覚悟 -06-
結局サクラはその日眠ることが出来なかった。空を見上げても星はなく、月すら見えない夜空は厚い雲に覆われ、静かに過ぎていく。
守鶴によって不眠だという我愛羅は一体どのようにして眠れぬ夜を過ごしてきたのだろうか。
サクラは読書すらする気になれず、死んだようにベッドに横たわるだけで、指一本動かすことすら億劫であった。
(眠れない……。星も見えない……。我愛羅くん、今どこにいるの?)
静寂が耳に痛い夜は恐ろしいほどにゆっくりと、いっそ緩慢と思えるほどに静かに過ぎていった。
――そして迎えた翌日、サクラはサソリに連れられ再度講習会に出ていた。
病院で使い物にならなかったと報告があったのだろう。だがサソリはサクラを咎めることはせず、「今日は午前の講習だけで仕事終わりな」と告げただけだった。
サクラはただ頷いた。反論も、抗議の声も出なかった。そんな資格自分にはないと半ば諦めていた。
「では今の内容を忘れないでください。今日の講習はこれで終わります」
「ありがとうございました」
淡々と行った授業も終わり、時刻は昼を迎えた。
気付けば太陽の位置はほぼ真上へと昇っており、サクラは一人、生徒が出て行った静かな教室で使った資料を纏めていた。
砂隠に来たばかりの頃、出入り口にテマリが座っていたあの講義室だ。
(こっちに来てそんなに経っていないはずなのに、懐かしいと思うなんて変な感じ)
当時テマリが座っていた、出入り口付近にある椅子に近づき腰かける。あの時は褒められても嬉しくはなかったが、今ではきっと喜ぶことが出来るだろう。
誰かに必要とされることがどれほど心を満たすのか。ようやく真の意味で理解出来るようになっていた。
(我愛羅くん、今までずっとこんな気持ちだったのかな……。こんな気持ちを生まれた時から抱いたまま、今まで独りで生きてきたのかな……)
誰もいない講義室から見える景色は木の葉と然程変わらない。元気に外を駆け回る子供たちに、通りを歩く人々。争いさえなければ砂隠も存外穏やかだ。
戦時中ということもあり人々の表情は決して明るいとは言えないが、それでも誰かと共に話しながら歩いている姿は酷く羨ましかった。
(――独り、か)
静まり返った講義室に響く音はない。ただサクラの呼吸する音だけが鼓膜を揺らし、乱れぬ心音がそれに呼応する。
誰の声もしない。――サクラも、サソリも、チヨも、我愛羅の声さえ、ない。静かな、まるで棺桶の中にいるようだった。
「……戻ろう」
帰る場所はない。厄介になっている家はあっても、結局は自由に歩き回れる監獄と何も変わらない。
監視のような視線が向けられる。非難するような視線が向けられる。一切の興味関心を持たない、無機質な視線が向けられる。地下で過ごした冷たい監獄と、何も変わらない世界だった。
「ゥ、くっ……!」
キリリっ、と再び胃が痛む。無理やり食べ物を詰め込んだ胃が腹の中で暴れまわる。
サクラは音を立てて扉を開けると近場のトイレへと駆け込み、昨日と同じく胃の中の物を全て吐きだす。ギリリッ、と壁に立てた爪が音を立てて下がっていく。
「うっ、げほっ! ごほっ、ごほっ……うえ……っ」
戦慄く胃や喉を焼く胃液よりも、胸が苦しくて涙が出た。
結局チヨの言葉に奮うこともなく、またより一層へこむことしか出来ない。“可哀想な自分”から抜け出すことが出来ない。我愛羅に甘え、その存在に頼っている情けない自分を見つめることしか出来ない。弱い自分から、いつまでたっても抜け出すことが出来ない。
「ぅうっ……げほっ、」
繰り返す咳と共に胃液が口の端から零れ落ちていく。それらを紙で拭いつつ、音を立てて鼻を啜る。
弱い自分が嫌だと思いながら、我愛羅に甘えている自分自身を嫌悪しながら、それでも尚、今の自分は我愛羅を待っている。
早く我愛羅に会って声を聞きたかった。何でもいいから話がしたかった。笑いもしない、怒ることもない。けれど決してサクラを独りにしない、同じ孤独の中にいる男の帰りを待っていた。
