

 サクラの腕は、確かに届いていた。
 卑怯なやり方だったかもしれない。存外心優しい男を利用する、姑息な手だったかもしれない。

 それでも、それでもサクラの声は確かに届いていたのだ。それが何よりもサクラの心を軽くした。
 分かりあえないと思っていた男と、利用すると決めた男と、サクラは今支え合っていた。
 正しく考えればそれは“裏切り”なのだろう。木の葉に対しても、我愛羅をただの兵器にしたい砂隠に対しても。だがそれでも、サクラにとっては大事なことだったのだ。

 何故なら我愛羅は、ある意味サクラにとって『もう一人の自分』とも呼べる人間だったのだから。
 周囲にいる、信用できない人物よりよっぽど頼りになる。互いの気持ちを理解出来る。そんな相手が一人でもいることがこんなにも心強いことだとは、サクラもこの時まで知る由がなかった。


 ◇ ◇ ◇


「で? 坊ちゃんとあの小娘をどうする気なんだ? 風影様よ」

 我愛羅から面会の報告を受けた羅砂は、風影室からじっと里の様子を見下ろしていた。四方を砂漠に囲まれた、己が守るべき里を。
 その後ろでは両腕を組んだサソリが気だるげに壁に背を当て、里を見つめる羅砂に視線を投げていた。

「ったく、朝方急に呼び出したかと思えば我愛羅の後をつけろだなんて言いやがってよ。おかげで面倒なことに巻き込まれちまったじゃねえか」
「そうだな」

 我愛羅は木の葉丸とまともに話が出来ず、大した情報が得られなかったと報告した。
 ――だが羅砂は端から我愛羅を信じてはいなかった。
 我愛羅に面会の許可を出した後、側近の者にサソリに我愛羅の後をつけるよう言い渡し、サソリから改めて報告を受けていたのだ。

「それにしても、坊ちゃんも男だったんだな。あの小娘助けるために里を裏切るなんてよ。大した覚悟だぜ」

 我愛羅の後をつけ、木の葉丸との会話を全て聞いていたサソリはニヒルに口の端を上げる。今までずっと他人に興味などなく、自分のことにしか目を向けていなかった男が随分進歩したものだと笑う姿に、羅砂は何も言わなかった。

(やはり流されたか。愚か者め)

 男と女はどうなるか分からない。
 例え初めは憎しみ合っていたとしても、情が生まれてしまえば途端に絆されてしまう。流されてしまう。それが分かっているからこそ他人に興味を持てない我愛羅を監視役に付けたのだが、結局我愛羅も絆されてしまった。
 いっそのこと初めからサソリを監視役につけていればよかったか。と今更ながらに後悔するが、過ぎた時間は戻って来ない。羅砂は自身の判断ミスに軽く嘆息した後、サソリを振り返った。

「本当ならば今すぐにでも二人を切り離すべきではあるが、終戦していない今、両者を失うのは痛い。まだ暫く泳がせておく」
「ほぉん? まぁいいけどよ」

 壁から背を離すサソリの不敵な笑みを視界の端で捕えつつ、羅砂は席に着き、変わり始めた我愛羅のことを思い出す。

(まさかアレが自ら閉じこもっていた殻から出てくるとはな。春野サクラ……少し見誤っていたか)

 我愛羅が自分に話しかけてきたのは、まだ上手く砂の力が操れずにいた幼少の頃と、任務や処遇について疑問を抱いた時ぐらいだ。そう多くはない。
 だが記憶にある我愛羅と今朝接してきた我愛羅は、別人のように表情が違っていた。

「良くも悪くも独り立ちしようとしてるってわけか、あの坊ちゃんも。惚れた女のためにっつー思いは怖いねぇ」
「茶化すな、サソリ」

 咎める羅砂にサソリは肩を竦め謝罪する。だが性根悪く事の成り行きを楽しんでいる様は伝わってくる。とはいえ、サソリの言い分も分からなくはなかった。
 今までずっと自分の世界に籠っていた我愛羅が、初めて誰かのために歩き出そうとしている。例えそれが自分や姉兄を裏切る行為であったとしても、止まることはないだろう。

 昨夜耳にしたサクラの叫びは、他の誰でもない――我愛羅の叫びでもあったのだから。

(我愛羅もあの娘と同じ気持ちを抱いている。アレは未だに独りだ。だからこそ助けたいと思う。そうすることで己が満たされたと錯覚する。愚かな子供だ)