「うっ……うぅ……」
泣いてばかりの自分が嫌ではあったが、それでも涙は止まることなく溢れてくる。もう泣くような心などないと思っていたのに、まだこの体からは涙が溢れてくる。
“可哀想な自分に酔っている”というチヨの言葉が何度も脳裏に浮かんでくるが、それでもソレを止めることは出来なかった。
ただ誰も居ないトイレの個室の中で、汚物を流すこともなく泣いている。惨めで弱い、迷子の子供がそこにいた。
◇ ◇ ◇
雨は比較的早い段階で上がった。テマリとカンクロウの言葉を無視し続けた我愛羅は案の定上から下までびしょ濡れとなり、肌に張り付く衣服に顔を顰めた。
「あーあ……。だから言ったのに」
「風邪引いたらどうするつもりじゃん」
「構わん。どうせ放っておいてもすぐ治る」
人柱力故か、我愛羅の治癒能力は高い。怪我もそうだが、病気に関してもそれは変わらない。チャクラの量が関係しているのか尾獣の能力かは分からなかったが、我愛羅はあまり怪我や病気で苦しんだ記憶はなかった。
「それより早く戻るぞ」
「え? あ! おい、我愛羅!」
「ったく、自由にもほどがあるじゃん」
(――妙な胸騒ぎがする)
我愛羅は窪みに置いていた瓢箪を肩にかけると、先程より僅かにスピードを上げて走り出す。
普段とは違い濡れた大地が足を汚す。だがそれに構っていられるほど余裕はなかった。里はまだ遠い。明日には戻れるだろうが、出来る限り早く戻ってやりたいと思った。
――単なる勘でしかなかったが、呼ばれているような気がしたのだ。
それは出来ることならばサクラがよかったが、父親でも構わないと思う。だが風影である父親が我愛羅の帰りを待つことはないだろう。ならばやはりサクラだと思った。先程の雨がそうであったように、サクラが泣いているような気がしたのだ。
(――泣くな)
例えその涙を拭うことが出来なくても、助けることが出来なくても、気の利く一言が言えなくても――傍にいることは出来る。
他人を傷つけることしか出来ない手さえ伸ばさなければ、涙を流すサクラの傍にいることは出来る。それしか出来ないけれど、何もしないよりかは、独りでいるよりかはマシだと思ったのだ。
己もそうであったように。己にとってかつての夜叉丸がそうであったように、我愛羅もまた、サクラの傍にいてやりたかった。
(泣くな、サクラ)
何も出来ない無力な自分だけれど、兵器として、他人を傷つけることしか出来ない自分だけれど。それでも、サクラは我愛羅を拒絶しなかった。
知りたいと言ってくれた。歩み寄ってくれた。それだけで、我愛羅は確かに嬉しかったのだ。
誰にも必要とされず、兵器としてしか見てもらえなかった自分を“人”として見てくれた。それだけでサクラの傍にいる理由は十分だ。
何かしてやりたいとは思う。だが今の自分に出来ることは何もない。人を傷つけるだけの両手を伸ばすことは出来ない。
それでもサクラと共にいたかった。我愛羅自身がそう思ったのだ。そう、願っているのだ。
ただ彼女の傍にいたいのだと――。
星を掴むことは出来ない。ただ眺めることしか出来ない。そうと分かっていながらも、その星から目を離したくはなかった。
濡れた大地は走り辛い。それでも我愛羅は広大な砂漠を駆け続ける。
逸る気持ちだけが先に行く。彗星のように彼女の元に飛んでいけたらいいのに。と、そんならしくないことを考えては空を仰ぐ。広がる曇天は徐々に周囲に流れ、彼方の空からは青空が見え始めた。
――それでもまだ、青空は遠かった。
◇ ◇ ◇
結局我愛羅たちが里に辿り着いたのは、雨が降った翌日の夕方だった。
「疲れた……。我愛羅、お前飛ばしすぎじゃん……」
「ほら、カンクロウ。しっかりしな。今日は夜営が入っていないんだ。帰ったら即行で寝ればいいだろう?」
だらけるカンクロウの背を叩き、風影邸へと足を向けるテマリの前を息を乱すことなく走り続けた我愛羅が歩く。その背に疲れという文字は見えなかった。
(だけど、あの我愛羅が何でまた急に?)