 だが人は時に愚かだと分かっていてもその道に進む時がある。我愛羅もまたその一人になろうとしていた。羅砂はそれを止めるべきか否か、ハッキリと決断出来ずにいる。

「ってことはだ、これからは俺が坊ちゃんと小娘の両方を監視するってことになるのか?」
「そうなるな」
「マジかよ……」
「そう言うな。お前にしか頼めんのだ」

 我愛羅のことになるとテマリもカンクロウも僅かだが過保護になる。関係が修復できていないからこそ、どんな形でもいいから助けてやろうとする。
 サクラに関しては他の者にも監視は頼めたが、我愛羅を監視することは皆嫌がる。
 命の保証がないからだ。
 一歩間違えれば殺されてしまう。その恐怖を抱えてまで我愛羅を監視することが出来る者は多くない。

「バキも優秀な忍だが、我愛羅と共にいた時間が長すぎる」
「あいつぁガキに甘いからな。しょーがねえよ」

 特にあんたらんとこのガキに対してはな、という言葉は飲み込み、サソリは視線を投げる。
 サソリが我愛羅とサクラの関係に目をつけていたのは、随分と前からだった。

「給料上げてくれるつーならこの仕事、引き受けてもいいぜ?」
「……善処しよう」

 最初に疑問を感じたのは、サクラが一尾について問うてきた時だった。
 勿論初めに尾獣や一尾について説明したのはサソリであったが、それからも度々サクラは一尾について聞きたがった。しかしそれは我愛羅が足に負傷を負ってからで、それに対し疑問を抱いたせいかと当時は受け流した。
 だが次第に我愛羅の名前がサクラの口から頻繁に出るようになった。
 初めはテマリやカンクロウとのことばかりだったのが、徐々に我愛羅の名前も出るようになったのだ。それは何て事のない些細なものではあったが、サソリからしてみれば随分と興味深い変化であった。

「坊ちゃんのことをどうするか、決めておいてくれよ。小娘は殺したって構わねえが、坊ちゃんは里の人間だ。殺したところでまた次の器が必要になる。そうなりゃまた一からやり直しだぜ?」

 一尾が暴走する度に大量の血が流れ、家屋が破壊され、死者が出る。それらの始末や後片付けにも時間がかかるのに、新たな人柱力の育成は更に時間がかかる。今は我愛羅が上手くその力を操り抑えてはいるが、我愛羅を失えば一尾は再び暴れまわるだろう。
 流石に一尾の相手はサソリでは荷が勝ちすぎる。暗にそう伝えてくる部下に、羅砂は「分かっている」とため息交じりに返す。

「だがあの娘を殺すことで事態が解決するわけでもない。我愛羅の自我が崩壊すればそれこそ守鶴の思うつぼだ。奴の好きにはさせん」
「分かってくれているならいいぜ。あと給料さえ上げてくれれば俺はどんな仕事でもする。ま、知ってるだろうがな」

 羅砂にとってサクラは他者でも、我愛羅は違う。今は兵器として戦場に出してはいるが、少なからず大切に思っている部分もある。だがその思いを殺さねば風影など務まらない。羅砂は再び心を鬼にし、サソリに任務を言い伝えた。

「サソリ、これは特別任務だ。春野サクラと我愛羅を監視し、不穏な動きがあれば即時捕えて幽閉しろ」
「了解」

 ニヒルに笑うサソリが出ていくのを見やった後、羅砂は疲れたように長く息を吐きだし、椅子に背を預けた。

(――加瑠羅)

 羅砂は己の妻の名を心中で呼びながら机の引き出しに手を掛け、二重底の蓋を開ける。
 そこには幼い頃のテマリやカンクロウ、加瑠羅と夜叉丸が柔和な笑みを浮かべたものや、幼い日の我愛羅のものまで、様々な写真が仕舞われていた。
 中々家に帰ることの出来ない羅砂のために夜叉丸が撮り、加瑠羅が教えてくれた保管方法を密かに実践していたものだ。

(すまない、加瑠羅)

 妻が必死に息子を守ろうとしていることは知っている。絶対防御が守鶴の術ではないことも、我愛羅が本当は母に愛されていることも知っている。
 だがそれらを伝えることは出来なかった。里のために、我愛羅には兵器として存在してもらわなくてはならなかった。
 それは決して父親としての、羅砂としての願いではない。だが“風影”として決断せねばならなかった。そのうえ、これは国からの要望でもあったのだ。
 砂隠は国の支援が無ければ存続できない。だからこそ羅砂は我愛羅と己を天秤にかけ、父親としての自分ではなく、風影としての自分を取ったのだ。

「……俺はダメな父親だな」

 生まれたばかりの我愛羅をまともに抱き上げることも出来なかった、写真の中でいつまでも微笑み続ける妻に向かって手を伸ばす。
 その白い頬に触れた指先は、写真の冷たく硬い感触しか感じなかった。二度と触れることが叶わない愛する妻は、変わることなく写真の中で微笑み続けていた。