サクラとそこそこ話をしたり食事を共にするようになったことは知っていたが、それにしても妙だと首を傾ける。
実際今も風影邸を目指す我愛羅の足取りは早い。我愛羅に合わせて走り続けたテマリとカンクロウを労わる様子はなく、一人でさっさと見慣れた道を進んでいく。それは今に始まった事ではないので大して気にはならないが、テマリは砂で汚れた頬を拭いながらまさか、と考える。
(あの子たち付き合ってんじゃないだろうね?! いや、我愛羅も年頃だし、サクラだって恋愛したいかもしれないけど……! いや、でもなぁ……)
それにしたってわざわざ我愛羅を選ぶだろうか? と、ぶっきらぼうで何を考えているか分からない弟の背を見つめる。
昔に比べ幾分か大きくなったとはいえ、まともに睡眠がとれていない体躯は恵まれないままだ。それに比べ夜は快眠のテマリとカンクロウは随分と身長が伸びてきた。カンクロウに至っては成長痛が痛いと時々ボヤく程である。徐々に出来つつある身長差を我愛羅が気にしているかどうかは分からないが、颯爽と歩き続ける我愛羅の背はやはり小さく見える。
「なぁ、テマリ」
「何だい、カンクロウ」
収穫の無かった任務を終え、疲労だけが残った肩を回しながらカンクロウがテマリにだけ聞こえるよう話しかけてくる。
「最近の我愛羅さ、何か変わったよな。俺らに対してはいつも通りだけど……なんつーかさ、」
「ああ、言いたいことは分かるよ」
自分たちに対する態度は相変わらずでも、サクラに対する当たりは優しくなったと思う。任務に出る前、サクラに手渡していた襟巻を思い出してもそう思った。
あの山吹色の襟巻はかつて夜叉丸が使用していた物だ。初めは買い替える際捨てようとしていたのだが、幼い我愛羅がそれを欲しがったのだ。夜叉丸は自分のお古を我愛羅に渡すことを渋ったが、結局強請る我愛羅に負け、それを譲った。
優しく柔らかな色をしたその襟巻を、幼い頃の我愛羅は何よりも気に入っていた。砂が飛んでいようがなかろうが、手放すことなく終始身に着けていた。
――夜叉丸が死ぬまでは。
(でも、大事に取ってたんだね。ちょっとくたびれてたけど、虫に食われた様子もなかったし。……よかったな、夜叉丸)
辿り着いた風影邸の入り口で、我愛羅は纏わりついた砂を払い落とすとすぐさま歩き出す。テマリとカンクロウはその逞しくも小さな背を眺めながら遅れて扉を潜り、風影室で待ち構えていた我愛羅と共に報告を行った。
◇ ◇ ◇
「……そうか、ご苦労だったな」
任務は失敗に終わったが、風影は責めなかった。はなから期待していなかったのかもしれない。そう思ったが口にすることはなく、後で報告書を提出するようにとだけ受け、風影室を後にした。
結局我愛羅は大蛇丸と自来也と話したことは黙っていた。
「しかし大分暗くなったな。早く帰って飯にしようぜ」
「そうだな。冷蔵庫の中何かあったっけ?」
話し出すテマリとカンクロウの声を背に受けつつ、我愛羅は風影邸を出てから二人を振り返る。
「俺は女を迎えに行く。先に戻っていろ」
「あ? ああ……。別にいいけどよ。今から行くのか?」
「明日でもいいと思うんだが……」
目を瞬かせる姉兄に我愛羅は首を横に振る。我愛羅の胸騒ぎは未だに収まってはいなかった。
「サソリに対する信用がない」
「ハッキリ言いすぎじゃん……」
「気持ちはわかるけどさ……」
苦笑いする二人に背を向け、我愛羅は走り出す。
サソリの実家と風影邸はそう遠くない。昔何度か通ったことのある道を思い出しつつ駆け抜ければ、丁度窓を開けたサソリと目が合った。
「おう、おかえり。坊ちゃん」
「女は何処だ」
互いの第一声がここまで噛み合わないのも珍しいだろう。
そう思いつつも我愛羅は訂正せずに返事を待つ。そんな我愛羅にサソリは案の定呆れたように吐息を零し、後ろ頭を掻く。
「お前なぁ……もちっと他に言うことあんだろうが」
「お前にか? ないな」
窓に足をかけ、室内に入る気も退く気もない我愛羅にサソリは再び長い吐息を零す。今度のそれは呆れよりも諦めの色の方が濃かった。
「あーもう、分かったから降りろ。すぐ小娘連れて行くからよ」
「分かった」
サクラ以外の人間の前では相変わらずの我愛羅にサソリは肩を竦め、指先で玄関を示してから部屋を出る。
我愛羅からしてみればサソリはある程度信頼できるが、サクラを任せることが出来るほど信用はしていなかった。
とにかくサクラを待とうと、我愛羅は窓から身を翻し玄関先に着地する。
地面は既に渇いていた。
(そういえばまだ晴れてはいないな。ならば今夜星は見れんか……)
暗くなった夜空を見上げ、腕を組む我愛羅の背後から話し声が聞こえる。三日程聞いていなかった声が酷く懐かしく感じられた。
「我愛羅くん!」
「……待たせたな」
玄関が開き、見えた顔に我愛羅は内心安堵する。
近付いてきたサクラは泣いてはいなかった。だが顔色が悪いと思った。暗がりだからそう見えのかもしれないが、密かに我愛羅は違和感を覚えた。
「久しぶりじゃの〜」
「元気にしてたかよ、我愛羅」
「こんばんは。お久しぶりです」
面倒臭そうな表情を引っさげたサソリの背からチヨとエビゾウが顔を出す。今にもギャハギャハと笑いだしそうなチヨたちに向かい、我愛羅は丁寧に頭を下げた。
チヨとエビゾウも我愛羅と言葉を交わす数少ない人間である。無碍には出来なかった。
「おいババア。坊ちゃんは任務から戻ってきたばっかなんだよ。無駄話させてねえでさっさと部屋戻れや」
「挨拶ぐらいよかろうに。はっはーん、さては小娘を取られて悔しいのか? このロリコンめっ」
「埋めんぞババア!」
始まった口論に我愛羅が顰め面を作れば、呆れた表情をしたエビゾウが二人に向かって手を振る。
「ほらお前たち、姉ちゃんたちの事はほっといてさっさと帰んな」
「失礼します」
「お世話になりました」
「気を付けてな〜」
手を振るエビゾウに見送られ、頭を下げた二人は同時に顔を上げて歩き出す。ちらりと横目で見たサクラの荷物は少なかった。
元より奇襲をかけて攫ってきた身だ。彼女の手荷物が少ないことは誰よりも知っているはずなのに、何故かそれが心苦しい。
とはいえそれを上手く伝えられる我愛羅ではないので、当たり障りない言葉しか出てこない。
「変わりはなかったか」
「うん」
我愛羅の少し後ろを歩くサクラの声が背にかかる。先程のテマリたちと立ち位置は然程変わりないはずなのに、姿が見えないことが酷く不安だった。
「……女」
「ん?」
我愛羅は未だに公の場以外でサクラの名を呼んだことがない。そもそも呼んでいいかが分からなかった。だから今もこうしてサクラを“女”と呼ぶ。だがサクラがそれに対し怒ったことは一度もない。だから余計に呼び辛くもあった。
「俺はお前の監視を任されている。あまり後ろを歩くな」
本当はただ隣を歩いて欲しかっただけなのだが、どう言っていいか分からず高圧的な物言いになってしまう。他人とまともに関係を築いてこなかった弊害がここに来て現れる。それが今更ながらに悔やまれた。
だがサクラは怒ることも慄くこともせず、首を傾けながら我愛羅に伺う。
「えっと、じゃあ……隣、いい?」
「……好きにしろ」
こんな時もどう返していいのか分からない。
悩んだ末に出した答えは酷くぶっきらぼうで冷たく、不安を抱く。だがサクラは気にした様子もなく「うん」と頷き、我愛羅の隣に並ぶ。
横目で盗み見た顔は、やはりどこか疲れているように見えた。
「……本当に、何もなかったのか?」
泣いてはいなかった。涙の跡もない。
だが我愛羅はサクラが泣いたような気がしてならなかった。確証はないが、何故かそうに違いないと確信していた。
「……大丈夫だよ」
我愛羅の問いかけをサクラは肯定も否定もしなかった。やはり何かあったらしい。
だが今の我愛羅はそれを聞きだすための言葉を持ち合わせていない。
こんな時どうすればいいのかが分からない。
確かに傍にいることは出来る。だが逆に言えばそれしか出来ることがない。辛い思いをさせたくはないと思ってはいても、傍にいること以外で何が出来るのかサッパリ分からない。
自分と同じような孤独を感じて欲しくないと思っているのに、我愛羅にはどうすればその『孤独感』を癒してあげられるのかが分からない。
何せ自分も未だに孤独の中にいるのだ。自分が出来ないことを他人に施してやれるはずなどない。
「…………」
――星でも見に行くか?
そう誘おうと口を開いたが、生憎今日は雲が広がり、星が見える様子はない。
結局我愛羅は他に話題を探すことが出来ず口を噤んでしまい、二人の間に沈黙が降りる。
(こんなことならばもっと本を読んでおけばよかった……)
今更後悔した所で後の祭りだ。言葉は湯水のように溢れては来ない。
結局自宅に辿り着くまでの間、二人の間にそれ以上の会話はなく、辿りついた自宅でもサクラはテマリたちと楽しげに会話を交わし部屋へと戻った。
自分はまた何も出来なかった。
我愛羅は自室のベッドに寝転びながら手の平を眺める。
サクラのことが気にかかっていても行動に移せない、無力な手の平を見つめては何度も開閉する。隣の部屋からすすり泣く声は聞こえず、夜は静かに更けていった。
眠れぬ夜がまた一夜、我愛羅の体を包み始めていた。